前衛芸術家・糸井貫二 : “自修自足” の場の解体と全身無垢なる芸術家の “発見”
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1960-70年代の過激な路上パフォーマンス(ハプニングアート)で知られた「ダダカン」こと前衛芸術家の糸井貫二(1920-2021年)。後半生を過ごした仙台郊外の自宅「鬼放舎」が道路拡幅工事で2024年6月に取り壊された。
人が生きた「場」は当然、「生」の痕跡とともに気配も帯び、糸井の多彩な創作活動や人となりを平場で知り、考えるよい契機となる。奇矯なパフォーマンスやエロ・グロ的な作品にフィーチャーした「変な老人」視されがちだが、実は外連(けれん)とは無縁の全身・全生涯の無垢な芸術家だったことが浮かび上がる。
スタートはアンデパンダン展常連
生まれは東京・淀橋(現新宿区)。芝浦工大の前身・東京高等工学校で機械工学を学んだ後、教育召集や徴用で九州などを転々とし、24歳で終戦を迎えた。
戦後早くに芸術家として立ち、無鑑査で自由出品できる読売アンデパンダン展に卵の殻を使ったオブジェを1951年に初出品した。「生命」の象徴である卵は糸井には終生欠かせないモチーフの一つとなった。
以後、種々の素材や手法で実験的オブジェ作品などを出展し、個展も開いた。父・辰八郎が金属加工会社に勤めていた縁で52年に仙台に移住。2年後には東京・大森に転居し、シングルファザーとして子育てしつつ、自宅に美術研究所の看板を掲げて仲間と創作に励む日々。当時、日本の美術界は戦後の前衛思潮を背景に、アンフォルメルやアクション・ペインティングなどで混沌とし、糸井もダダイズムや禅の影響を受けつつ独自の芸術を模索した。
62年のアンデパンダン展は過度の猥雑(わいざつ)さを理由に出展を拒否され、63年の同展では会場の東京都美術館構内で裸のパフォーマンスを行い、警察沙汰となった。
街頭の裸パフォーマンスに傾斜
街頭でのパフォーマンスはこの頃から次第に本格化。地元・仙台での展覧会場や伝統的な祭りの場などに出没し、半裸や全裸で走ったり、木に登ったりした。一方で、雑誌などを切り貼りするコラージュ作品でもヌードの女性像や男性器の形に切り抜いた「ペーパーペニス」を用いるなどエスカレートした。糸井には「性」もまた、反戦や反原発などと同じく、無視し得ない重要な創作モチーフであった。
最初に注目を浴びたのは、64年東京五輪開幕直前、聖火ランナーが走る前に、銀座で赤褌(ふんどし)を聖火に見立てて全裸で走った「聖火体現」のパフォーマンスである。実際の聖火リレーを見て「美しい」と思い、居ても立ってもいられなくなったという。逮捕後、ほぼ1年間、都内の精神病院に措置入院させられた。この時、医師の勧めで過去の版画作品に言葉を添えたアルバムを自作し、後に同時代の前衛美術家に贈った。
その中に「求道する者はただ今の一念を真実の自己として生きることである 一度きりの人生を悔いなく生きるゆえんの道でもある」との秘めた芸術家宣言がある。
「殺すな」の伝説的インパクト
街中での裸パフォーマンスは“事件”としてインパクトが大きい。その場限りの瞬間芸術だが、記録に残ったものもある。
よく知られたものの一つは「殺すな」(70年)だ。美術評論家の知人が糸井を訪ねた折りに鬼放舎近くの路上で行われた模様を、写真家の羽永光利が撮影した。
ベトナム戦争に反対する「べ平連」が1967年に米ワシントンポスト紙に出した反戦意見広告に寄せた岡本太郎の「殺すな」の文字に触発されたものだ。
痩躯(そうく)にドレス様の布切れをまとい、長くのびて乱れた髪にもじゃもじゃ髭(ひげ)、サングラス姿で「殺すな」のメッセージを手にして歩く当時49歳の糸井がいる。前衛パフォーマンスばやりの当時としても並みのインパクトではない。
この写真が週刊少年サンデーの「へんな芸術」特集(71年3月)で紹介され、子ども含めて「ダダカン」を一躍有名にした伝説的な1枚となった。
糸井は72年から京都・宇治市で母親を看取るまで7年間一人で介護し、79年に仙台に戻った。その空白を取り戻すかのように鬼放舎にこもり、創作活動にいそしんだ。以前は親族や仲間以外との接触には消極的だったが、80年半ば頃からは事前のやり取りや知人の紹介などを通して、美術関係者、熱心な支持者、取材者らの訪問を受け入れるようになり、雑誌などでの露出も徐々に増えた。
写真でよみがえる在りし日々
鬼放舎の解体を機に糸井の日々の暮らしや創作活動の一端を紹介したのは、地元の文化施設せんだいメディアテークの「地域とアヴァンギャルド」展(2024年10月~25年1月)である。作品そのものではなく、資料や写真パネル中心だったが、「名前は聞いたことあるが、一体どんな人物だったのか」との関心にそれなりに応えるものだ。日常生活の赤裸々な空間はとても饒舌(じょうぜつ)である。

せんだいメディアテークで開催された「地域とアヴァンギャルド」展ポスター。写真=羽永光利、提供=せんだいメディアテーク
