「平和の象徴」復元願う=首里城炎上2度目撃の吉嶺さん―沖縄慰霊の日

社会

昨年10月末の火災で、建物の大半が崩れ落ちた那覇市の首里城。米軍の攻撃による沖縄戦中の炎上と、2度にわたって火災を目撃した男性がいる。同市首里金城町に住む吉嶺全一さん(87)。「首里城は戦のために造られたのではない平和の象徴」と話し、早期の復元を願っている。

太平洋戦争中、吉嶺さんは首里城内にあった小学校に通い、城は友達との遊び場だった。12歳だった1945年4月、首里城は米軍による砲撃で炎に包まれ、夕方から明け方まで半日近く燃え続けた。自宅周辺が激しい攻撃を受けたこともあり、吉嶺さんは当時興味も湧かなかったが、祖母は「うぐしくがめーとーん(お城が燃えている)」と涙を流していた。

その後、家族や近所の人とともに約14キロ離れた糸満市摩文仁まで避難。しかし、そこでは戦車や艦砲射撃、空からの砲弾が雨のように降り、住民が泣き叫び、助けを求める声であふれていた。隠れた岩の目の前では日本兵が米軍の砲弾に焼かれて悲鳴を上げ、外に出てみると灰になっていた。

米国統治下となった戦後は首里に戻り、通信教育で英語を学び、募集が盛んだった米軍基地で働いた。米兵と会話することで「人間には敵も味方もないと分かった。大きな収穫だった」と振り返る。その後、航空会社や旅行代理店など米兵と関わる仕事を続けた。

沖縄戦に参加した元米兵との交流を始めたのは85年、元米兵らが摩文仁で行われた慰霊祭に出席したのがきっかけ。吉嶺さんは同行し、戦地を案内してその後も面会を重ねたが、戦争中に軍が与えたという「ジャップ・ハンティング・ライセンス(日本人狩猟許可証)」を見せられた時には衝撃を受けた。「ライセンスがあったから無差別に撃ち殺した。みんなが狂っていた。悪いのは戦争だ」と強調する。

交流を機に、平和ガイドとして戦争体験の語り部も始めた。今では祖母が燃える首里城に涙を流した理由がよく分かるという。「戦のためではない平和の象徴として誇りにしとった。心の支えだったんだろう」。祖母の思いを胸に、吉嶺さんは今後も語り続け、首里城が復元されるのを見届けるつもりだ。

首里城の守礼門を前に話す吉嶺全一さん=3日午後、那覇市首里城の守礼門を前に話す吉嶺全一さん=3日午後、那覇市

元米兵と一緒の写真を手にして話す吉嶺全一さん=3日午後、那覇市元米兵と一緒の写真を手にして話す吉嶺全一さん=3日午後、那覇市

元米兵から見せられた「ジャップ・ハンティング・ライセンス(日本人狩猟許可証)」。絶滅まで有効と記載されている=3日午後、那覇市元米兵から見せられた「ジャップ・ハンティング・ライセンス(日本人狩猟許可証)」。絶滅まで有効と記載されている=3日午後、那覇市

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