ブギウギの時代―笠置シズ子と服部良一の挑戦

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黒澤明監督、三船敏郎初主演の『酔いどれ天使』の酒場のシーンで、踊り歌い、強烈な印象を残す「ブギの女王」笠置シヅ子。戦後の大ヒット曲「東京ブギウギ」は、ビールのコマーシャルなどを通じて、今でもなじみ深い。作曲家・服部良一とのコンビが近代日本の芸能史に刻んだ業績を、大衆音楽史研究の第一人者・輪島裕介氏と振り返る。

輪島 裕介 WAJIMA Yūsuke

大阪大学大学院人文学研究科教授(音楽学)。1974年金沢市生まれ。専門は大衆音楽研究、近現代大衆文化史、アフロ・ブラジル音楽研究。主な著書に『創られた「日本の心」神話―演歌をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書、2010年/第33回サントリー学芸賞)。最新刊は『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書、2023年8月)。

「ジャングル・ブギー」の衝撃

「ウワォ ワオウワオ」「私は雌ヒョウだ」とほえるように歌い、踊る女。黒澤明監督の『酔いどれ天使』(1948年公開)は、野性味たっぷりの若き三船敏郎を一躍スターダムに押し上げると同時に、全盛期の笠置シヅ子(1914~85)の迫力をスクリーンに焼き付けた。

『酔いどれ天使』の歌唱シーン(笠置シヅ子資料室所蔵)
『酔いどれ天使』の歌唱シーン(笠置シヅ子資料室所蔵)

服部良一・作曲、黒澤監督自ら作詞を担当した「ジャングル・ブギー」に合わせ、やくざを演じる三船はジルバのステップを踏む。大きな羽飾りを着け、エキゾチックな衣装に身を包む「ブギを歌う女」笠置は、小柄な体からエネルギッシュなオーラを放つ。

「この名作を通じて、何十年の時を経ても『ジャングル・ブギー』の強烈なインパクトがリアルに伝わります。笠置シヅ子の歌い踊る姿を実際に見ることができる数少ない機会を提供しているという意味でも、文化史的に重要な作品です」と輪島氏は言う。

戦前から戦後にかけて、舶来の新奇性と在来の感性をミックスした「歌と踊りと鳴り物と笑いを含む娯楽的な芸」を輪島氏は「リズム音曲(おんぎょく)」と呼び、笠置・服部をその見事な体現者と捉えている。

2人の活躍を振り返ることは、日本の大衆音楽史の通念に対する異議申し立てでもある。

「1945年の敗戦と米国による占領を契機に、日本の大衆音楽は根本的に生まれ変わったとする常識を変えたい。それは、洋楽重視の近代音楽史観と娯楽的な歌や踊りなどの実演軽視、そして東京中心の文化史観への挑戦でもあります」

「少女歌劇団」からスタート

笠置シヅ子は、1914年(大正3年)香川県で生まれ、大阪下町の銭湯を営む家族の養女として育った。最初に習った芸事は日本舞踊で、脱衣場を舞台に歌ったり踊ったりして、近所で評判になったという。

27年(昭和2年)、小学校を卒業すると、宝塚音楽学校の試験を受けるが、自伝によれば「最後の体格検査でハネられ」、大阪松竹楽劇部(大阪少女歌劇団の前身)に入団した。

14年に第1回公演を実施した宝塚少女歌劇は、宝塚音楽学校の卒業生のみによって構成され、「良家の子女」によるショーのイメージが強い。一方、宝塚を模倣して22年に設立された松竹楽劇部には庶民層出身の団員も多く、目の前の観客の興味と関心に応え満足させるための娯楽を提供するという職業意識が最初から強かった。

当初は日舞からスタートした笠置は、下積み時代を送りながら「ほとんど独学」で歌を身に付け、歌が得意なコミカルな娘役として頭角を現す。

服部良一:「メッテル先生」と「道頓堀ジャズ」

1907年(明治40年)生まれの服部は、大阪の下町で生まれた。父親は浪花節、母親は河内音頭が得意で、決して豊かではなかったが、家には蓄音機があった。幼少期には、浪曲や小唄を見よう見まねで歌ったという。

15歳で道頓堀のうなぎ屋が結成した少年音楽隊のサクソフォン奏者としてキャリアをスタートした。23年(大正12年)9月1日、関東が大震災に見舞われた当日のことである。その2年後にラジオ放送が開始されると、大阪放送局設立の楽団(後の大阪フィルハーモニック・オーケストラ)に入団する。常任指揮者に迎えられた亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテルの神戸の自宅に通い、和声学、管弦楽法、指揮法を学んだ。

