『島耕作』も並んだ日本一行列の出来る“伝説の立ち食いそば屋”の店主が語る秘話

文化 旅と暮らし

  • 銀行を辞めて独学で唯一無二のそばを作る
  • 料理は芸術であり権利が守られるべきだ
  • 『島耕作』が立ち食いそばの文化的意識を広めた

2019年2月に惜しまれつつ幕を閉じた、虎ノ門「港屋」が誕生したのは2002年。そばつゆにラー油、つけ麺スタイルという異色の肉そばは、日本そば界に革新的な新風を巻き起こし、オープン早々にして大行列ができる立ち食いそば屋となった。

さらに、人気漫画『島耕作』シリーズで「島耕作が愛する立ち食いそば屋」として登場すると、お店は全国区となり、今や港屋インスパイアが後を絶たない。その「伝説の店長」である菊地剛志さんに当時の秘話を聞いた。

港屋の「伝説の店長」菊地剛志さん
港屋の「伝説の店長」菊地剛志さん

オフィス街のギャラリーのような立ち食いそば屋

東京都心のオフィスビルが建ち並ぶ大手町に「港屋2」が開業したのは、2016年8月。星野リゾートが運営する日本旅館「星のや東京」の1階角にある路面店だが、店頭にあるのは「Minatoya2」という小さな表札のみ。

入り口は小さく、外観は一面が黒いスモークガラスで覆われ、一見するだけでは店があることさえ分からない。店内は暗くBGMは静かに流れるクラシック、あるのは大きな大理石テーブル1つと、まるでギャラリーのようだ。

菊地さんは、港屋2に開業当初より関わっている。


――虎ノ門にあった1号店「港屋」は2019年2月に突然お店を閉めて、今やそば界の伝説となりましたね。「寿命が来たようです」と書いた張り紙一枚のお別れに、多くのファンが驚き呆然としました。

菊地氏
人に寿命があるように店にも寿命があると思っておりまして、閉店という言葉は使いたくなかったのです。ですから「寿命」という言葉を使わせていただきました。飲食業界において、10年続くお店は全体の2%に満たないと聞きますが、18年もの長い間、たくさんのお客さまに可愛がっていただいたのは、人でいうと大往生だったと思います。

1号店の「港屋」には常に長蛇の列があった
1号店の「港屋」には常に長蛇の列があった

――大手町の「港屋2」は2016年、「星のや東京」と同時期に開業しましたね。星野リゾートからこの共同事業について、どのように誘われたのですか?

菊地氏
星野リゾート社の星野佳路代表とお話をさせていただく機会があり、そこで実は港屋の大ファンだと伺いまして。私も星野代表の気さくなお人柄が大好きです(笑)その際に、日本旅館「星のや東京」と一緒に伝統的な立ち食いそばの文化を世界に発信していきませんか?とお話を頂戴いたしました。

銀行を辞め…独学で唯一無二のそばを作る

――菊地さんは異色の経歴をお持ちと伺っていますが、港屋を開店する前は銀行員だったそうですね。

菊地氏
大学卒業後、銀行に2001年まで勤務していました。私は、学生の頃より事業をしたいという想いがございまして、その当時に興味をもっていたのが自動車の板金屋さんや庭師さん、そば屋さんも良いなあと思っておりましたね。

――その中で、なぜそば屋を選んだのですか?

菊地氏
私はテレサ・テンさんが好きで、「時の流れに身をまかせ」という曲を聴いておりましたら「だからお願いそばに置いてね 今はあなたしか愛せない」というフレーズと優しい歌声にふと心を奪われていまい、その瞬間、そば屋さんって決めたんです(笑)私の性格からか修行には目もくれず、すぐに独学で勉強を始めました。退職後の1年間は自由な時間をつくり、スタジオキッチンに籠っていろいろ研究しました。

――修行をしなかったことで、独自のめんつゆにラー油、つけ麺スタイルの冷たい肉そばという港屋スタイルが確立できたのかもしれませんね。

菊地氏
港屋の食材におきまして、全て唯一無二です。そばもおつゆもラー油も、もちろん海苔も胡麻も。その唯一無二こそが、修行に目もくれなかった私の哲学であり、見た目は似ているものができたとしても、港屋の哲学、つまり世界観まで同じものを作るのは絶対に不可能です。

