マンガを世界に紹介した米国人翻訳家 フレデリック・L. ショット : 手塚治虫との出会いからAI時代の展望まで
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コロナ禍でマンガ熱が高まった
ここ数年、米国での日本のマンガ・アニメブームが一段と盛り上がりをみせ、各メディアがこぞってその現象を報じている。
例えば「日本のマンガやアニメはNetflixでの配信、感謝祭パレードからアカデミー賞受賞作(※1)に影響を与えるほど、米国文化の中で存在感を増している」(米PBSニュース報道)などといった具合だ。
米国在住の筆者も当地で開催される日本のサブカルチャー系コンベンションを毎年取材する中で、マンガ・アニメ人気のすさまじい高まりを実感している。街中の書店でもその勢いを感じるようになった。
前述のPBSニュースによると、全米におけるマンガの売り上げは、19年から22年にかけて4倍増え、ロマンス、スリラー、ファンタジーに次いで全米で4番目に大きなフィクションジャンルになっているという。ブームを後押ししているのは、翻訳版コンテンツに即座にアクセスできる低料金の新アプリの登場がある。さらにNetflixなどストリーミング・プラットフォームが多くの作品を取り上げたことも大きい。
若者を中心にマンガ本の売上高が急増しており、市内の若者が集まる独立系書店を訪ねると、マンガコーナーが店の真ん中に設置されているのを目にしたりもするようになってきた。

ここではマンガコーナーが店の中央に設置されていた。ニューヨーク市内の書店にて。© Kasumi Abe
「アメリカでMangaという言葉を知らない人はいないでしょう。今では辞書にも載っています」。マンガの日英翻訳を手掛けて半世紀になるフレデリック・L. ショットさんは言う。
「50年前はまったく知られていなかったFusumaとかTatamiなども、宮崎駿のアニメを観て育った若い人たちの間では普通によく知られるようになりました」
筆者がショットさんの存在を知ったのは、2024年8月。ニューヨーク市内で開催された「アメリカン・マンガ・アワード」の授賞式で、『鉄腕アトム』『はだしのゲン』など数々の名作の英語翻訳に携わったショットさんが最高賞の「マンガ出版殿堂賞」を受賞した。マンガを北米市場に紹介しブームの礎を築いたパイオニアとして功績が認められたのだ。

第1回「アメリカン・マンガ・アワード」の授賞式。左端がショットさん(2024年)© Kasumi Abe
マンガの翻訳をすることになったきっかけ
ショットさんは外交官だった父親の赴任地であるノルウェー、オーストラリアを経て、1965年、15歳の時に日本にやって来た。高校の3年間を日本で暮らし、70年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)に入学したが、国際基督教大学(ICU)の交換留学生として東京で2年半を過ごした。
72年にUCSBを卒業後、日本食レストランでの皿洗いや日本人観光客のツアーガイドなどさまざまな仕事を経験し、75年文部省の奨学金を得て研究生として再びICUに戻り、翻訳と通訳を学んだ。 77年にICUを卒業後、東京の翻訳サービスを提供する会社を通して、翻訳者・通訳者としてのキャリアをスタートした。米国に戻った今でも日本との繋がりは強く、外務省主催の日本国際漫画賞(Japan International Manga Award)の実行委員として2025年3月に来日したばかりだ。
ショットさんが翻訳家として。マンガ業界に足を踏み入れるきっかけは何だったのか。
「ICUの1年目、集中コースを受講するなど日本語を懸命に勉強していて、マンガも読むようになりました。周りは教科書よりも分厚いマンガ本をいつも持ち歩くほど、当時からマンガは流行っていました。ある時、男子寮で仲良くなったオカダ・シュウイチさんが僕の四畳半のアパートにやって来て『マンガが好きならこれを読まなきゃいけないよ」と大切な聖書でも渡すように『火の鳥』の5巻までを貸してくれたんです。今でもよく覚えてます。『必ず返してね』って念押しされたのを(笑)」
「それまで少年マンガ系の雑誌をいろいろ読んでいたけど『火の鳥』を読んで、これほどまでに質の高い文学作品がマンガとして世に出ていたことに、いい意味でショックを受けました。マンガが小説や映画にも匹敵する表現媒体だと知ったのです」
その後仕事を共にするようになった手塚氏については、「すごくインテリだったから(『火の鳥』で)文学に近いものを目指していたんじゃないでしょうか」と分析する。
翻訳家としてのキャリアを後押ししたのは、2度目のICU留学のときに出会った仲間だという。
「相棒というか友だちというか悪友というか(笑)...のジャレッド・クックさん、ウエダ・ミドリさん、サカモト・シンジさんと一緒にマンガの翻訳グループ、駄々会(だだかい)を結成して海外に日本の素晴らしいマンガ文化を紹介しようという話になりました。当時僕はICUの研究生を終えて翻訳会社のサイマル・インターナショナルで翻訳家としての仕事をしていました。
手塚治虫との出会い
手塚氏との出会いは77年に遡る。
駄々会では、「皆が大好きな作品を翻訳したい」と、『火の鳥』に取り組むことになった。メンバーの一人のつてを頼って手塚プロに交渉に行った時のことだった。
当時すでに知名度の高かった手塚氏に会えるとはつゆも思っていなかったそうだが、「担当者と話をしていたら突然手塚先生が現れて『何しに来たの?』と。説明すると、自分の作品が海外に紹介されるのは面白いと興味を示し、その場でOKを出してくれたんです!」
ショットさんと手塚氏の物語が幕を開けた瞬間だ。
「先生はユニークな方で、すでに海外での経験も豊富でした。鉄腕アトムは『Astro Boy』としてアメリカでテレビ放映されていて、関連イベントでロサンゼルスにも来ていたし、64年のニューヨーク万国博覧会にも参加していました」