服部良一(1907〜93)自選の楽曲を中心に収録(日本コロムビア)
服部良一(1907〜93)自選の楽曲を中心に収録(日本コロムビア)

服部が「道頓堀ジャズ」と呼ぶ街角のジャズにも、多大な影響を受けた。大正末期、道頓堀周辺の歓楽街では、「カフェー」(当時は洋酒・洋食を供した酒場を指す)やダンスホールにジャズが満ちあふれ、道頓堀川には屋形船で演奏するジャズバンドの姿があった。中でも、芸者がサックスやクラリネットを演奏し、タップを踏む『河合ダンス』という団体が絶大な人気を誇った。

27年末までには、取り締まり強化で大阪市内のダンスホールが全て営業停止となり、兵庫県尼崎市の阪神国道沿いがダンス文化の中心となる。服部は、フィリピン人プレーヤーを集めて「Ryoichi Hattori and His Manila Red Hat Stompers」というバンドを結成し、尼崎のホールでの実演を通じて、ジャズの腕を磨いた。

以後、オーケストラとジャズバンドを掛け持ちし、カフェーやダンスホール、放送、舞台、レコード、映画などを股に掛けて幅広い活躍を展開していく。

「レヴュー」文化を育んだ大阪

大正期末から昭和初期にかけて、人口・経済規模で東京をしのぐ日本一の大都市だった大阪では、近世以来の芸能との連続も含めて、独自の娯楽的上演文化が形成された。その代表が「レヴュー」(物語やセリフよりも歌と踊りを中心に据えたショー)だ。

「流行の発端は宝塚少女歌劇団ですが、やがて、道頓堀周辺の歌舞伎や花柳界、寄席の要素も自在に取り入れた、和洋折衷の新しい上演形態が作られていきました」(輪島)

「東京、大阪、名古屋や博多など、それぞれの都市独自の音楽・実演文化が醸成されていたのだと思います。笠置・服部のコンビが生まれたのは東京ですが、2人の才能は大阪の庶民文化に育まれ、花開いたのです」

「あえて比較するなら、東京では、知識人を中心に、輸入された楽譜や書物、あるいはレコードを通じて西洋音楽を唯一の“正統な音楽”とみなし、その模範にどれだけ忠実かを重視する傾向がありました。そうした人たちが、いわゆる“楽壇”をリードしてきたのです」

「一方、大阪では、お手本に忠実であるよりは、どれだけ自分たちにとって楽しいか、面白いかが重視されました。知識人や官僚よりも、富裕な商人たちが(文化を)主導したこともあり、新奇なもの、ハイカラなものと地元の芸能を、娯楽本位で“ゴタ混ぜ”にして受容する土壌があり、“正統性”にあまりこだわらない気風が強かったのです」

笠置・服部はともに大阪の庶民層の出身で、西洋文化受容の一環としての専門的な音楽教育は受けずに、努力と実践により技能を習得し、規範にとらわれず、観客を楽しませるための実演を重視した。その姿勢が、コンビの成功を生んだのである。

「地声」で「スウィングの女王」に

1923年の関東大震災は、大衆音楽史の一つの転換点となる。

「震災後の復興の過程で、松竹、東宝、吉本興業が東京に進出したことで、大阪の和洋折衷の娯楽的上演文化が東京でも受容され、さらに映画を通じて全国に波及していきました。主にレヴューの舞台で活躍した笠置・服部の全国的な成功の背景には、大阪文化・資本の“東漸(とうぜん)”があったのです」

服部のレッスンを受ける笠置(服部音楽出版所蔵)
服部のレッスンを受ける笠置(服部音楽出版所蔵)

32年、町村合併による「大東京」が生まれ、翌年、服部は東京移住を決意する。その6年後、笠置は、男女混成の「大人のレヴュー」を掲げる松竹楽劇団(SGD)の旗揚げメンバーとして上京する。日本コロムビア専属の作曲家だった服部は、SGDの指揮者を兼務し、笠置と出会う。

「笠置の個性が開花するのは、服部と出会ってからです。それ以前、笠置は独学ながら、声楽風の歌い方である『ベルカント唱法』にとらわれていました。無理に甲高い声を出そうとする彼女に、服部は “地声で歌いなさい” とアドバイスしたのです」

