「そこは虐殺の海だった」 7歳で被爆した日系アメリカ人が語り継ぐヒロシマの記憶

国際 社会

  • 75年前、日系アメリカ人の少年が見た原爆
  • 「自分の被爆のせいなのか・・?」…5歳の長男を亡くし葛藤した日
  • 「“ヒバクシャ”は自分たちで最後に」…75年目のメッセージ
  • 75年前、日系アメリカ人の少年が見た原爆
  • 「自分の被爆のせいなのか・・?」…5歳の長男を亡くし葛藤した日
  • 「“ヒバクシャ”は自分たちで最後に」…75年目のメッセージ

75年前、ヒロシマには多くの日系アメリカ人がいた

「炎に包まれた町では火傷を負った人が水を求めてさまよい、大勢の人が亡くなって倒れていました。私は“虐殺の海”の中を歩いて逃げたのです」

82歳のハワード・弘・蠣田(カキタ)さんは今でもはっきりと75年前のことを覚えている。

アメリカ・ロサンゼルスで生まれた日系3世。蠣田さんは広島に住む祖父母の家に滞在中、被爆した。戦前、広島からアメリカへ渡った日系移民の子供たちは日本語や日本文化を学ぶため、また、親戚を訪ねるなどの目的で日本に里帰りしていた。

開戦当時、広島にはおよそ3000人の日系アメリカ人がいたと推定されている。蠣田さんもその1人だ。人類史上初めて原子爆弾が使用されてから今年で75年。戦争に翻弄されながらも生き抜いて来た日々を語ってくれた。

LA近郊の自宅からオンラインインタビューに応じてくれたハワード・弘・蠣田さん(82)
LA近郊の自宅からオンラインインタビューに応じてくれたハワード・弘・蠣田さん(82)

7歳の少年が見た原爆

1940年、祖父の見舞いでアメリカから広島を訪れた蠣田さん一家。その後両親は仕事のためアメリカへ戻り、蠣田さんは2つ年上の兄とともに祖父母の家で暮らしていた。広島に原爆が投下された1945年8月6日、当時蠣田さんは7歳で、国民学校の1年生だった。

1940年、アメリカから日本へ向かう船上で(右から2番目が蠣田さん)
1940年、アメリカから日本へ向かう船上で(右から2番目が蠣田さん)

広島で大好きな祖母と過ごした日々(前列右が蠣田さん。後列右は祖母)
広島で大好きな祖母と過ごした日々(前列右が蠣田さん。後列右は祖母)

ハワード・弘・蠣田さん:
「その日は敵機が近くにいるからということで学校は休みになり、家にいました。離れの平らな屋根の上では祖母が洗濯物を干していて、私と兄もそこに登りました。屋根の上からは遠くからやってくるB-29の飛行機雲が良く見えました。祖母から『すぐに屋根から降りなさい』と注意され、私たちは屋根から降りたのです。私は建物の中に入り、兄が家の横にあった門を通り過ぎた時、爆弾がさく裂しました。私は何も見えず、何も聞こえませんでした。意識を失い、建物のがれきに埋もれてしまったのです」

爆心地からわずか1.3キロ。幸運にも蠣田さんはがれきの下から自力で這い出すことができ、奇跡的に兄も無事だった。祖母も命は助かったものの、爆風で飛び散ったガラスの破片が全身に刺さりひどいケガをしていた。

ハワード・弘・蠣田さん:
「私たちは山の方へ逃げました。人々の大群が市内の中心部から山の方へ向かっていて、みんなひどいケガをしていました。ひどい火傷をして、体から皮膚が垂れ下がっていました。中にはお腹から内臓が飛び出したままそれを抱えて逃げている人もいて、道路にはたくさんの遺体がありました。そして多くの人が、水を求めてさまよっていたのです。その中をどれくらいの時間歩いたかは分かりません。永遠に続くような気さえしました。その虐殺の光景は、その後何年にもわたって私の心に残り続けました」

火傷をし、皮膚が垂れ下がったまま逃げる人々(全米日系人博物館特別展「きのこ雲の下で」より)
火傷をし、皮膚が垂れ下がったまま逃げる人々(全米日系人博物館特別展「きのこ雲の下で」より)