独自のめんつゆにラー油、つけ麺スタイルの冷たい肉そば
独自のめんつゆにラー油、つけ麺スタイルの冷たい肉そば

料理は芸術であり、権利が守られるべき

――巷ではいわゆる「港屋インスパイア」が続々と生まれていますね。港屋というと極太でコシのある麺が特徴ですが、私もインスパイアを食べ歩いてみると、やはり麺は全く違いますね。

菊地氏
よく「繋ぎにこんにゃくを使っているのですか」などのご質問をいただくことがありますが、そんなことは一切なく、創り方は正当派そのものです。そして、私は自分が創ったそば以外は、ほとんど口にしないようにしております。作品の創り手として、違う感覚を身体に入れるのが嫌なのです。

――インスパイアが乱立の中で「味を守る」ために、どのような工夫をされていますか?

菊地氏
すべての取引業者さまとは、必要に応じて様々な契約の締結をいたしまして、権利を守るということには細心の注意を払っています。また、権利関係については自分なりに勉強し、弁護士の先生や弁理士の先生とは常に対策を練っております。現在の食の分野は著作権的な法整備がされていないのです。これからの時代、何からの方法で権利関係を守らないと、食の分野での新しい創造がなくなってしまいます。

――確かに食の分野で著作権の話は聞いたことがないですね。

菊地氏
私たちが今、当たり前に食べ続けているお料理のひとつひとつは、天才が創った作品だと思っています。私はよく「カツ丼やカツカレーは誰が創った作品なのかは分かりませんが、作者は天才だ」と話しています。ですから、誰が創ったのかは絶対に守らなければいけない。お料理は音楽や絵画と一緒で芸術だと思っています。

『島耕作』が立ち食いそばの文化的意識を広めた

――お店をオープンした時、このようなそばが受け入れられる自信はありましたか?

菊地氏
当時は27歳と若かったですから、27歳なりに、根拠のない自信みたいなものはありました。でもこれほど多くのみなさまに愛していただけるとは夢にも思いませんでした。当時はインターネットが普及していなかったので口コミで広がりましたが、最初にテレビでご紹介してくださったのは田崎真也さんでした。「世界で一番美味しいと思っているそばだ」と。それから多くの著名人の方々がご来店してくださいました。

――港屋は漫画『島耕作』にも登場しましたね。

菊地氏
弘兼憲史先生には、公私共々本当に良くしていただいています。港屋が『島耕作』に登場した時は本当にびっくりしました。お客さまに「週刊モーニングに載っているよ」と教えていただき、その日の夜に急いで買いに行きました。

――『島耕作』の反響は大きかったでしょうね。実は私も『島耕作』でお店を知りました。

菊地氏
それまでも開店前から100人くらいのお客様にお並びいただいていたのですが、『社長 島耕作』以降からは、黒塗りの車に乗られたお客さまが並ばれて、召し上がってくださるようになりました。現代の立ち食いそばが意味する「文化的意識」を高め、広めたのは、間違いなく弘兼憲史先生と島耕作社長です。

「島耕作社長が立ち食いそばの文化的意識を高めてくれた」と菊地さん
「島耕作社長が立ち食いそばの文化的意識を高めてくれた」と菊地さん

フランチャイズに興味はなく文化の種を植える

――そもそもなぜ立ち食いで始めたのですか?

菊地氏
そばは歴史的に屋台で立ち食いという文化だったのです。そこで私は、「現代の解釈で立ち食いそばを表現しよう」と思いました。ラー油を入れたのも、現代の解釈と唯一無二のひらめきです。美味しいもりそばや天ざるなどへの憧れはなく、唯一無二のものを創ろうと思いましたね。

店内はよくギャラリーや美術館のようだと言われますが、その中で、そばという「芸術品」と対峙していただきたいという考えです。

――今は他にも何かされているのですか?

菊地氏
私はいくつかの事業を営み、主に商品開発などを手掛けています。文化を創っていると考えていますので、港屋のフランチャイズ的な数のビジネスには興味がございません。星野リゾート社のように、哲学を持っていらっしゃる方々としか組みませんので、他にもお話を頂戴しておりますが、お断りさせていただいております。

――今後は何をされたいと考えていますか?

菊地氏
楽しくやっていけたらと思っております。私は現在46歳ですが、60歳くらいで死を迎えても何ら不思議はありません。そういう意味では、あと人生15年ぐらいの可能性もあると思いながら生きていきたい。そんな人生観の中で、新しい文化の種を植えていきたいです。

――ありがとうございました。


【執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款】

(FNNプライムオンライン7月4日掲載。元記事はこちら

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