「マニュアル一切ない」…江戸時代から受け継がれる「明神甘酒」

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  • 日本でただひとつの地下「糀室」
  • 江戸時代創業の「天野屋」
  • マニュアルがない甘酒づくり

日本でただひとつの地下「糀室(こうじむろ)」空間

明治37年糀室之図 千代田区教育委員会所蔵
明治37年糀室之図 千代田区教育委員会所蔵

「糀室之図」と書かれた図面。

江戸時代創業の神田明神にある甘酒屋「天野屋」の地下に広がる空間を示したものである。

「天野屋」喫茶店内
「天野屋」喫茶店内

甘酒に欠かせない糀(こうじ)を造るための地下室(ちかむろ)と呼ばれる空間で、現存する地下室はここにしかないと言われている。

以前は、人の手指を広げるように四方に向かって伸びていた地下空間は、現在は神田明神大鳥居の脇あたりに存在する「床場」を残すのみとなっている。

千代田区指定文化財記録映像 「千代田区有形文化財(建造物) 天野屋糀室」より
千代田区指定文化財記録映像 「千代田区有形文化財(建造物) 天野屋糀室」より

文政年間(1818〜1831年)に作成された「江戸町方書上」(江戸の各町の由来や現況について町名主に提出した資料)によると、天野屋が位置する外神田や湯島、本郷などにはかつて100人ほどの麹製造業者がおり地下室を所有していたという。

外神田、湯島、本郷などの一帯は本郷台地と呼ばれ、関東ローム層という主に粘性質の地層でできている。地盤が強固で年間を通して16から18度という一定の温度を保つことができ麹をつくるには最適の環境だということだ。

天野屋6代目天野博光さんは「半地下の糀室や地上にある糀室(陸室)はあるが、完全に地下にある糀室は全国的に見てもここにしかない」と言う。

6代目天野博光さん
6代目天野博光さん

現在ひとつだけ残った地下室は、1904年(明治37年)に煉瓦などで補強建設されたもので、1923年の関東大震災や1945年の東京大空襲も生き残った堅固な地下室である。

それ以外のほとんどは、地下室の上にビルを建設する(建物の基礎を築く為)などの理由で埋められてしまった。

江戸時代から受け継がれてきた地下室が埋められる時は、神田明神の神職さんにお祓いに来てもらい、みんなで集まり、最後のお別れをしたという。

幼少期には遊び場でもあり、職人として一番大切なものだと話してくれた地下室。「埋められる時は寂しかったな」と当時の心境を天野さんは語る。

天野屋の意外な創業秘話

東京・神田で店を構える天野屋は、江戸末期1846年(弘化3年)創業の甘酒屋(糀屋)である。その創業は意外だった。

創業者は京都・丹後国にあった宮津藩の天野新助というお侍さんである。

宮津藩のお侍・天野新助がなぜ神田で甘酒屋を営むに至ったかについては、新助の弟の存在が関係している。

兄と同様、宮津藩に仕えていた弟は幕末の剣豪・千葉周作が創始した北辰一刀流の道場(現在の秋葉原周辺に位置)で剣術を鍛錬していた。

弟は剣術に秀でており、免許皆伝を許され江戸藩邸の召し抱えになる。しかしそれがきっかけで人の嫉妬を買い不運にも暗殺されてしまう。その報を知った兄・新助は仇討ちをするため江戸に出ることを決意した。

江戸にやってきたものの、弟が通っていた道場の周辺など探しても手がかりが乏しく、弟を斬った相手を捜し出すことが困難だったため、大勢の人が訪れる江戸総鎮守・神田明神大鳥居脇に居を構えたのが始まりだという。

天野屋は神田明神・大鳥居脇にある
天野屋は神田明神・大鳥居脇にある

お店の佇まいからはまったく想像できない。仇討ちは完遂できていないという。

「室には家付き酵母が住み着いている」

糀や甘酒を作るなかで、生き延びた酵母や発酵が進む過程で飛沫したものが地下室の床土、天井に付着しそこに住み続ける。それらを家付き酵母といい、肉眼で見ることはできないが、その室の中で生き続けながら次の糀、甘酒作りに影響を与えていく。

千代田区指定文化財記録映像「千代田区有形文化財(建造物) 天野屋糀室」より
千代田区指定文化財記録映像「千代田区有形文化財(建造物) 天野屋糀室」より

地下室では、職人と家付き酵母の共同作業によって上質な糀や甘酒が造られている。

家付き酵母は、外部から侵入した雑菌に弱く、わずかなことで具合が悪くなってしまう。そのため取材で地下室に入ることは許可されなかった。

普段から出入りしていない、地下室の環境に慣れていない者が入ると家付き酵母の状態が悪くなり、糀や甘酒の仕上がりに影響が出るのだという。

長年天野屋の限られた職人だけが入ることで、家付き酵母の状態を健全に守ることができる。天野さんは、「家付き酵母も”いつもの人だ”というように我々職人を認識してくれているのだと思います。私も家付き酵母の一部なのですよね」と話す。

