特別リポート:温暖化を予測した「パイオニア」はあきらめない

4月20日、  1969年の秋、米国のある若い博士課程の学生が、母校マサチューセッツ工科大(MIT)の発行する雑誌に目を通していた。写真は2019年10月、プリンストン大で写真撮影い応じるマイケル・オッペンハイマー氏(
2021年 ロイター/Lucas Jackson)
4月20日、 1969年の秋、米国のある若い博士課程の学生が、母校マサチューセッツ工科大(MIT)の発行する雑誌に目を通していた。写真は2019年10月、プリンストン大で写真撮影い応じるマイケル・オッペンハイマー氏( 2021年 ロイター/Lucas Jackson)

Maurice Tamman

[ニューヨーク 20日 ロイター] - 1969年の秋、米国のある若い博士課程の学生が、母校マサチューセッツ工科大(MIT)の発行する雑誌に目を通していた。ベトナム戦争は激化。リチャード・ニクソンが大統領だった。カルト指導者チャールズ・マンソンが起こした一連の殺人事件が全米を震撼させていた。

しかし、この学生、マイケル・オッペンハイマーの心を揺さぶったのは、それらの出来事とは関係のないある見出しだった。「人類による地球の変容」とあった。

気候科学の先駆者、ゴードン・マクドナルド氏が執筆した記事の冒頭には、こう書かれていた。「人類のテクノロジーは、はっきりと理解されていない方法で物理的環境を変化させている。その結果は地球上の人類の未来を危険にさらすかもしれない」

記事は、化石燃料の燃焼とそれに伴う二酸化炭素の放出が地球を熱し、変貌させるとの仮説を提示していた。

それから半世紀以上が経った今日、75歳になったオッペンハイマー氏は、人類が核兵器を上回るような大規模な環境破壊を起こし得るということに考えを巡らせたのは、この記事を読んだ時が初めてだったと振り返る。

「私にとっては天地がひっくり返るような衝撃だった。もちろん、今になってみればその衝撃、環境破壊は実際に起きてしまった」

この瞬間、天体物理学者から環境活動家、そして最終的には気候科学の巨人の1人へと至る、オッペンハイマー氏のゆっくりとした歩みが始まった。

科学者としての数十年の間に、彼は産業界の重鎮に助言し、プリンストン大で多くの大学院生を指導した。南極の氷が解けることで世界中の都市に及ぶ脅威に着目。海面上昇について米連邦議会やニューヨーク市に助言し、サッチャー英首相に地球温暖化について講義した。

なかでも重要なのは、彼が1990年から国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に参加し、同パネルで最古参のリポート執筆者の1人だという点だろう。2007年には、報告書などの作成に貢献したIPCCの関係者とともに、米国のゴア元副大統領と共同でノーベル平和賞を受賞した。

しかし、こうした目覚ましい功績がある一方で、オッペンハイマー氏と彼のような科学者たちは、ある面で決定的な敗北に直面している。

それは、世界の指導者たち、中でもオーストラリアや米国など主要化石燃料産出国の指導者らが、多くの国民の支持を得て「地球温暖化防止」への取り組みを遅らせていることだ。人間の行動が引き起こした気候変動であるという研究結果に、断固として抵抗する指導者もいる。

オッペンハイマー氏と、同じく米国の気候学者であるジェームズ・ハンセン氏が米議会で証言してから、30年以上が経過した。人類は、化石燃料を燃やすことで地球温暖化を招いているというのが、彼らの警告だった。それ以来、何千人もの科学者が人類に警告を発し続けてきた。そして、その予測は次々と的中していった。彼らが予見した初期段階の環境破壊は、今では世界中で観測されている。

昨年、シベリアの北極圏の一部では気温が40度に達し、凍土が溶けて巨大なクレーターが出現した。大潮の満潮時に起きるいわゆる「晴天の洪水」は、世界の多くの低地都市で見られるようになっている。アメリカ西海岸の森林ではこれまでにない規模の山火事が起き、真昼間にもかかわらず灰の雨が降る日没のような不吉な光景を生んでいる。

もちろん、各国政府は重要な措置を講じている。多くの国が、太陽光発電をはじめ、地球にやさしいエネルギー政策を推進。1988年のIPCC設立から二酸化炭素排出量の削減方法に焦点を当てた2016年の地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」まで、画期的な地球温暖化阻止の取り組みで協力を強化してきた。

しかし、こうした国際協定には、排出量削減に対する強制力はほとんどない。より抜本的な対策を支持する声は、敵対的な石油産業のロビー活動や一般市民の無関心、再生可能エネルギーへの切り替えの難しさなどにより、弱められてきた。