ビッグバンドで演奏する「スウィング・ジャズ」には、地声しか通用しないというのが、服部の持論だった。やがて笠置は、“タフな” 声量や声質、大阪的な “天性の飄逸(ひょういつさ)さ” が絶賛されて、「スウィングの女王」と称される。

レコードよりも「実演」重視

1928年(昭和3年)のコロムビア、ビクターなど外資系レコード会社の進出以降、レコード歌謡を指す「流行歌」という呼称が定着し、各レコード会社が歌手を専属として抱え込むようになる。レコードありきの歌作りが主流になっていた。

だが、笠置・服部は、あくまでも舞台や映画での実演を前提として作られた曲を事後的にレコーディングしている。

「ラッパと娘」(1939年)は、コンビの戦前の傑作だ。声を楽器のように用いる笠置のスキャットと、トランペットとの掛け合い(コール・アンド・レスポンス)が絶妙なこの楽曲は、笠置の個性とレヴューでの実演を念頭に服部が生み出したものだ。

「レコード会社が作る流行歌は作詞、作曲、編曲の分業制で、七五調の歌詞が先に作られ、後から曲をつけるのが普通でした。歌手の個性に合わせて曲を作るという発想はあまりなかった。服部が、曲先行で作詞、編曲も自ら手掛け、笠置の個性を生かしたオリジナル曲を生み出したことは画期的でした」

戦後は「ブギの女王」に

1941年末の日米開戦後、「敵性音楽」は排除され、米国的なレパートリーは制限される。一方、レコード流行歌やダンス音楽は、戦地や工場の慰問や劇場で実演されていた。笠置は「敵性歌手」として目をつけられてはいたが、舞台出演の機会が途切れることはなかった。

「ブギ」と名の付く作品を全て収録(日本コロムビア)
「ブギ」と名の付く作品を全て収録(日本コロムビア)

敗戦後、笠置・服部コンビの「東京ブギウギ」(1947年)が大ブレイクする。その後数年にわたり、2人は「ジャングル・ブギー」などの連続ヒットを生み、笠置は「ブギの女王」として時代のアイコンになっていく。

「『スウィング』は当時のビッグバンドによるジャズの演奏スタイル全般を指し、そのなかで『ブギウギ』は切れ目なく続くベースラインが基本の “踊らせる” リズムと言えます。笠置の歌や演奏スタイル自体は、戦前と戦後で大きな違いがあるわけではなく、それを受け取る戦後の人々の気分の中で、新しい意味が与えられていったのです」

1948年、日劇公演『ジャングルの女王』で(笠置シヅ子資料室所蔵)
1948年、日劇公演『ジャングルの女王』で(笠置シヅ子資料室所蔵)

「そこには、戦後民主主義的なもの、米国文化に対する憧れもあったでしょうが、歌い踊る笠置の姿を通じて、解放感を謳歌(おうか)したのだと思います。自分の肉体を肯定し、その内部からあふれ出る表現をさらけ出してもいいのだという感覚は、レコードを聞くだけでは得られないものです」

「買物ブギー」:落語、大阪弁とリズムの融合

輪島氏が笠置・服部の最高傑作と呼ぶのは、コンビ最後のヒット作「買物ブギー」(1950年)だ。

上方落語の「無いもん買い」がモチーフで、忙しいのにたくさん買い物を頼まれ、魚屋、八百屋に飛び込んだが、買いたいものが全部無いと畳み掛けるように大阪弁で歌う。各部分を「わてホンマによう言わんわ!」(「あきれてものが言えない」)という決めゼリフで結び、「オッサン、オッサン」の連呼でバンドとのコール・アンド・レスポンスを駆使、「ああしんど」で終わる。

「買物ブギ―」実演中(笠置シヅ子資料室所蔵)
「買物ブギ―」実演中(笠置シヅ子資料室所蔵)

「落語、浪花節、漫才といった演芸の人たちが自分の個性を自由に発揮して目の前のお客を楽しませる、その面白みを、米国ジャズ由来のポピュラー音楽のスタイルを使って実現した唯一無二の表現で、“リズム音曲”の見事な体現です」

NHKの朝の連続ドラマ「ブギウギ」が、笠置・服部コンビの功績の再評価はもちろん、日本の大衆音楽史を見直す良い機会になればと輪島氏は願っている。

<参考YouTube>

バナー:笠置シヅ子資料室所蔵

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