マニュアルのない、甘酒作り

マニュアルというものは一切ないです。米に手を突っ込んだときの温度の感じとか全部身体で覚えています

千代田区指定文化財記録映像「千代田区有形文化財(建造物) 天野屋糀室」床もみの様子
千代田区指定文化財記録映像「千代田区有形文化財(建造物) 天野屋糀室」床もみの様子

天野屋では、糀を作るのに4日、甘酒を作るのにはさらに1日を要するという。その工程は文字通り生きている糀菌との二人三脚だ。

一次発酵時の温度(42度ほど)や酵素が活発に働く温度(活発領域)は55度〜60度なっているが、温度計で測っても上手くいかなかったこともあるという。


指先や身体の感覚でその具合を確かめていく。

温度が高すぎると菌は死に、低すぎると発酵が促されない。代々受け継がれてきた感覚で糀菌の良い状態を触って確かめる。

また糀菌が繁殖すると米同士がくっつき、密着して空気が入らなくなるため丁寧に「手入れ」という作業で空気を入れる。

糀、甘酒を作り始めると付きっきりで作業を行わなければならず、昼夜問わず向き合わなければならないという。

天野屋の皆さん 左:天野史子さん 中:天野博光さん 右:天野太介さん
天野屋の皆さん 左:天野史子さん 中:天野博光さん 右:天野太介さん

撮影後記

2020年開催予定だった東京オリンピックも史上初の延期となるなど、今年の出来事を振り返ると、新型コロナウイルス関連のことしか思い出せない。春も夏も思い出はコロナに関することばかりで、季節を奪われてしまったような気がする。だからこそカメラマンとして季節感ある映像夏企画を放送したいと思った。

「夏」の代名詞とは何かと調べていくうち、甘酒が夏の季語だということを初めて知った。

お正月に飲むイメージのある甘酒が何故夏の季語なのだろうか。冬の飲み物として馴染みのある甘酒が本当に夏の飲み物なんだろうか?と純粋にその驚きを映像に落とし込みたい、そんな想いで今回の取材を始めた。

甘酒を調べていくと、古くは日本書紀にも甘酒と思われる記述があるというから驚きだ。

お米を使った飲み物であるため、五穀豊穣の願いが込められ神事の際に献上されていたという側面もある。そして江戸時代には、砂糖が高級品だったため、庶民が手軽に食せる甘味源ということと、夏を乗り切る栄養ドリンクとして沸かした甘酒を熱いまま飲んだり、井戸水で冷やしたりして飲まれていた。

四季を通じて甘酒は飲まれていたが、特に夏に飲まれていたという。また近年ではその栄養成分から「飲む点滴」などと紹介されてきている。

自分が知らなかっただけで、甘酒は思った以上に夏の飲み物として認知されているのかもしれない。


たくさんある甘酒屋さんの中でも天野屋さんを取材しようと考えたのは、地下糀室の存在に興味を惹かれたからだ。

お店に通い、取材しながら感じたのは、神田明神の近くにこんな地下空間があるのかという率直な驚き。そして天災や戦争をたくましく乗り越えてきた地下室が、ビル建設などの理由によってほとんどがその姿を消してしまったことに言い表せない時代のうねりを強く感じた。

ただ神田明神を参拝に来ただけでは気づかない地下室の存在を知ったことで、今目の前に広がっている景色が一変するような感覚を抱いた。そんな「眼に見えるもの」と「眼に見えないもの」の後ろに控えている「見えてくるもの」の存在に面白さを感じた。

甘酒が実は夏の季語だったり、神田明神の近くに古くから続く地下空間があったりとその面白さに素直に従おうと思い取材を進めた。

地下の撮影ができないため、千代田区が保管している地下室の資料映像などを用い、どのように見せたらいいのか、自分が感じたものをどのように表現するか悩んだが、自分自身この取材を通し新たな視座を見つけたような気がする。

「眼に見えるもの」だけではなく、「見えてくるもの」を探し取材、撮影すること。

その視点を大切にすること。

それが今年の忘れがたい夏の記憶となった。

 

取材撮影部 佐藤 祐記 カメラマン

(FNNプライムオンライン8月31日掲載。元記事はこちら

https://www.fnn.jp/

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