カーマニア注目の一大イベント『東京オートサロン2024』開幕:世界に誇れる日本発「チューニングカー」カルチャーの歴史と本質

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毎年年始に開催されるモーターショー『東京オートサロン』は、コロナ禍前には30万人超の観客を集めた一大イベントだ。そのテーマは今も昔も変わらず「チューニングカー」。今や日本だけでなくアメリカやアジアからも注目される趣味の世界である。かつては違法とされたチューニングが、世界に誇るカルチャーへと変貌した歴史を追いつつ、その本質を説く。

自動車メーカーも注目するチューニングカーの祭典

千葉県・幕張メッセを舞台に、チューニングカーの祭典『東京オートサロン』が今年も1月12日〜14日に開催される。日本におけるチューニングカー雑誌のパイオニア『OPTION』誌を立ち上げた稲田大二郎氏が発起人となり、1983年に『東京エキサイティングカーショー』としてスタートしたこのイベントは、2021年こそコロナ禍で開催中止となったが、今年で42回目を数える年始の風物詩である。

かつては違法改造車が集まるイベントで、警察にマークされていたこともある。しかし、やがて時代が追い付き、今や国内外の自動車メーカーも出展するなど、東京モーターショー(現ジャパンモビリティショー)をしのぐほどの一大イベントへと成長した。

海外からの来場者も年々増え続け、アメリカ・ラスベガスで行われるSEMAショーと並んで、世界でも屈指のチューニング&カスタムカーショーとして認知されている。

第1回の開催から現在に至る東京オートサロンの成長、発展を振り返る時、それと切っても切り離せない関係にあるのが、半世紀近い歳月をかけて成熟してきた日本のチューニング文化である。逆に言えば、東京オートサロンは、その時代における日本のチューニング文化を最もストレートに、色濃く映し出す“鏡”として存在してきた。

コロナ禍前の30万人超には及ばないが、18万の来場者を集めた東京オートサロン2023 写真:東京オートサロン事務局
コロナ禍前の30万人超には及ばないが、18万の来場者を集めた東京オートサロン2023 写真:東京オートサロン事務局

チューニング文化の始まり

日本のチューニング文化の発端は1970年代までさかのぼる。サニーやスターレット、シビックに手を加えたレーシングマシンで争われた『マイナーツーリングカーレース』の人気に火が付き、クルマ好きの若者たちが見よう見まねで市販車を同じように改造したことが、日本におけるチューニングの始まりとされている。

当時は標準サイズよりも太いタイヤを履くことさえ違法改造と見なされ、検挙の対象となっていた。それでも、警察の目を避けながら愛車のチューニングを楽しむオーナーたちは車高を落とし、キャブレターやマフラーを交換し、必要とあればエンジン本体にも手を入れた。

それらの一番の目的は「クルマをより速くすること」であり、そのために「馬力を上げること」が日本のチューニング文化草創期における共通認識とされていた。その考えは今でも根強く業界の根底に流れている。

アンダーグラウンドなものとして産声を上げた日本のチューニング文化は、80年代に入るとブーム前夜を迎える。チューニング情報を正面から取り上げた『OPTION』や『CARBOY』などの専門誌が刊行され、マンガでも「週刊少年ジャンプ」誌上で『よろしくメカドック』の連載が始まり、テレビアニメ化もされた。非合法ではあるものの、チューニングという行為が世間一般に少しずつ知れ渡っていくことになった。

また、現実のチューニングの世界では、大幅なパワーアップを可能とするターボチューンが本格化し、市販車ベースでそれまで300馬力程度だったエンジンチューンの上限は500馬力、600馬力も夢ではなくなりつつあった。

ただし、馬力を追求すれば必ずエンジンが壊れる。全くの手探り状態で始まったターボチューンだったが、全国のチューニングショップが主に最高速テストの舞台でトライ&エラーを繰り返したことで、80年代も後半に入るとようやく速さと信頼性を両立できるようになった。

