「スパイの子と言われ」英語は禁止 話せる日本語は2つだけ…日系2世の女性が語る戦争と差別【宮崎発】

社会

日系2世としてカナダで生まれ、宮崎・都農町で戦争を経験した女性の平和への思いを紹介する。

戦争を経験した日系2世の女性 当時起きた差別とは…

黒木メイさん(89)。都農町で美容室を開いて62年、これまで多くの人の着付けやヘアセットを行ってきた。


戦争経験者であるメイさんは、当時をこう振り返る。

黒木メイさん:
「アメリカ人、アメリカ人、スパイの子じゃ」とか言われてですね。やっぱりいろいろありましたね


1931年、カナダのバンクーバーで11人きょうだいの5女として生まれた日系2世のメイさん。両親は商売を学ぶため、日本からカナダへ移住してきた。


黒木メイさん:
今考えると、ぜいたくといえばぜいたくですよね。オーブンは大きくて、母は鶏の丸焼きをオーブンでいっぺんに5、6匹作って出していました

話せる日本語は「いただきます」と「おやすみなさい」だけ

1940年、メイさんが9歳のとき、家族で日本に帰国。
その後、太平洋戦争が勃発。これまでとは全く違う生活が待ち受けていた。


黒木メイさん:
(カナダから持ってきた荷物は)ほとんど全部取られましたね。土地がいっぱい空いてるから、借りて(作物を)作る。母も父も着物を持っていなかったから、じいちゃん、ばあちゃん、姉さんの着物を壊してモンペを縫うてもらったり、上着を縫うてもらったりしながら学校に行きましたね


生活が一変し、生きるために必死な毎日。
さらに、慣れない日本での暮らしに苦労するメイさんに残酷な言葉がかけられる。


黒木メイさん:
「アメリカ人、スパイの子じゃ」とか言われてですね。日本語は「いただきます」と「おやすみなさい」しか言えなかったんですよ。「アメリカ人、アメリカ人」言われて、兄は鼻血を出すくらいたたかれたり。「英語は使ったらいけない」と言われていた。憲兵隊が厳しかった。(スパイでも)何でもないんですよ、やっと生活していただけなのに


戦争が起こした差別…終戦後、謝罪してきた憲兵隊も

1945年8月15日、終戦。

終戦後 きょうだいたちが町を離れる中、メイさんは都農にとどまり美容室を開業。地域の人たちと交流を続け、多くの人から慕われ、愛される存在となった。


黒木メイさん:
90年生きているといろいろなことがありましたよ。引き揚げて帰る、戦争は始まる、物はない…。乗り越えてきたからこそ、こんな仕事でも、どん底からでも立ち上がることができたんですよ


黒木メイさん:
戦争は、もうどちらの国もね、親も子どもも悲しむことが多いから、戦争だけはせん方がいいなと思いますね


メイさんたちを厳しく取り締まっていた憲兵隊も、終戦後は「ひどいことをした」と謝罪してきたという。
差別も、戦争がさせてしまったことと考えると、本当に戦争は愚かで、二度と同じ過ちを繰り返してはいけないと感じさせられる取材だった。

(テレビ宮崎)

(FNNプライムオンライン8月29日掲載。元記事はこちら

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