数日後、避難先から戻ってくると祖父母宅があった一帯は全てが燃え尽き、辺りには遺体を火葬する臭いが漂っていた。焼け野原となった町でトタンなどをかき集めて家を作り暮らしたが、しばらくひどい下痢の症状が続き、髪の毛も抜け落ちてしまったという。

原爆投下後の広島(出典:National Archives at College Park)
原爆投下後の広島(出典:National Archives at College Park)

命は助かったが、髪は抜け下痢の症状に苦しんだ(右から蠣田さん、祖父、兄)
命は助かったが、髪は抜け下痢の症状に苦しんだ(右から蠣田さん、祖父、兄)

アメリカへ戻っても続く被爆の影響

1948年、蠣田さんは両親の待つアメリカへ戻ったが、その後も心に負った傷に苦しめられることとなった。

ハワード・弘・蠣田さん:
「アメリカへ戻った後も、悪夢にうなされました。母によると、私はよく夜中に起きて泣き叫んでいたそうです。また、スパゲティやレアの肉など、あの時の光景を思い出させる赤い色の食べ物は口に出来ませんでした」

在米被爆者たちは、後遺症と向き合う一方、“原爆を落とした国”に暮らすことでの苦難も多かった。「原爆を使ったから戦争が早く終わり、多くのアメリカ兵の命が救われた」と原爆投下を正当化する声も聞かれた。このため、自身の過酷な経験を誰にも話せず、口を閉ざす被爆者も多かったという。蠣田さんは大学生だった25歳の時、妻となるアイリーンさんに結婚を申し込む。その時、全てを打ち明けた。

ハワード・弘・蠣田さん:
「彼女は私が日本で育ち、広島にいたことは知っていましたが、(そこで何があったかは)詳しくは知りませんでした。だから結婚を決めた時に、『自分は広島で被爆したから、放射能のせいで長生きできないかもしれない。子孫にも影響があるかもしれない』と全てを話したのです。まだ若かったからあまり気にしていなかったのか、彼女は受け入れてくれました。でも、その後授かった長男を5歳の時にガンで亡くしたのです。医師は『おそらく放射能とは関係ない』と言いましたが、私は気持ちのどこかで私が被爆したせいなのではないかと考えてしまいます・・」

幼くして亡くなった長男。直接関係はないと分かっていても、心のどこかで「被爆のせいではないか」と思い、葛藤が生じる。蠣田さんは二重の苦痛に耐えなければならなかった。

“ヒバクシャ”は自分たちで最後にしたい

在米被爆者の高齢化が進む中、ロサンゼルス周辺には原爆の経験を語り継ぐ活動を続ける被爆者たちがいる。蠣田さんもASA(米国広島-長崎原爆被爆者協会)のメンバーとして講演会などで積極的に自身の経験を語り、核兵器の廃絶を訴えている。75年が経ち、核を巡る状況が一向に改善しない中、蠣田さんは自身が語り、伝えることの重要性を強く感じるようになったという。

講演会でアメリカの人たちに被爆経験を語る蠣田さん
講演会でアメリカの人たちに被爆経験を語る蠣田さん

ハワード・弘・蠣田さん:
「過去の過ちから学ぶことは本当に、本当に大切です。しかし75年経った今、人類はさらに強力な破壊兵器を保持し続けています。日本にいる被爆者、アメリカにいる被爆者、多くの被爆者が核戦争の恐ろしさを語って来ました。自分もそうです。1人の声は小さいですが、かけらを集めて大きな絵を作るように、人々の声を集めれば大きな力になり、世界の指導者たちに届くはずです。原爆のような兵器は完全に禁止し、“ヒバクシャ”と呼ばれるのは、自分たちが最後になってほしいと願います」

過酷な時代を生き抜き、今では2人の娘と4人の孫たちに恵まれた
過酷な時代を生き抜き、今では2人の娘と4人の孫たちに恵まれた

【執筆:FNNロサンゼルス支局長 益野智行】

(FNNプライムオンライン8月6日掲載。元記事はこちら

https://www.fnn.jp/

[© Fuji News Network, Inc. All rights reserved.]

FNNニュース