終戦から75年…旧日本軍が建設した“死の鉄道” 悲劇の現場で働いたタイ人とマレーシア人の証言

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  • 連合軍の捕虜が相次いで犠牲に…過酷な泰緬鉄道の建設現場
  • 監視兵の目を盗んで逃走した労働者…僧侶に救われた命
  • 戦争の記憶を後世に…捕虜施設の跡地に資料館オープンへ
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悲劇の現場

タイは第2次世界大戦中、日本と同盟を結び敗戦国となったが、抗日レジスタンスの活動などが考慮され、連合軍の植民地にならず占領を免れた。多くのタイ人は、「戦争の被害者」という意識はあまりない。しかし、戦争によって人生を狂わされ、戦争の残酷さに直面した人たちは少なからずいる。

旧日本軍がタイとビルマ(現ミャンマー)の間に建設した泰緬(たいめん)(注)鉄道もそうした悲劇の現場の一つだ。

旧日本軍が建設した泰緬鉄道のクウェー川鉄橋 映画「戦場にかける橋」の舞台となった
旧日本軍が建設した泰緬鉄道のクウェー川鉄橋 映画「戦場にかける橋」の舞台となった

泰麺鉄道は全長415キロ。軍事物資の補給路確保を急いでいた旧日本軍は大量の人員を動員して、1943年10月、わずか1年3カ月ほどの突貫工事で鉄道を完成させた。建設作業に関わったのは、主にオーストラリアやイギリス、アメリカなどの連合軍の捕虜、タイやミャンマー、マレーシアなどの労働者だった。

建設機材が不足する中で、深い密林を切り開く過酷な作業に加え、伝染病や飢えなどによって数万人が犠牲になったという。このため“死の鉄道”とも呼ばれている。当時の状況を知る関係者2人から話を聞いた。

注:泰はタイ、緬甸(めんでん)はビルマを指す。

大勢の捕虜が亡くなった“死の鉄道”の建設現場

泰緬鉄道の建設現場で働いたトンプロムさん(98)
泰緬鉄道の建設現場で働いたトンプロムさん(98)

カンチャナブリ県トンパープン地区に住むコメ農家、トンプロムさん98歳。20歳前後の頃、旧日本軍に雇われ、泰緬鉄道の建設現場で働いていた。ゾウに直径60センチほど、長さ10メートル以上の丸太を載せて、毎日10回から30回、伐採現場と鉄道の建設現場を往復していた。十分な給料が支払われ、仕事が終われば、暮らしていた寺院に戻っていた。しっかり挨拶をする旧日本兵の印象を「優しそうだった」と話す。

泰緬鉄道の建設現場(提供:トンパープン地区文化協議会)
泰緬鉄道の建設現場(提供:トンパープン地区文化協議会)

しかし、建設現場の状況は過酷だった。現場では死んで横たわっている連合軍の捕虜を大勢見かけたという。多くがコレラで死亡し、遺体は線路脇に埋められていた。丸太を運びながら、毎日のように遺体が増えていくのを目にした。数えきれないほどの数だったという。その光景は98歳になった今も記憶から消えない。トンプロムさんは最後にこう訴えた。「戦争はよくない。大勢の人が死ぬ」

12歳で“死の鉄道”の建設現場に

祖国マレーシアからタイに来たトンユーさん(享年85)
祖国マレーシアからタイに来たトンユーさん(享年85)

泰麺鉄道の建設現場には周辺国からタイにやって来た出稼ぎ労働者も多かった。85歳で亡くなったトンユーさんも旧日本軍から給料がもらえると聞いて、まだ幼い12歳の頃、祖国マレーシアからタイに渡った1人だ。息子のウッドさんはトンユーさんから建設現場での苦しかった経験を繰り返し聞かされたという。

旧日本軍が建設した泰緬鉄道のタムクラセー桟道橋
旧日本軍が建設した泰緬鉄道のタムクラセー桟道橋

トンユーさんは、レールを敷設するため、枕木や砕いた石を運ぶ作業をしていたが、病気になっても休むことは許されず働き続けなければならなかった。約束された給料も支払われなかった。タイに来て2年ほど経った頃、トンユーさんは仲間とともに脱走を決意。旧日本軍の監視兵の目を盗んで、準備した食料を持って逃げ出したという。

川を泳ぎ、山を抜けて、果樹園の果物を採って食べながら逃げ続けて約1週間後、寺院「ワットジョラケープアック」にたどり着いた。監視兵が追って来たが、この寺の僧侶が追い払ってくれたという。

トンユーさんがかくまわれた寺「ワットジョラケープアック」
トンユーさんがかくまわれた寺「ワットジョラケープアック」

何とか脱出したあとも、マレーシア人のトンユーさんはタイ語ができず、職探しに苦労した。その後、タイで結婚し6人の子供にも恵まれたが、生活は楽ではなかった。ウッドさんは言葉に苦労しながら働くトンユーさんの姿を見続けてきた。過酷な労働を強いられたトンユーさんだが、泰麺鉄道については「旧日本軍は自分の仕事をしただけだ」と言うだけで、日本に対し恨みをもつことはなかったという。

しかし、ウッドさんの目には父親の「戦争」は終わっていないように見えた。「父の人生は、戦後も戦争中のようだった。」トンユーさんは祖国に戻ることなく5年ほど前、タイでその一生を終えた。戦争に翻弄された1人だ。

大戦から75年…新しい泰緬鉄道の資料館オープンへ

捕虜が休んでいた施設跡地オープンする資料館
捕虜が休んでいた施設跡地オープンする資料館

戦時中、トンプロムさんが生活していたトンパープン地区の寺「ワットターカヌン」。この寺の脇に泰緬鉄道の建設現場で働いていた連合軍の捕虜のための施設があった。この施設の跡地に、現在泰緬鉄道の史料を集めた資料館のオープンの準備が進められている。

この近くには、実際に泰緬鉄道の線路が通っており、すでに案内看板が設置されているほか、館内には建設現場の写真や旧日本軍の史料などが展示される予定だ。戦争の記憶を後世に残す役割が期待されている。

泰緬鉄道の建設で亡くなった連合軍の捕虜たちが眠る共同墓地
泰緬鉄道の建設で亡くなった連合軍の捕虜たちが眠る共同墓地

第2次世界大戦の終結から今年で75年。大戦を経験した多くの人たちがすでにこの世を去っている。残された人たちの証言を聞き、後世に伝えることは今を生きる我々の使命である。旧日本軍が進駐したタイ。泰緬鉄道の建設では、多くの犠牲者を出した。

タイの共同墓地には亡くなった連合軍の捕虜たちが眠っている。名前が記されていない墓石もあり、無念のまま亡くなった人々の思いに胸が痛む。タイに残る泰緬鉄道の一部路線には、今は多くの観光客が訪れるが、75年の節目に改めて戦争の悲惨さを考える機会としてほしい。

【執筆:FNNバンコク支局 武田絢哉】

(FNNプライムオンライン8月12日掲載。元記事はこちら

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