鬼放舎は仙台市太白区、東北本線で仙台から上り二つ目の太子堂駅の近くにあった。木造モルタル造の古い平屋(建坪約50平米)で、3つの部屋と台所、浴室、トイレ、玄関・廊下などから成る。まあまあ乱雑だが、驚くほどでもない。
居間の中央にこたつ卓があり、長年愛用した電熱器や赤い小型炊飯器がすぐ手の届くところにある。脇には多くの来訪者が思い思いにサインや年月日を書いた壁面も残っていた。その中には美術評論家や研究者らの名前もあり、糸井への関心や評価の過程が跡付けられる。
来訪者の吸い殻を紙に貼り付けたオブジェもあった。6畳の和室は「夢殿」と呼んだ寝室で、布団を敷いたベッドや整理ダンスが見える。浴室には生活用貯水池のごとく水を湛(たた)えた浴槽があり、台所の流しでは蛇口から漏れる水滴をペットボトルが受けている…。
最期まで続けた三点倒立の「裸儀」
玄関や各所のわずかなスペースには卵のオブジェが幾つも置かれていた。思わず写真の細部までのぞき込んでしまう。居宅自体が糸井の「作品」と言うべきか。糸井が客に振る舞う通称「ダダカンケーキ」を炊飯器を使って作る様子が問答入りで収録された資料映像も。糸井のモノづくりの発想やこだわりを彷彿させて面白い。
洋間には机の横に古い肘掛け椅子がある。来客時に興が乗ると、肘掛けを両手で握り、頭を座面に着けて裸で三点倒立し、開脚と閉脚を繰り返すという「裸儀」を為す聖なる場所である。
成城中学当時に五輪経験選手から器械体操の指導を受けた糸井は、戦後の1946年に第1回国体に出場した実績もある。この珍妙なパフォーマンスをかなり高齢(少なくとも91歳時の記録がある)になってもやっていられたのもその賜物で、まさに肉体派ハプナーの面目躍如だろう。
糸井はこの鬼放舎の空間で勝手気ままに暮らし、来訪者と歓談し、オブジェを制作し、グラビア雑誌や自作紙片で制作したコラージュを「メールアート」と名付けてあちこちに郵送するなど、独楽の日々を送っていた様子が想像できる。
“真評価”もたらすダダカン連
解体前に鬼放舎を調査・記録したのは、糸井の作品や関連資料の収集、整理、保存などを行っている有志集団「ダダカン連」である。宮城県美術館の学芸員や副館長を務めた三上満良氏、メディア研究者の細谷修平氏ら4人で、せんだいメディアテークの展覧会では、糸井の実妹・天野清子さんを交えたトークイベントや調査報告会を開いた。
ダダカン連はこれまでもさまざまな形で糸井を取り上げる一方、木版画集も出版するなど、彼に関わるすべてを発掘・検証し、芸術家・糸井貫二の全体像への真正な評価を目指す。
企画展を機に、関連資料や書籍などで筆者自身が知ったことも多い。例えば、愛情豊かに息子を育て上げ、父子の作品展を開いた、遠隔地での母親の介護もパフォーマンス同様の「行為」と考えていた(それ故に「髪や髭は切らない」旨の一札を入れた)、メールアートは友人知人のみならず、ラジオで知ったアナウンサーや歌手にも勝手に送りつけていた、亡父母のために兄弟姉妹で追悼俳句集を刊行した、1950年代を中心に俳句や俳石(拾ってきた石を命名し愛で合う趣味)などの文化活動を楽しんでいた。
そして、「あそこ(鬼放舎)で一人暮らししていた人(糸井)に何も手助けしないことが一番いい」と心に決めていた―という妹・天野清子さんは、“自修自足” を貫くダダカンのよき理解者だったのだろう。
前衛芸術家・糸井の全人格的なイメージが深まり、ユニークでうそ偽りのない、真っ当な表現者だったことを確信させる。
「純粋、誠実、正統に美術の本質を体現」
糸井は1986年にポンピドゥーセンター(パリ)の「前衛の日本 1910~1970」展や2009年に宮城県美術館の「前衛のみやぎ」展、さらに各地のギャラリーなどでも取り上げられた。サブカルや奇人変人といった空気をまといながらも、芸術家として正当な評価を受けつつある。23年にはフランスの前衛芸術研究者、ブルーノ・フェルナンデス氏による伝記的著作も出版された。
美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げるアウトサイダー・キュレーターの櫛野展正氏が2016年に主催した企画展「遅咲きレボリューション!」のレビューで気鋭の美術評論家、福住廉氏はつとに指摘していた。
さまざまな論者がこの伝説の美術家について言及しているが、その多くは異端や例外として位置づけているにすぎない。だが、パフォーマンスの形式面でも、それを衝動的に導き出した表現欲動の面でも、ダダカンこそ、実は最も純粋かつ誠実に、あるいはまた正統に、美術の本質を体現した美術家ではなかったか。それが証拠に、ダダカンは自らが『異常』というレッテルを貼り付けられがちなことを十分に自覚していた(DNP「アートスケープ」、2016年10月22日)
バナー写真:「地域とアヴァンギャルド」展会場。掲げられたスクリーン「殺すな」のパフォーマンス写真(筆者撮影)

