プロ野球の象徴だったヤクルト・巨人戦。野村監督が残した“考える野球”が球界をまた盛り上げる

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平成から令和にかけてプロ野球界は、変革を続けてきた。

だが、変わらないものもある。それは故・野村克也監督が残した魂だ。

©産経新聞社
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ID野球が生まれて30年経ち、今や12球団中6球団の監督が野村監督の教え子。

野村監督が伝えた「考える野球」こそが、日本の野球となっている。

平成の野球界を盛り上げた、神宮球場での東京ヤクルトスワローズ対読売ジャイアンツが行われる4月27日を前に、野村監督が残したものを改めて振り返る。

「種をまき、水をやり、3年目に花咲かせる」


1990年代、プロ野球の象徴は、ヤクルトと巨人の優勝争いだった。

当時の巨人は、斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の先発3本柱を抱え、原辰徳、松井秀喜、落合博満、広沢克など強力なバッターとともに黄金期を迎えていた。

その長嶋茂雄監督率いる常勝軍団と、Bクラス常連だった弱小チームヤクルトを、戦えるチームに変えたのが野村克也監督だった。


1990年にヤクルトの監督に就任した野村監督は、データの重要性を掲げた「Import Data(データ重視)=ID野球」を打ち出し、キャッチャーが野球の鍵を握るという考えで名キャッチャー古田敦也を産み出した。

「1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう」

その言葉の通り、野村監督は就任3年目の1992年にセ・リーグ優勝を果たすと、そこからヤクルトと巨人の優勝争いが続くこととなる。


神宮球場での緊張感を覚えている人も多いのではないか。

1994年5月11日のデッドボール合戦による乱闘は、「故意・過失を問わず頭部に死球を与えた投手は退場」と球界のルールを変えるまでの反響を見せ、野村監督が仕掛ける舌戦でファンは盛り上がり、長嶋監督は当時神宮球場で盗聴が行われている可能性を考え、ダグアウト裏を含め調べさせたこともあったという。

1992年、93年と互角の闘いを見せたヤクルトと巨人(共にヤクルト優勝)だったが、94年にジャイアンツがヤクルトに15勝11敗と勝ち越すと、そのままシーズンで優勝。
95年にヤクルトが17勝9敗と勝ち越すと、ヤクルトが優勝。
96年に巨人が20勝6敗と勝ち越すと、巨人が優勝と、ヤクルトと巨人で勝ち越したほうが優勝するという白熱した戦いとなっていた。

いかに野球を面白くするか、惹きつけるか

1997年、西武から清原和博を獲得し、史上最高のメンバーが揃ったと言われた巨人。


相次ぐ選手の流出などもあり、ヤクルトの戦力低下が叫ばれる中、野村監督はマスコミの前で「清原の弱点はインコース」と開幕前に幾度となくマスコミを使い情報戦。

その清原はインコースを意識するあまり、ホームベースからどんどん遠ざかり、得意なアウトコース打ちの感覚まで狂わせた。

さらに、広島カープから自由契約となり前評判が低かった小早川毅彦を、「野村再生工場」と呼ばれる指導や助言で復活させ、当時絶対的な巨人のエースだった斎藤を、3打席連続本塁打で打ち崩し出鼻をくじくと、そのままの勢いで巨人に対しシーズン19勝8敗と勝ち越し、優勝を飾った。

ハウエル・ペタジーニ・ラミレス・広沢など様々な選手を巨人に引き抜かれながらも(引き抜きではないヤクルト・広岡大志と巨人・田口麗斗のトレードは44年ぶりのものだ)、ID野球、野村再生工場、そして的確な外国人選手のスカウト等によって、ヤクルトを戦えるチームに作る変えた野村監督。

1998年にヤクルトを去ったが、90年以降、当時難関とされたセ・リーグの連覇を達成したのは、92−93年の野村監督率いるヤクルトが唯一のものであった(2007年まで)。


野村監督はリーグ戦だけではなく、短期決戦の日本シリーズにも強かった。

セ・リーグを制覇した92年には、最終第7戦までもつれ込むほど日本一に肉薄し、93年、95年、97年は日本シリーズを制した。ID野球による分析で、短期決戦でも相手に勝つ術を選手に教え込んでいたのだ。

その最たる例が、95年のオリックスとの日本シリーズだろう。当時のオリックスは、阪神大震災後の「がんばろうKOBE」という合言葉を胸に、チームとファンや市民が一丸となり、勢いがあった。さらに前人未到の打者五冠王に輝いていたイチローを中心とした戦力で、下馬評でもオリックス優勢だった。

