バーミヤンの若者たちから届いた激励の言葉
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言葉を失うほどの惨禍に遭い、それでも立ち直ろうとするとき人が渇望するものは言葉だということが、今度の震災では幾度も身に染みた。
「311」からどのくらいの期間だったか、テレビ各局が商業CMの放送を慎み公共広告機構のキャンペーンメッセージばかり流していた頃、日本に現れた集合意思は、指導者の強くて明快な声を待ち望んでいた。
菅直人氏にもう少し、経綸などなくてよい、せめて歴史上ごく稀にしか出現しない集合的な感情が明確に現れ、慰藉(いしゃ)や激励を求めて耳を澄ましていることに気づく感受性の持ち合わせだけでもあったなら、彼はあの時歴史に残る言葉によって自らをステーツマンへと成長させる一歩を踏み出すことができたであろう。
いまや詮方ないことだ。いっとき、日本列島がその脇腹に巨大な匕首(あいくち)を突き立てられ、おびただしい出血を続けているかに感じられたあの頃、指導者に求めても無駄と悟った人々は、自らを奮い立たせる言葉や声を手探りで捜し始めた。
だからこそ、世界各地から迸(ほとばし)るように聞こえてきた激励のメッセージに、そのひとつひとつに涙腺を脆くしたのである。
もっとも東北地方の被災者たちは驚嘆すべき自己抑制を示し、悲劇を前に時折笑みさえ浮かべていたから、涙脆くなったのはからくも影響を免れた首都東京のロマン主義者たちばかりだったかもしれないが。
バーミヤンの若者たちが日本に示した連帯
いずれにもせよ、アフガニスタンはバーミヤンから届いた数葉の写真に映ったバナーの文字ほど、心打つものはなかった。
白い布に書かれた手書きの文字は、確かにこう読み取れたのである。
WE ARE POOR BUT ARE RICH IN OUR WILLINGNESS TO OFFER ASSISTANCE TO THE PEOPLE OF JAPAN DURING YOUR TIME OF NEED / Youth of Bamiyan
(ブログ「Hazaristan Times」3月14日付けより)
貧しい彼らには、日本へ送る何ものとてない。カネも、援助物資も。だからせめてみんなで集まり、連帯の気持ちを言葉にしようとした。
別のバナーにはこうある。綴りの誤りは原文のママだ。
THE YOUTH OF BAMIYAN EXTEND OUR HEARTFELT SARROW TO THE CITIZENS AND VICTIMS OF JAPAN
見ればまだ10歳になるかならぬかの子供から、20歳前後とおぼしき若者まで、男女40人ばかりが一木一草とてない峻嶮な大地を、バナーを手に行進している。
彼らが選んだ言葉は、その心根の優しさ豊かさを伝え、たしかに日本へ届いた。
それにしてもいったいなぜ、と思う。どうしてここまでしてくれるのか、と。
在アフガニスタン日本大使の髙橋礼一郎氏はできるだけ早くバーミヤンを訪ね、直接この若者たちに会って礼を言うつもりだというから、彼らを駆り立てた動機の奈辺をやがてわれわれも知ることができるだろう。
バーミヤンと日本をつなぐ絆
今は憶測に過ぎないけれど、バーミヤンと日本をつなぐ絆とは、石窟修復の事業だった。タリバンが破壊した仏教の遺跡は、あまりにもこなごなにされ、元あった姿に復させるなどおよそ不可能に思われた。
けれども日本は、ユネスコ文化遺産保存日本信託基金の資金によりつつ、国立文化財機構東京文化財研究所の専門家たちを2003年から8次にわたってバーミヤンへ送り、仏教壁画の修復や、遺構の調査を実施した。銃弾の跡、盗賊によって切り取られた跡もなまなましい壁画の修復を、地元の人々を雇って作業員としながら進めた事実があった。
バーミヤンの人々が生身で接した日本人とは、このときの遺跡修復専門家たちぐらいであっただろう。彼らが懸命に働くその後ろ姿を、あるいは瞼の奥に焼き付けてでもくれたものか。それが筆者の憶測である。
ここからは、日本外交がその資産とするものの性質について、ある考察に導かれる。往々にしてそれは、外交が本来拠るべき言葉が築いたものではない。日本人が示す態度によって、非言語的に培われたものだ。
いまはその可否を問わない。バーミヤンには、日本外交が残した何かがあった。その何かが、アフガニスタンの若者たちを通じて、短いけれど雄弁な言葉に昇華した。救いの言葉を求める日本人の心に、深々と染みわたる豊かな感情を伝えたのである。
(2011年4月22日 記す)