中国人の日本留学がブームだった時代:譚璐美氏が自著『帝都東京を中国革命で歩く』について語る

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ニューヨーク在住のノンフクション作家・譚璐美(たん・ろみ)氏が、このほど早稲田大学の公開講座で自著『帝都東京を中国革命で歩く』の講義を行った。20世紀初頭、中国人の日本留学がブームになった時代があったという。辛亥革命、さらには中国共産党の創設に際し、彼ら日本留学組が果たした役割は大きかった。来日中の譚氏に話を聞いた。

譚 璐美 TAN Romi

ノンフィクション作家。東京生まれ、本籍は中国広東省。戦前、国共内戦の動乱で、日本に逃亡して早稲田大学で学んだ共産党員だった父親と、日本女性を母親に持つ。慶應義塾大学文学部卒、元慶應義塾大学文学部訪問教授。著書に『中国共産党を作った13人』『革命いまだ成らず』『中国「国恥地図」の謎を解く』等多数。

「強い日本」の秘訣を学ぼう

公開講座のテーマは、譚璐美氏の著書『帝都東京を中国革命で歩く』(2016年7月、白水社刊)を題材にしたものである。20世紀初頭に中国で「日本留学ブーム」が起こった背景と、梁啓超、孫文、陳独秀、周恩来、蒋介石、魯迅など留学生の東京での暮らしぶりや彼らの人物像を紹介しているが、今日の日中関係が険悪化している情勢からみれば隔世の感がある。譚氏はこう語る。

「今、日中関係はぎくしゃくしており、日本と中国とは互いに、嫌中派と反日派とがいがみあい、何かあるたびに騒動が起こっています。しかし、100年前も日中関係をとりまく政治情勢は悪かった。それでも日本人と中国人とが個人的に親しく交流した心温まる時代でした」

日本留学は、日清戦争翌年の1896年、清国政府が13人の官費留学生を試験的に日本へ派遣したことが発端となる。1901年、日本政府は清国の要請を受けて留学生受け入れの文部省令を出し、それから継続的な日本留学への道が開かれた。留学ブームはなぜ起こったのか。

譚璐美氏が著した『帝都東京を中国革命で歩く』(撮影:花井智子)
譚璐美氏が著した『帝都東京を中国革命で歩く』(撮影:花井智子)

「1905年に清国政府が『科挙』制度を廃止し、古い教育スタイルの任官登用制度を止めました。そこで学生たちは出世のための新たな資格として、『洋科挙』つまり海外留学を目指すようになったのです。当初は欧米への留学もありましたが、ちょうどそのころ、明治維新後の日本の近代化がアジアでいち早く進んだことで、日本を経由して、欧米式の近代思想や制度を学ぼうとした。ことに1905年に日本が日露戦争に勝利したことで、『強い日本』の秘訣(ひけつ)を学ぼうという機運が高まりました。日本なら『安・近・短』、旅費が安くて距離が近い、短期留学も可能であるという、この3つの条件が重なって日本留学ブームが起こったのです」

1905年には8000人、翌年には1万人前後まで急増する。このうちの80%が近代都市・東京の神田、早稲田、本郷周辺で生活していたという。どういった人々が日本へ来ていたのか。

嘉納治五郎が作った日本語学校

「彼らは中国国内で中学や高校まで進んでいた優秀な学生たちで、清国政府や各省の奨学金をもらって日本に来ました。ただ、日本に来たのは留学生ばかりではありません。1911年の辛亥革命によって清朝が崩壊し、翌12年に中華民国が誕生しますが、その動乱の最中にさまざまな人たち――革命派の孫文や、清朝政府の中で改革派といわれた康有為、梁啓超など――が日本に来ました。当時は日本を舞台にして、いろいろな目的を持つ中国人が混ざり合い、活発に活動を行っていたのです」

留学生はまず日本語学校に通い、日本語を学んだ。主要な学校は2校あった。

「一つは1902年に設立された『弘文学院』で、外務大臣兼文部大臣の西園寺公望が清国政府の要請を受け、友人で東京高等師範学校の校長だった嘉納治五郎に頼んで作ったものです。この学校は清国政府の依頼を受けて日本政府が作りましたが、清国が倒れ、09年に閉校します」

「その後を継いだのが、『東亜高等予備学校』です。当初は弘文学院の教師だった松本亀次郎という人が中国人の友人とふたりで設立しましたが、間もなく財界の渋沢栄一らが政界に支援を呼びかけ、規模を拡大して運営されるようになりました。私の父も広東省から来日直後に通っており、1000人から2000人の留学生が在籍していたそうです」