野村監督は開幕前から、イチローは「インコース高め速球が弱点。ここを攻める」と公言し続け、天才打者に対してもバッターボックスで迷いを生じさせた。

そして勝負どころでは全く機能させず、打率2割6分3厘(19打数5安打)、そして最も三振しない打者イチローが、4戦まで毎試合三振を記録(無三振記録 97年に216打席)。

情報戦と、いわゆるID野球を最大限に駆使し、4勝1敗で日本一に輝いた。


さらに野村監督は、いかに野球を面白くするか、そして惹きつけるかということを、最も考えていた人間でもあった。

96年でのオールスター戦で監督を務めた際は、第二戦でバッター松井に対して、パ・リーグの仰木彬監督がイチローをピッチャーとして登板させる。これに対し野村監督はピッチャーの高津臣吾を代打で送り、球場を沸かせた。

これは野手のプライドを考えた行動で、エンターテイメント性を重視しつつ、野球の本質は崩さないという姿勢だ。

また、98年には、巨人で4番の清原和博ではなく、松井を「日本球界の4番だ」とオールスター戦でセ・リーグの4番に指名し、長嶋監督への挑発とも思える行動が話題を読んだ。松井はこの采配で三戦連発の本塁打を放ち、見事MVPに輝いている。

キャッチャーを育てる難しさ


90年代のヤクルトは、ID野球野球を打ち出した野村監督と、その教えを理解して具現化したキャッチャー・古田との二人三脚で、力対力が主流だった野球界を変えていった。

そのチーム作りは他の球団にも浸透して、各チームではキャッチャーの重要性が考えられていくようになった。

レギュラーキャッチャーのいるチームは、シーズン序盤では球種を隠して戦うなど、シーズンを通した試合運びが可能になる。それはキャッチャーが毎回変わるような体制だと、一試合一試合で考えなければならず、決してできないことだ。

それを裏付けるように、現在甲斐拓也というレギュラーキャッチャーを擁するソフトバンクは4年連続日本一を達成している。

甲斐は野村監督が後継として最後に目をかけ、現在野村監督が現役時代につけていた背番号19番を背負っている。昨年は規定打席に立つことはなかったが、12球団の中でも絶対的なレギュラーキャッチャーである。


「優勝チームに名捕手あり」の持論を持つ野村監督は、「とにかくキャッチャーを育て上げるべきだ」という言葉を遺言として残している。

しかし昨年、セ・リーグで規定打席に達したキャッチャーはいなかった。

ID野球が浸透しデータを活用した結果、全体としてのレベルは上がったが、球界はキャッチャーを育て上げる難しさにぶつかっているとも言える。

その困難と向き合っているのが6人の監督たちだ。

野村監督の教え子が戦う今年の球界


2021年の監督は、12球団中6人が野村監督の教え子という、球界史の中でも珍しい状況となっている。

ヤクルトは高津監督、阪神・矢野燿大監督、楽天・石井一久監督、日本ハム・栗山英樹監督、西武・辻発彦監督、中日・与田剛監督の6人が、直接教えを受けた面々だ。

タレントとしてのイメージが強く、監督としての前評判が高いとは言えなかった石井監督も、戦力の補強や、コミュニケーションを密にして選手がやりやすい環境を作りあげる様子を見ると、野村監督の魂を感じる。

師のように、新庄剛志・池山隆寛・広澤克実など個性的で能力を最大限発揮できる選手が生まれる環境作りが期待される。

野村監督がヤクルトからいなくなって20年以上が経ち、高津監督によってあの輝きを取り戻すことになれば、またヤクルト・巨人戦の緊迫感が戻ってくるはずだ。

そうすれば野球人気は間違いなく再燃してくる。


4月27日に行われる両者の対戦では、解説に今年のキャンプでヤクルトの臨時コーチに招かれた愛弟子・古田敦也と、野村監督が持っていた最高出場試合数を破ったキャッチャー・谷繁元信を招き、野村監督がもたらしたID野球を軸に、現代のプロ野球に浸透している教え、捕手論などを深堀りする。

野村監督が残したID野球は、2021年になっても野球の発展の礎となって引き継がれている。これが今の豪快な野球に合わされば、日本だけにしか無い野球が生まれ、球界はまた新たな盛り上がりを見せるはずだ。

(取材・文 吉田博章)
 


 

(FNNプライムオンライン4月27日掲載。元記事はこちら

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