オッペンハイマー氏の長いキャリアを振り返れば、世界を気候変動に目覚めさせようとした彼の取り組みの成功と挫折をたどることができる。 彼の同僚の中には地球が直面している苦境に絶望を感じている人もいるかもしれない。

だがオッペンハイマー氏は、政治的に不利な状況にあっても解決策は必ず見つかるという、ほとんど非科学的ともいえる信念を持ち続けている。「運命論」にはアレルギー的な反発を抱いているようにもみえる。

「(地球温暖化に)正面からの取り組みが行われず、われわれがその結果に苦しむ可能性は常にある。だが私は、われわれがその方向に向かっているとは思っていない。証明はできないけれど。人間と人間の営み対する信頼と、私の楽観主義からくる考えだが、どちらも特に合理的な根拠はないので、あまり追及しないで欲しい」

<始まりはオイスター>

オッペンハイマー氏の父親は、ニューヨーク州のロングアイランドに住む男性の下で宝石商を営んでおり、家族をともなってこの男性の自宅をよく訪問していた。それは石造りの大きな邸宅で、敷地内には小川が流れ、海岸まで続いていた。そこである日、オッペンハイマー少年は牡蠣が生息しているのを発見した。

「6歳か7歳の頃だったかな、小川に入って遊んでいたら、牡蠣を見つけた。1ダース以上を掘って、家に持ち帰って母に見せたんだ」

すると母親は驚き、水が汚染されているから食べると病気になると言って、すべて捨てさせた。

「ずっとこのことが心に残っていた。私が環境保護活動家になった重要な理由のひとつは、この体験にある」と語った。

その20年後、大人になった彼に、改めて環境問題に目を向けるきっかけが訪れた。人間が地球の温暖化を引き起こし得るという雑誌記事を読んだのと同じ年、カリフォルニア州サンタバーバラ近くの海で石油流出事故が発生、彼を含む多くの米国人が衝撃を受けた。

流出が及ぼす環境へのダメージを訴えた活動家たちの努力もあり、1970年4月22日に初めてのアースデイが開催され、数百万人の米国人が環境保護規制を求めるデモに参加した。オッペンハイマー氏はこの日、シカゴ北部にある小学校の生徒に地球について教えるボランティアをした。この年の12月、ニクソン大統領は環境保護庁を設立する大統領令に署名した。

しかし、科学的知識と環境への関心をどのように融合させればよいのか、この時になってもまだオッペンハイマー氏には分からなかった。そこで1971年、ハーバード・スミソニアン天体物理学センターで博士研究員のポストに就いた

「5年間の予定だった」と彼は言うが、最終的にはフルタイムの研究・教育職を得ることとなり、10年を深宇宙のガスの研究に費やした。

だがこの間も、キャリア選択は彼を悩ませ続けた。1975年に米航空宇宙局(NASA)に彗星のガスと化学的プロセスに関する論文を提出し、賞賛を受けた。

「非常に高く評価された。そして私は、ひどく落ち込んだんだ。なぜなら、研究者としては、これ以上得られるものはないと悟ったから。科学の枠を超えて何か意味のあることをしなければいけないと思った」

1981年、彼はついにハーバード大を辞めた。「宇宙で何が起きているかなんてどうでもいい。地球で良くないことが起きているんだから」

心の声に従った彼は、非政府組織の環境防衛基金(EDF)に職を得た。同基金は、科学的根拠と政治的主張を組み合わせて、米国の政策決定に働きかける活動をしていた。1960年代には殺虫剤DDTに対する規制導入を主導し、1974年の飲料水安全法の成立にも重要な役割を果たしている。

オッペンハイマー氏はEDFに入るとまず、酸性雨の原因に着目し、石炭燃焼による排出物を削減するための法律制定に向けて動いた。石炭の煙に含まれる二酸化硫黄や窒素酸化物が大気中の水分と結合すると硫酸と硝酸という腐食性の化合物ができ、それが雨水となって地球に戻ってしまうのだ。

酸性雨は、気候変動と「いとこ同士」のような関係にある問題ということも分かった。温暖化もまた、化石燃料の使用で大気中に排出された二酸化炭素などのガスによって引き起こされていることが、科学者の研究ではっきりしてきたのだ。これを機に、オッペンハイマー氏のキャリアは、学術研究者からEDFの科学者兼活動家へと変化していった。