周恩来が好きだった大きな肉団子

彼らは日本語を学んだ後、早稲田や慶応といった私立の予科に進んだ。東京帝国大学への進学は、まず第一高等学校に入学して卒業しなければならず、これはかなりの難関であったという。彼らの暮らしぶりはどうであったか。

「早稲田には清国の時代からチャイナタウンがあって、留学生の宿舎が2つ、多数の中国料理店や床屋には、清王朝の黄色に龍の図柄の『黄龍旗』がはためいていたといいます。早稲田周辺には下宿屋も多く、日本生活に慣れると留学生宿舎から下宿へ移り、中華料理店で食事をしていました。当時の代表的な中華料理店は、神田にあった『維新號』で、今日も銀座にあります。神田に現存しているのは『漢陽楼』です。ここは周恩来がよく食べに来たことで有名で、名物料理の『獅子頭』(スーズートウ)という大きな肉団子があり、これが好きだったそうです」

中華人民共和国で初代総理となり、毛沢東主席の片腕だった周恩来が日本に留学していたことは、今日では一般にあまり知られていないかもしれない。日本での生活はどうだったのか。

1972年9月には日中が国交正常化。周恩来首相(左)と田中角栄首相(右)が交渉に臨んだ(共同)
1972年9月には日中が国交正常化。周恩来首相(左)と田中角栄首相(右)が交渉に臨んだ(共同)

「周恩来は、家庭的に恵まれず、父親が早くに亡くなり叔父に育てられて苦労します。天津のミッションスクールを優秀な成績で卒業し、1917年に来日しました。まず東亜高等予備学校に入りますが、数学、物理、科学を英語で学んできたため、あらためて日本語で勉強するとなると、すでに知識はあるので無駄が多く、やる気をなくしてしまう。むしろ政治活動に熱心でした」

「そのうち奨学金が尽きて友人宅を転々とします。そして18年、(ロシア革命への干渉である)日本のシベリア出兵に反対する留学生の総帰国で、周恩来も帰国する。彼の憧れは京都大学で、入学願書を出しましたが、後に取り下げています。その入学願書が今でも京都大学に残っています。しかし帰国直前、京都を訪れて嵐山を散策しつつ、惜別の詩『雨中嵐山』を作りました。よほど日本を離れ難かったのでしょう。今日でも、その詩が嵐山の亀山公園の記念碑に刻まれています」

反日運動の拠点になった中国料理店「維新號」

中国人留学生のたまり場となった「維新號」には逸話が多い。

「『維新號』という店名は、留学生が明治維新の維新から取って名付けたそうです。はじめは中国の浙江省から来たオーナーが中華食材を売る店でしたが、留学生がお腹を空かせてかわいそうだということから、中国の家庭料理の麺類や野菜と肉の炒め物などを安価で出しましたので、留学生のたまり場になりました。反日運動の拠点になったこともあります。袁世凱の北京政府が1915年の5月7日に日本から『対華21カ条』を強要され、この日を中国では『国恥記念日』として、毎年、北京では学生による反日運動が行われるようになりました。18年のシベリア出兵に際し、当時の段祺瑞・北京政府は日本政府からの借款と引き換えにこれを黙認するという密約を交わそうとします。これに学生たちが猛反発する。日本でも留学生たちが反対運動を起こし、全留学生が授業をボイコットして、総帰国を相談します。その会合が『維新號』で行われて、警察に逮捕されたりしました」

彼らは日本で何を学び、本国に伝えようとしたのか。

「彼らは日本に入ってきた西洋思想を学び、日本語に訳された欧米の書物を中国語に翻訳して、それを中国に伝えました。また、日本から色々なアイデアを中国に持ち帰りました。たとえば、中国共産党をつくった陳独秀は、日本に5回、出たり入ったりしています。一時的に『弘文学院』に籍を置いたこともありますが、彼の目的は日本一の本屋街である神田で知識を吸収することでした。日本で新しい思想を紹介する雑誌が多数発行されているのを見て、自分も意見を発表する雑誌を作ろうと思いつき、上海へ戻って『新青年』という雑誌を創刊します」

「『新青年』にはアメリカ留学中の思想家の胡適(こてき)が『文学改良すう議』、日本留学から帰国した魯迅が口語体の実験小説『狂人日記』を寄稿したことで、一躍有名になり、中国の新文化運動に火が付き、『五四運動』(1919年)のバイブルになりました。その意味で、『新青年』は中国近代史上、最も重要な雑誌ですが、そのアイデアは神田という知識の発信基地があったからだと言えなくもありません。それ以外にも、20年代の上海の出版社からは、日本語から中国語に翻訳された書籍が120冊以上も出されています」