日本自動車研究所の高速周回路、通称「谷田部」での最高速テストで、1983年に国産チューニングカー初の300km/hオーバーを達成した「HKS M300」 写真:『Option』編集部
日本自動車研究所の高速周回路、通称「谷田部」での最高速テストで、1983年に国産チューニングカー初の300km/hオーバーを達成した「HKS M300」 写真:『Option』編集部

R32型GT-Rの出現と規制緩和の恩恵

日本のチューニング文化における大きなターニングポイントは2つあり、そのうちの1つが1989年にR32型スカイラインGT−R(日産)が発売されたことである。ノーマル(市販状態)でも自主規制上限の280馬力を発生し、軽くチューニングするだけで400馬力に到達するなど、それ以前の国産車とは別次元の潜在性能を持っていた。

これにチューニング業界が色めき立たないはずはなかった。アフターメーカーは以前にも増して精力的にパーツ開発を行ない、そのパーツを使うチューニングショップは馬力と速さでしのぎを削った。同時に、チューニングパーツの精度や耐久性が格段に高まり、チューニングに関する技術力も劇的に向上した。結果、数年前までは考えられなかった800馬力や1000馬力が当たり前のものとなった。つまり、エンジンチューンを核とする日本のチューニング技術は、R32型スカイラインGT−Rの時代に大きな飛躍を遂げたのだ。

「谷田部」のバンクを駆け抜ける「TRUST GReddy RX」。パーツ開発車両兼デモカーとしてサーキットアタックやゼロヨンもこなした 写真:『Option』編集部
「谷田部」のバンクを駆け抜ける「TRUST GReddy RX」。パーツ開発車両兼デモカーとしてサーキットアタックやゼロヨンもこなした 写真:『Option』編集部

もう1つのターニングポイントは、アメリカの要求を日本が受け入れる形で95年に実現した自動車部品の規制緩和と、それに伴う車両法の規制緩和である。必要最低限のルールさえクリアしていれば、アフターパーツへの交換を含むチューニングが完全合法化される時代がついにやって来た。これによりチューニング市場は一気に拡大。警察の目を気にすることなく、より多くのクルマ好きが、より手軽にチューニングを楽しめる環境が整った。

また、規制緩和はチューニングのカテゴリーの細分化ももたらした。それまでは「馬力を上げ、速さを求めること」がチューニングと認識されていたが、そうとは言い切れない状況が生まれつつあった。

クラウン(トヨタ)やシーマ、セドリック/グロリア(日産)などにエアロパーツと大径ホイールを装着して車高をギリギリまで落とした「VIPセダン」や、ワンボックス車をベースに巨大な前後スポイラーを備えた「バニング」など、馬力や速さではなく、何よりも見た目にこだわるジャンルがその一例と言える。それらは一般的にカスタムやドレスアップとしてくくられるが、広い意味で取れば、これらも当然チューニングに含まれ、専門誌も刊行された。

後にはワゴンR(スズキ)やムーヴ(ダイハツ)などで究極のローダウンを目指した軽ハイトワゴン系、アニメキャラをボディ全面に描いた「痛車」、アメリカで流行っている日本車のチューニング手法を採り入れた「USDM」などが大きなブームを巻き起こし、日本のチューニング文化を彩ってきた。現在はミニバンからSUVへとブームが移行しつつある。

さらに、走るステージによるカテゴリー分けにも触れておきたい。古くからあるのは東名高速に始まり、90年代以降は首都高速湾岸線に舞台を移した最高速と、全国各地に有名スポットが存在していたストリートゼロヨンだろう。どちらも、馬力志向のエンジンチューンが好まれるという点で共通している。

最高速、ゼロヨン、峠、ドリフトと並び、関東では首都高都心環状線、関西では阪神高速環状線で“走り屋”たちが速さを競った 写真:『Option』編集部
最高速、ゼロヨン、峠、ドリフトと並び、関東では首都高都心環状線、関西では阪神高速環状線で“走り屋”たちが速さを競った 写真:『Option』編集部