「私は環境活動家の中で誰よりも科学を理解していた。それまでの研究と一致していたからだ」

オッペンハイマー氏の活動もあって、米議会は1990年に大気浄化法を改正。石炭火力を使用する施設の煙から二酸化硫黄と窒素酸化物を除去する規制を加えた。

「政策過程における科学の価値と限界を含め、政治的プロセスがどのように機能するかについて、内側から非常に多くのことを学んだ」と、オッペンハイマー氏は振り返る。

そのほかにも、学んだことがあったという。

「やる気のある人たちが9年間も集中して努力すれば、大きな変化をもたらすことができるとういうことだ」

<マーガレット・サッチャーとの1日>

1980年代半ばから90年代初めにかけては、オッペンハイマー氏を含めた気候変動学者の注目度が高まった時期だった。

その頃にはオッペンハイマー氏は、EDFで働きながら、酸性雨から気候変動へと徐々に視線を移していた。さらに、海面上昇とそれに関連した南極の氷の融解などの問題に注目していた。

特に、地球温暖化によって「西南極氷床」(南極氷床の一部、西南極を覆う氷床)が崩壊した場合の海面上昇のリスクに焦点をあて始めていた。仮にこの氷床が全部溶けてしまうと、海面が3─3.66メートルほど上昇。もし二酸化炭素の排出量が大幅に削減され、氷床の大部分が無傷で残ったとしても、2100年までに海面は数十センチ上昇すると予想された。

「氷床崩壊のリスクが示唆するのは、気候上の『危険ゾーン』が摂氏2度前後であること、というのが、私の最も重要な発見だった。これは、究極の問いである『許容できないほどの温暖化とはどの程度か』に答え、気候政策を定義するのに役立つと思った」

1989年4月、サッチャー英首相は、オッペンハイマー氏と25人前後の科学者をロンドンの首相官邸に招き、この新しい研究分野について閣僚とともに講義を受けた。サッチャー氏自身、法律家に転身する前はオックスフォード大学で化学を専攻しており、科学の素養があった。この勉強会は朝の9時半から午後3時半まで続いた。

サッチャー氏はその約1年後に退任するまでの間に、1992年に締結される国連気候変動枠組条約の必要性を訴えるなど、いくつかの科学的な取り組みを推し進めた。

サッチャー氏のスピーチライターで閣僚だったジョン・ガマー氏は、産油州テキサスが基盤で温暖化に懐疑的だったジョージ・H・W・ブッシュ米大統領を説得するのに、サッチャー氏が重要な役割を果たしたと語っている。

ブッシュ大統領の支持にもかかわらず、80年代から90年代にかけ、米国の政治右派の間で新興の気候研究に対する反対論がまとまりをみせた。またサッチャー氏もその後、姿勢を180度転換。2002年の回顧録でサッチャー氏は、世界各国が化石燃料の使用に伴う二酸化炭素などの排出を制限することを目指した京都議定書への支持を撤回した。

「今日の終末論者のお気に入りのテーマは気候変動だ。世界的な超国家的社会主義を唱える素晴らしい口実になる」と記している。

民主党のクリントン米大統領は、京都議定書に署名したものの、共和党が多数を占める上院で否決されることを見越して議会に諮らなかった。

次のジョージ・W・ブッシュ大統領の下で環境保護庁長官を務めた共和党のクリスティン・トッド・ホイットマン氏は、80年代のロナルド・レーガン氏から最近のドナルド・トランプ氏まで、共和党大統領は石油産業をはじめとする党の利益を脅かす科学と関連規制に反対してきたと話す。

「共和党は科学から目を背けた。気候変動について、聞きたくない内容だったからだ」と、ホイットマン氏は言う。

前出のハンセン氏によると、石油会社はじめ科学者の警告に抵抗する人たちは、気候問題について意味論を巧みに戦わせた。その中心となったのは、あらゆる科学において知識の状態を表す重要な用語である「不確実性」という言葉だった。

気候科学者にとってこの言葉は、深刻なものから破滅的なものまで、自分たちが発見した結果から起こり得る幅広い可能性を表現するために使われるものだ。ところが石油会社は、この言葉を使って、温暖化の原因が人間にあるかどうか科学者が「不確か」だと示唆したと、ハンセン氏は言う。実際には、科学者たちはこの点に確信を持っている。

ハンセン氏によれば、科学者の警告は、米国など政府から多額の補助金が入っている石油の安さによっても曇らされているという。世界的な気候変動協定は「希望的観測でしかない」とハンセン氏は言う。「化石燃料が最も安価なエネルギーであることが許されている限り、人々は化石燃料を燃やし続けるだろう」