在りし日の故・手塚治虫氏(左)とショットさん(ショットさん提供)
作者と翻訳者である2人はどのような関係性を築いていったのだろうか。友人として親しくなったかそれとも師匠的な存在だったのか?
「手塚さんは僕の人生に大きな影響を与えてくれた先生であることは間違いないです。年齢はずいぶん上で、雲の上のような存在でしたが、とても可愛がってもらいました。通訳としてアメリカやカナダを一緒に回ったことも何度もあります。好奇心の塊の先生とはいつも話が弾み、楽しいおしゃべりが止まりませんでした」
ある時、ショットさんは大きなミスをしてしまう。
「カナダの映画祭に向かうため、サンフランシスコの空港で合流してカナダ行きの便を待っている間に話が弾んで、なんと飛行機に乗り遅れてしまったんです。コーディネーターとしては大失態ですが、『いいよ、気にするな』と許してくれました。先生は部下や家族に対して時々厳しい一面もあったけど、なぜか僕には優しく接してくれました」
世界的なマンガブームを実感したのはいつか
ショットさんが本格的に翻訳を開始した当初、今のような世界的なマンガブームは予想だにせず、「うまくいけば日本のマンガに少し関心や興味を示してくれる人たちが増えるかもと思う程度でした」
マンガ業界の盛り上がりを感じ始めたのは90年代の終わりごろ。
「アメリカのテレビで『ポケモン』や『セーラームーン』が放映され始めた頃です。子どもたちがいっせいにポケモン病になり、そこから潮目が変わりました」
アニメが起爆剤になりマンガ人気につながったのは間違いない。近年でも、アニメのストリーミングサイト大手のクランチロール(crunchyroll)の飛躍が伝えられている。登録ユーザー数全体の数は2024年時点で約1億2000万人、有料会員数は1500万人を突破したといい、マンガも飛ぶように売れている。
「当初、アニメはファンの間で無断でビデオテープがコピーされ作品が広がっていきました。ファン人口が増えると、アニメ系のコンベンションが開かれるようになり、ウェブの時代になると、今度はスキャンレーション(Scanlation=スキャン+レーションの造語)が横行し、マンガ本の海賊版が爆発的に増えていったんですが、これによってマンガ人気が高まったんです」
「オタク用語では『自炊』と言いますが、単行本を裁断してスキャンしてウェブに載せる行為が90年代半ばにすごく流行り、多くの人に広がっていきました。さすがに著作権侵害問題で今では違法ですが」
海賊版やスキャンレーションがマンガ人気に与えた影響は莫大だったが、違法にマンガが広がることで作家や出版社が収益を得ることができない。その影響力の裏には多くの損失とジレンマがあった。
AIの台頭とこれからの翻訳業の見通し
AIは日々進化し、AI翻訳の完成度も驚くほど高く、本来の翻訳業は淘汰されようとしている。ショットさんはこのような現状と未来をどう見ているだろうか。
「僕自身はマンガの翻訳だけで生計を立ててきたわけではなく、通訳の仕事やマンガ関連のイベント・アドバイザーなども引き受けています。そんな僕が翻訳業界へのAIの到来で思うのは…職業としては正直言って終わりだということです」
アニメ系コンベンションなどで、マンガの翻訳家志望の若者に会うことがあるが、「残念ながら、そういう時代は終わったと伝えないといけないんです。すでにAI翻訳専門のスタートアップが誕生しているし、AI翻訳の精度は驚くほど高まっている。今は歴史的な転換期にあると言えます。近いうちに9割の翻訳はAIに任せて、人間はチェックや調整だけをすることになるんじゃないかな」。
マンガの翻訳はエンターテインメントであり、エンタメ分野の翻訳は完璧さを求められていないことが問題だと、ショットさんは言う。
「エンタメ分野の翻訳はそこそこの出来で十分とされているから、アマチュアがスキャンレーションの手法で翻訳したマンガが多数あり、そういったものはファンに抵抗感なく受け入れられている。しかし違法にコピーされた作品が出回ることで、プロの翻訳者が受け取るべき報酬を大幅に引き下げているんです。マンガ翻訳だけで生計を立てることはもはや不可能なんです。実家暮らしやインスタントラーメンを主食にする覚悟がない限りは…!!」

第1回「アメリカン・マンガ・アワード」の授賞式の壇上で挨拶するショットさん(2024年) © Kasumi Abe
マンガファンへ向け、彼なりの「希望の光」も最後に伝えてくれた。
「日本にいると、世界でのマンガ・アニメの影響力をあまり実感することがないでしょうが、実際のところ世界に与えている影響は非常にパワフルです。日本国際漫画賞では今年過去最多の世界95の国・地域から716作品の応募がありました。最優秀賞はブラジルで、優秀賞はタイ、台湾、チリから。どの作品もレベルがプロと見まごうほど高く、応募数も急増しています。そしてそれらの多くは日本のマンガやアニメから影響を受けているんです。これは本当にすごいことだと思うんですよ。日本のソフトパワーの表れの一つですよね」
バナー写真:アトムの人形とともに(ショットさん提供)
(※1) ^ 23年の作品賞を受賞した『Everything Everywhere All at Once』のこと。同作は日本のアニメにインスパイアされたアクションコメディ