日本陸軍の軍事を学んだ蒋介石

日本で学んだ中国人は多士済々(たしさいさい)である。主だった人々を紹介しておきたい。辛亥革命で活躍した人物のなかにも日本留学組がいる。

「孫文は『革命の父』、『国父』とも呼ばれ、辛亥革命の一番のスターだったわけですが、その影に隠れた実力者がいました。『中国の西郷隆盛』と言われた軍人の黄興(こうこう)がその一人ですし、宋教仁(そうきょうじん)もそうです。宋教仁は法律に興味があり、早稲田大学の予科で学びますが、読書家で勉強熱心。法律のエキスパートになりました」

「辛亥革命後、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した孫文は、フランス式の共和制国家の樹立を目指します。そこで宋教仁は中国の歴史上初となる憲法『臨時約法』を作り、二院制の国民議会を組織し、最初の選挙で議会の第一党となる政党・国民党の党首になります。しかし清朝皇帝の退位と引き換えに中華民国総統に収まり、独裁政治をもくろんだ袁世凱によって、1916年に暗殺されてしまうのです」

20年代に中華民国総統になり、戦後、台湾を統治した蒋介石は日本から軍事を学んだ。

「蒋介石は、軍人になりたくて1906年19歳のときに初来日しています。08年、陸軍が運営する清国人のための『振武学校』(新宿区)で学びます。ここは全寮制で62人の留学生と一緒に生活し、3年で卒業すると、新潟県にある陸軍第十三師団(師団長・長岡外史)の砲兵第十九連隊に二等兵として配属されました。蒋介石の優れている点は、骨身を惜しまず働くことでした。彼は馬の世話係だったけれども腐らず早朝からまじめに働いた。日中は重装備で行進の訓練を受け、夜は部屋の掃除と上官の服の洗濯。彼は訓練の方法を細かくノートに記しています」

「辛亥革命の武装蜂起によって、蒋介石は急きょ帰国しますが、日本で学んだことを、後に自分が校長に就任した黄埔軍官学校の軍事教育で全て実践します。訓練に使ったのも中古品の村田銃です。蒋介石は帰国する際、正式な手続きを踏まずに3人の仲間と焦って帰国してしまったので、陸軍の記録には『脱走兵3名』として名前が残っています。ただ、蒋介石ほど日本の陸軍に憧れ、日本陸軍の教育訓練の方法を中国で取り入れた人はいません」

中国共産党を立ち上げた日本留学組

1921年、中国共産党が創設される。立ち上げたメンバー13人のうち4人が日本留学組だった。東京大学土木工学科卒業の李漢俊(りかんしゅん)、東京第一高等学校在学中の李達(りたつ)、法政大学卒業の董必武(とうひつぶ)、京都大学へ進学が決まっていた周沸海(しゅうふつかい)である。

「当時は社会主義がどういうものか分からず、留学生たちは学術研究から始めるわけですが、それを熱心にやったのが李漢俊でした。彼は中国の代表的な社会主義者として日本でも有名になり、中国共産党の第1回全国代表会議は上海にあった彼の邸宅で行われ、いまでは記念館になっています。彼らは当時世界で流行していた社会主義思想を日本で吸収して帰ったのですから、いわば、中国共産党を作ったのは日本で学んだ『知』であったと言えるでしょう」

共産党員のなかにも親日家はいた。その代表格であった人物を紹介する。

「当時、早稲田大学に入った留学生は多かったですが、陳日新(ちんにっしん)は慶応義塾大学の経済学部で学んだ優秀な学生でした。辛亥革命を支援する全日本の『留日学生総会』の主席に就任し、多忙な傍らしっかり経済の勉強をする。1925年、帰国後に共産党に入り、中華人民共和国成立後は、工商部に配属されて『経済統計資料』を編さんしています」

「その後、北京の対外経済貿易大学の教授に就任し、中国で初めての『漢日辞典』を作り、日本語研究の第一人者となりました。小学館発行の『日中辞典』の編さんにも携わっています。北京大学教授の夫人も奈良女子高等師範学校の留学生で、夫婦そろっての親日家でした。文化大革命時代には苦労したそうですが、90歳の時に天安門事件が起こった。学生が弾圧されるのに衝撃を受けて心臓発作で亡くなりますが、生前、日本で学んだことは生涯忘れられず、人生の方向性を決定づけたと言っていたそうです」

譚氏は最後にこう締めくくった。

「当時、日本に留学し、日本の支援を得て、中国のために何かやろうとした人たちがいた。それを記録に残して、日本の方たちにも知っておいていただきたいなと思います」

バナー写真:「100年前も日中関係は悪かったが、日本人と中国人とが個人的に親しく交流した心温まる時代でした」と話す譚璐美氏(撮影:花井智子)

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