<暗い未来を予言する>

2019年秋のある日、オッペンハイマー氏をはじめとする気候科学者たちは、最新のIPCC報告書を195カ国の代表者たちに提出するため、モナコのグリマルディ・フォーラムに集まっていた。

報告書の極氷(南極など極地の氷)の融解と海面上昇についての章は、30年近く様々なIPCC報告書の執筆に携わってきたオッペンハイマー氏の最後の仕事となるものだった。最終報告書は全体で677ページにも及ぶ。各国は事前にすべてのページに目を通しており、この会議の場で報告書の36ページを占める「政策決定者向け要約」のすべての文言に同意しなければならない。

この要約は、IPCC報告書の中でも最も緊急性の高い科学に焦点を当てており、通常は最も議論を集めるものだ。モナコでもいつものように、参加した全員がすべての単語、文章、段落、数字、チャート、グラフを承認しなければならなかった。それが、参加国のコンセンサスで動くIPCCの仕組みだ。

前年までとは対照的に、モナコ会議では石油輸出国のほとんどが沈黙を守った。サウジアラビアのような国でも、二酸化炭素が地球に及ぼす影響を無視できなくなったからだとオッペンハイマー氏は言う。

これより前、2014年にコペンハーゲンで開催されたIPCC会議で、重要な出来事があった。第5次評価報告書の中で提案された2ページにわたる補足記事が問題となったのだ。地球の温度が2度以上上昇した場合の危険な結果と、それを回避するために必要な排出削減量について説明した内容だった。

産油国にとって、この記事は「行き過ぎ」だったと、ベルギーの気候学者で前IPCC副議長のジャンパスカル・ヴァン・イペルスル氏は語る。その一方で、途上国の代表にとってこの内容は不十分だった。彼らは、自分たちが直面している脅威と、援助が必要であるという認識が明記されることを望んていたという。

結局、この記事はすべて消去された。採用を働きかけていたオッペンハイマー氏とヴァン・イペルスル氏は、打ちひしがれた。

しかし、消された補足記事は再び日の目を見ることになった。この補足記事の内容は、その後のパリ協定締結に向けた協議の中で再び取り上げられ、2018年のいわゆる「1.5度特別報告書」で結実した。この特別報告書は、地球の平均気温を1.5度以上上昇させないためには何が必要か、そしてその目標を達成できず、気温が2度上昇した場合の影響を検証したものだ。2ページの補足記事は500ページ以上にもわたる報告書となった。

「皮肉なことに、補足記事を削除したことで空いた穴が、各国代表団が1.5度特別報告書の作成に動いた1つの要因になったと思う。補足記事よりもはるかに注目される結果となった。ブーメランだ」と、オッペンハイマー氏は語る。

2019年のモナコ会議では、報告書の内容はほとんど薄められることがなく、最終報告書は厳しい内容でまとまった。

例えば、大気中の二酸化炭素の濃度がこのまま上昇した場合、今世紀末までに海面は1メートル以上上昇し、ロサンゼルスやマイアミ、バンコク、マニラなど、世界の主要な沿岸都市の一部が定期的に浸水する可能性がある。二酸化炭素の排出量が早急に削減されたとしても、2100年までにこれらの都市は日常的に浸水を受けるようになると報告書は予測している。

これが地球が直面している問題だとオッペンハイマー氏は説明する。私たちが直面する破壊的な状況の多くはすでに回避不能かもしれず、問題への取り組みを先延ばしにすればするほど状況は悪化する、ということだ。

「自分の政治的将来を考えず、誠実な仕事をしたいと思っている政策立案者なら、起こりうる最悪のケースは何かを知りたがるものだ。そして、たとえ再選だけを考えている政治家でも、万が一に備えて不利な立場に立たないようにしたいものだ」

科学に対する政治的抵抗にもかかわらず、オッペンハイマー氏はくじけてはいないと話す。1972年に制定された「水質浄化法」と「大気浄化法」のおかげで、故郷のニューヨークの空気と水がどう変わったたかを、その理由として挙げた。今では、牡蠣は日常的に収穫されるようになり、ハドソン川はこの数十年で一番きれいな状態になった。

環境に永続的な変化をもたらす科学の力を信じることができるのは、このような進歩のおかげだとオッペンハイマー氏は言う。

長いキャリアの中で、彼は科学者の恐ろしい予測が現実になるのを目の当たりにしてきた。しかし、あきらめたりはしないという。

「なぜって?自分自身の問題でもあるから」

(翻訳:山口香子、編集:石田仁志)

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