「国民に幸せを与えてくれた」ブータン国王が称賛した日本人サッカー監督の貢献と冒険の日々

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サッカーのブータン代表は、かつて世界最下位決定戦を戦ったこともある弱小チームだ。この国のサッカーを変えるべく、日本サッカー協会は2008年からさまざまな人材を現地に派遣してきた。サッカー以前の障壁に苦しみつつも着実な成果を上げた2人の指導者が、ブータン駐在当時の思い出を語った。

「幸せの国」のサッカーと日本の深い関係

北を中国、東西南をインドに囲まれたブータン王国は、面積は九州とほぼ同じ(3万8400km2)、人口わずか87万人の小国である。1971年に国連加盟を果たしたものの実質的鎖国状態が長く続き、GDP(国内総生産)やGNP(国民総生産)よりも国民総幸福量(GNH)という独自の価値観を重視し、国民の9割以上が自らを幸せと感じている「幸福の国」、それがブータンである。

ナンバーワンスポーツはサッカーだが、そのレベルはアジアでも最も低いところに位置する(2023年7月時点のFIFAランキング185位)。ブータンの名を一躍世界に知らしめたのは、02年6月30日、日韓ワールドカップ決勝と時を同じくして首都ティンプーで行われたブータン(当時FIFAランキング202位)対モントセラト(同203位)による世界最下位決定戦であった。

モントセラトは、カリブ海に浮かぶ火山島でイギリスの海外領土。試合の模様はドキュメンタリー映画(邦題『アザー・ファイナル』)に収められ、世界中で話題になった。結果は4対0でブータンがモントセラトを下したが、この勝利こそは00年にFIFA加盟を果たしたブータン代表にとって、国際試合における初白星であった。

世界中が注目した、ブータンとモントセラトによる世界最下位決定戦(2002年6月30日、ブータン・ティンプー)ロイター
世界中が注目した、ブータンとモントセラトによる世界最下位決定戦(2002年6月30日、ブータン・ティンプー)ロイター

そんなブータンではあるが、日本との関係は深い。22年にブータンプレミアリーグのパロFCに所属した本間和生(当時42歳。14~20年にラオスで5度のリーグ優勝と得点王に輝き、ラオスの英雄として知られる)は、18試合で34得点を挙げてチームをリーグ優勝に導き、得点王と最優秀選手賞を獲得した。

本間の活躍はこの年限り(翌23年にはタイのサムットプラカーンFCに移籍)だが、ブータン代表監督を日本人が歴任していた時代がかつてあり、現在もU-19代表監督兼アカデミーユースダイレクターを日本人が務めている。日本人はブータンに、大きな足跡を残しているのだ。

最初にブータン代表監督に就任したのが行徳浩二(現カンボジアU-23、U-18代表監督)であった。99年に始まった日本サッカー協会(JFA)のアジア貢献は、上田栄治(後のなでしこジャパン監督)のマカオ代表監督派遣を皮切りに継続的に活動を拡大し、今日も16人が中東を除くアジア全域で指導者や協会スタッフとして活躍している。

影山雅永(現JFAユース育成ダイレクター)の後を継ぎ、当初はマカオ代表監督就任を予定していた行徳が、マカオ協会から突然の断りを受けて急きょ行き先をブータンに変更したのは08年4月のことだった。

行徳が当時を振り返る。

「行き先が決まらずひと月ぐらい家で待っていたら、JFAから『ブータンはどうですか?』と連絡が来た。思わず聞き返しました。『ブータンってどこですか? 米を食べる国ですか、それとも芋? パンですか?』と。ブータンについてまったく知識がなく不安はありましたが、何年も前から考えていた海外での指導を実現できると思い、行くことを決めました」

行徳に続き松山博明(10~12年)、小原一典(12~14年)、築館範男(15〜16年)の3人がA代表監督を務め、彼ら以降も李成俊(U-14、U-17代表監督、16〜18年)から高橋秀治(U-19代表監督兼アカデミーユースダイレクター、21年~)に至るまで、5人が育成年代の監督やダイレクター、A代表GKコーチとして継続的に仕事をしている。ブータンサッカーの発展は、日本人抜きにはありえなかったのだ。