400mの速さを競うゼロヨンでは全国各地に有名スポットが誕生。馬力が物を言うだけに、ハードなチューニングカーが集う 写真:『Option』編集部
400mの速さを競うゼロヨンでは全国各地に有名スポットが誕生。馬力が物を言うだけに、ハードなチューニングカーが集う 写真:『Option』編集部

峠も昔から人気のステージであり、世界的なブームとなったドリフトも日本のチューニング文化を語る上で避けては通れない。チューニングの方向性としては、絶対的な馬力よりもレスポンスに優れるエンジン特性が好まれ、コーナリング性能を高めるために足回りとブレーキの強化に重点が置かれる。

いずれも一般公道で行われていたため、違法行為だったことは言うまでもない。交通法規を無視した走りに迷惑極まりない騒音、果ては一般車を巻き込んだ死亡事故などが度々マスコミに取り上げられ、社会問題にまで発展した。こうした負の側面も日本のチューニング文化を理解する上で目を背けてはならない事実である。

ここ数年で大きな盛り上がりを見せているのがサーキットでのタイムアタックであり、1000分の1秒を削り取るために究極のマシンメイクが施される。エンジンは絶対馬力とレスポンスの両立が図られ、ボディは剛性を確保しながら徹底的に軽量化。高速域での操安性を高めるため、大型エアロパーツ装着による空力性能の改善も図られる。

今や世界に広まったドリフトは峠や埠頭で始まり、2000年代初頭にはD1グランプリとして競技化された。写真はHKSハイパーシルビアRS-2 写真:『Option』編集部
今や世界に広まったドリフトは峠や埠頭で始まり、2000年代初頭にはD1グランプリとして競技化された。写真はHKSハイパーシルビアRS-2 写真:『Option』編集部

サーキットでのタイムアタックの聖地・茨城県の筑波サーキットを走る三重エスプリの傑作、NSX 写真:『Option』編集部
サーキットでのタイムアタックの聖地・茨城県の筑波サーキットを走る三重エスプリの傑作、NSX 写真:『Option』編集部

チューニングカルチャーを待つ未来

一方で日本のチューニング業界は、じわじわと押し寄せるEV化の波にも直面している。これまではガソリンを燃やして馬力を得るエンジン=内燃機関を対象にしてきたが、そう遠くない将来、それがバッテリーとモーターに取って代わられる可能性が高い。

いずれ本格的なEV時代がやって来た時、日本のチューニング文化はそこで潰(つい)えてしまうのか。答えはもちろん、「ノー」である。

なぜなら、メーカーとショップがタッグを組み、新たなパワーユニットに対するチューニング術を必ず確立してくれるだろうし、たとえEVであっても足回りや内外装など、ノーマルに対して手を加える余地は十分に残されているからである。それよりもチューニングを楽しみたいと思うオーナーが減ってしまうことの方が、チューニング業界にとって大打撃になることは間違いない。

馬力の向上と速さの追求に始まった日本のチューニング文化は、時代の流れに合わせて多様化し、新たな解釈を加え、守備範囲そのものを拡大してきた。一見、つかみようがなくも思えるが、そこに本質を見出すとするならば、それは「多くのクルマ好きが自由にチューニングを楽しめる環境が整っている」という点に尽きる。

チューニングが市民権を得た日本では、正直それを意識することはないかもしれない。しかし、世界に目を向けると、同じような環境にあるのはアメリカとイギリスくらいしか見当たらない。欧州の大陸側は個人で楽しむというよりも、伝統的にメーカー主導で開発されたコンプリートカー色が強く、チューニングが盛り上がりつつある中国を始めとしたアジア各国では、まだまだ富裕層にしか浸透していないという現実がある。

そう考えると、広く一般が楽しめる日本のチューニング文化は世界でも非常にまれなケースと言える。江戸時代における相撲や歌舞伎がそうであったように、昭和、平成、令和と半世紀近く続いてきた大衆文化が日本のチューニング。200年の時を経てもなお、ニッポンの歴史は繰り返されているようである。

バナー写真:公道をゆくBNR32型スカイラインGT-Rのチューニングカー。1989年発売ながら今なお高い人気を誇る 写真:『Option』編集部

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