この8月に、U−18に加えてU-23カンボジア代表の監督にも就任した行徳氏 写真:田村修一
この8月、U−18に加えてU-23カンボジア代表の監督にも就任した行徳氏 写真:田村修一

牧歌的なサッカー事情

とはいえ生活環境もサッカーを巡る環境も、ブータンは日本とはまったく異なっていた。行徳が語る。

「生活で困ったことはありましたけど、たぶん僕はそういうのが好きなんでしょうね。でも食事はちょっと困ったかな。何にでも唐辛子を入れるから、何を食べてもものすごく辛いんです。子どもの食べるスナック菓子も辛い。残りご飯を犬に与えるため、犬のエサですら辛い。レストランのメニューもほとんど辛いから外食にはめったに行きませんでした」

他にも生活必需品が流通していない。食材でも肉は干し肉しか流通していない。それ以外の肉は国外から持ち込むしかなかったと行徳は言う。

サッカーグラウンドは、FIFAゴールプロジェクトにより建設されたものが1面あるだけだった。そこで国内リーグはもとより、クラブ大会、社会人大会、学校対抗戦、女子大会などすべての試合と参加する全チームの練習、代表チームの練習を行う。行徳が振り返る。

「数えたら年間250試合ぐらいやっているんです。それでピッチの維持なんてできるわけがない。芝生は剥げて、周囲に草がちょっと残っているだけ。土のグラウンドは石がゴロゴロしていて、冬は風が強く砂が舞い上がるのでいくら拾っても下からまた出てきてキリがない。逆に雨季は毎日泥んこでした」

2008年頃、国内に1面しかないサッカーグラウンドで公式戦を戦う、ブータン・ナショナルリーグ(当時)の選手たち 行徳氏提供
2008年頃、国内に1面しかないサッカーグラウンドで公式戦を戦う、ブータン・ナショナルリーグ(当時)の選手たち 行徳氏提供

上の写真と同じグラウンドに、どこから来たのか牛の姿が 行徳氏提供
上の写真と同じグラウンドに、どこから来たのか牛の姿が 行徳氏提供

現在はカンボジア協会技術委員長を務める小原一典も語る。

「協会所有のグラウンドなのに一般の人たちが勝手に使っている。俺たちが先だからと代表の練習をさせてくれなかったりとか、牛や犬が入ってきたりとか牧歌的な環境でした」

行徳も小原も、A代表の活動期間以外の時期はアカデミーの指導に時間を費やした。グラウンドの傍らに宿泊施設があり、そこではセレクションで選ばれたU-15とU-19の約20人の選手たちが学校に通いながら練習に励んでいた。しかし施設にはシャワーがなく、選手はグラウンド前を流れる川で水浴びをし、汚れた衣類を洗濯していた。再び小原が語る。

「今振り返ると毎日トレーニングができて、子供たちといろいろ関わりがあった楽しい日々でしたが、当時は試合が少なくほぼ練習のみだったので、選手も指導者もモチベーションの維持が大変でした」

刺激的で楽しかったという思いは、行徳も感じている。

「学校の先生や銀行員、軍人、警察官、協会のスタッフなどの寄せ集めで代表チームを作って、面白かったですよ。彼らは大人ですがサッカーをあまり良く理解してなくて、教わりたいという気持ちが強かった。言葉の問題はありました。通訳はいませんでしたから。トレーニング中に選手たちが僕の英語を先生みたいに直してくれることもありました。ちゃんと伝えよう、しっかり理解しようと必死にコミュニケーションを取って、自然と信頼関係が深まっていった感じですね。そのうち家に招待されるようになった。それでちょいちょい訪ねて一緒に食事をして、日本ではないような選手との関係でした」

快挙を演出した日本人監督

行徳が現地にスムーズに溶け込めたのは、その性格もさることながら赴任直後に結果を出したことが大きかった。

就任から2週間の準備で臨んだAFCチャレンジカップ(08年5月、フィリピン)こそ、タジキスタン(1対3)、ブルネイ(1対1)、フィリピン(0対3)相手に1分2敗でグループリーグ敗退に終わったものの、翌月にスリランカで開催された南アジアサッカー選手権ではバングラデシュに1対1の引き分け、スリランカには0対2と敗れたがアフガニスタンには3対1で勝ち、準決勝進出を果たしたのだ。ブータン史上初の快挙である。

ブータン代表監督就任直後、AFCチャレンジカップに挑んだ際の行徳氏(後列中央) 行徳氏提供
ブータン代表監督就任直後、AFCチャレンジカップに挑んだ際の行徳氏(後列中央) 行徳氏提供

インドとの準決勝はインドのテレビ局によりライブ放映され、全国民がテレビの前に釘付けとなった。前半に先制したブータンは、後半インドに同点に追いつかれ、延長に入っても膠着(こうちゃく)したままPK戦を迎えようとしていた。このときアシスタントコーチが、行徳にある進言をした。

「『監督、今プレーしているGKはPKが苦手だから、サブGKの方がいい。絶対に止めるから』と言ってきたんです。それで試合終了間際の相手FKになった時にGKを交代しました。交代のタイミング的には最悪でしたが、そこを逃すともう交代のタイミングがなかったから。ただ交代したGKは空中戦が苦手で、相手にFKをポーンと蹴られてヘディングで決められてしまった。GKはボールに一度も触れずに失点、そのまま試合終了。隣にいたアシスタントコーチが僕の肩をたたいて『仕方がないよ』と言った(笑)。『お前なあ!』と言い返したけどもう遅かった」

それでもインドをPK戦の一歩手前まで追い込んだことは、国民に大きな満足感を与えた。帰国した行徳と代表の選手・スタッフは王宮に招かれ国王に謁見。スポーツチームとしてはブータン始まって以来のことだった。

「国王から『たくさんの国民に幸せを与えてくれた。よくがんばった』とねぎらいの言葉を頂きました。そして『どうして最後にGKを代えたのか?』と聞かれました。『コーチが言ったから』とは言えないじゃないですか。『交代したGKの方がPKに強く、僕の判断でした』と答えました。そうしたら『いい判断だった』と(笑)」

だが、この快挙は、代表監督を歴任した4人の中で唯一無二のものであり、他の3人は一度も勝利を得ることなくその任を終えた。小原と築館に至っては、20カ月と10カ月の在任期間のうちにそれぞれ4試合しか国際試合を戦っていない。試合数の少なさが、彼らの仕事を妨げたのは間違いない。

現在はカンボジアサッカー協会で技術委員長を務める小原氏 写真:田村修一
現在はカンボジアサッカー協会で技術委員長を務める小原氏 写真:田村修一

行徳と小原は、現在ともにカンボジアで働いている。片やU-23とU-18代表の監督兼アカデミー監督として。片や技術委員長として。どちらもJFAアジア派遣である。99年から始まったアジア派遣は、今日までに延べ387人をアジアの国・地域に送り込むに至った。相手から求められるのは日本ならではのクオリティ。行徳は言う。

「アジアの中で日本の指導者は能力が高いと思います。でも言葉の問題があって海外に出る人は多くない。日本人がやればもっとよくなれるのになかなかそうはならない。もったいないなと思うことがあります。

ただ、ブータンとのつながりは途絶えさせないで欲しい。日本人が好きで日本人を信頼しているブータン人は大勢いるので、いいサポートをしてあげてほしい。ゆっくりですけれどもブータンも進化しています。だから能力のある人たちがどんどん行っていい関係を作り、もっともっと良くなってほしいです」

バナー写真:2012〜14年にかけてブータン代表監督を務めた小原氏(中央)とユース年代チームの記念写真 小原氏提供

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