日産自動車・志賀 俊之:「日本の自動車産業を守る危機管理とは」

経済・ビジネス

東日本大震災で多くの日本企業が大きな打撃を受けた。日産自動車株式会社は迅速な復旧で海外でも高く評価された。志賀俊之COOに、企業の生命線であるリスク管理のあり方と苦境を乗り切る成長戦略について聞いた。

志賀 俊之 SHIGA Toshiyuki

日産自動車株式会社代表取締役、最高執行責任者(COO)。1953年、和歌山県生まれ。76年、大阪府立大学経済学部卒業後、日産自動車に入社。アジア大洋州事業本部ジャカルタ事務所長、企画室長兼アライアンス推進室長等を経て、2000年、常務執行役員。05年より現職。10年から日本自動車工業会会長を兼任。

東日本大震災への初動対応を世界が絶賛

——東日本大震災では、自動車業界だけでなく、日本の産業界全体が大きな被害を受けました。その中で、日産自動車の震災対応の早さは、海外の新聞でも大きく取り上げられました。1000年に一度といわれる大災害の中で、リーダーとして何を最優先に行動されたのですか。

「震災発生までにさまざまな経験をしたことによって、ノウハウが蓄積されていた点が大きいと思います。COOに就任して3年目の2007年に中越沖地震が発生して、新潟県柏崎市のサプライヤーが大きなダメージを受け、当社の車両生産が止まるという事態になりました。それ以前から建物の強化など地震対策について、やるべきことはやってきたと考えていましたが、サプライヤーからの部品供給が止まったときの備えは十分ではありませんでした。災害が発生した際に、サプライヤーを支援し、そして自社の現場がしっかりと動けるようにするには、本部が的確な指示を出すことが大前提だということが分かり、2007年10月に災害対策本部のシミュレーション訓練をスタートさせたのです。

その後も私自身が災害対策本部長として、毎回、課題を少しずつ変えながら、シミュレーション訓練を行ってきました。実は、当社が横浜に本社を移転して初となるシミュレーション訓練は今年の2月21日。3月11日の約3週間前にやっていました。

この訓練では、本社ビルの8階にシミュレーション用の災害対策本部を設置して机や電話機を並べ、初動の段階として従業員の安否確認、自社工場、関係会社、サプライヤーの被災状況の確認を行いました。さらに、被害状況が分かってきたところで、生産再開の時期や、生産再開に向けてのサプライヤーや物流対応をどうするか、などについて検討しました。訓練の際は、これらを2時間程度に凝縮して行いました。

3月11日、午後2時46分に震災が発生した際、私は本社ビル21階におりました。すぐに災害対策本部の設置を指示して、約30分後に8階まで階段で下りたのですが、既に3週間前の訓練通りに机や電話機が並べられ、緊急用の機材等の準備が完了していました。その状況を見て、災害に備える、ということの重要性を実感したのを今でも鮮明に記憶しています。

また、2月のシミュレーション訓練では、一般の帰宅困難者の受け入れもテーマとして想定されていたのですが、これも役立ちました。地震発生当日には、従業員だけでなく帰宅困難者の方の分も食料が必要になるだろうと考え、社内にあるコメを全部炊いて、おにぎりを1800個作りました。さらに、毛布も2000枚以上ありましたので、多くの方に使ってもらいました」

——準備があるからこそ、的確な判断が下せたということですか。

「はい。災害に対してしっかりと備えをすること、訓練を行うこと、そして災害がいざ起こったら初動を出来るだけ早く起こすことが非常に重要だと感じています。本社ビルだけでなく、被災した栃木、いわきの両工場でも日頃の訓練の成果があらわれました。被災地の事業所は、天井からラインのコンベアなどが落下、鋳造工場のキューポラが倒れた所もありました。それでも1人のけが人も出なかったのは、まさに日頃の訓練のたまものと言えるでしょう。

後日関係者から話を聞いてみると、避難訓練を繰り返してきたから体で覚えていた、ということに尽きるようです。例えばドロドロに溶けたアルミの鋳物が流れ出そうになっていた鋳造の現場で、そのまま自分が避難すれば、溶けたアルミが地面に落ちて火事になるかもしれない。そこで従業員はフタをしてこぼれ出ないようにしてから逃げたそうです。あれだけ揺れている最中にそこまで気が付いて行動できたということに、私は感動を覚えました。」

危機で力を発揮した「日産再生」の経験

――2011年7月にムーディーズの格付けが上がったのも、こうしたリスク管理が評価されてのことだと聞いています。日産の災害に対する対応力が非常に高い理由について、あらためて聞かせてください。

「初動の対応は、今申し上げた通り、継続的な訓練によるものが大きかったと考えます。その後の復旧に向けての過程では、1999年にカルロス・ゴーンがCOO(当時)に就任して始めた『日産リバイバルプラン』から取り入れた経営手法による効果が大きかったと思います。

一般的には、工場が被災すれば生産部門が対応、サプライヤーが被災したなら購買部門と、縦割りで対応に当たることが往々にしてありますが、日産自動車では『クロスファンクショナルチーム』という、さまざまな部門から横断的に人を集めて仕事を進めるという取り組みがあります。それぞれの部門には、それぞれ伝統的な考え方があり、それが縦割りの弊害につながることもあるのですが、各部門がクロスファンクショナルに活動することによって、新しい発想が生まれてきます。

日産では従業員一人ひとりの行動指針として『日産ウェイ』を定めていますが、第一に取り上げているのが、このクロスファンクショナル、異なった意見、考えを受け入れる多様性です。

例えば、震災の後、サプライヤーが被災して設備が倒壊、部品が作れなくなったという連絡が入ったときのことです。購買部門だけでなく、生産部門、保全部門の人たちが連携し、すぐに復旧支援に駆け付けました。別の会社から代替部品を調達することになれば、すぐに開発部門が実験に取り掛かる。IC関連の部品に遅れが出てナビゲーションシステムが付かない場合は、営業部門が速やかにお客様への説明を始める。『部品がない』『ならば購買が買って来い』というのではなくて、みんなが力を合わせる環境ができていたということです。

特に、通常は夜勤業務のない開発部門が、昼夜交代制で新しい代替部品の品質確認の実験をやってくれたことはうれしい驚きでした。われわれの経験から見ても、開発の夜勤は初めてだったのではないでしょうか。彼らの努力で、代替部品がすぐに使えることが分かり、最短で量産体制に入ることができました。

1999年以降、日産が再生していく過程で、クロスファンクショナルという文化を育ててきたことが、非常時に活きたということです。

もう一つ『クロスリージョナル』の効果も挙げておきたいと思います。震災で、日本の部品生産が遅れ、海外の工場での生産が滞るという事態が発生しました。しかし、私どもの場合、海外での減産の影響は本当に少なくて済みました。震災後すぐに、当社の物流拠点である神奈川県の本牧専用埠頭にアメリカ、ヨーロッパ、中国、タイ、インドネシアなど、世界中の工場から担当者が集まってきました。その人数は最大で100人にのぼります。さまざまな国籍の人が、自国の生産状況と日本での部品生産の復旧状況を見ながら、どうすれば一番効果的に部品を分配できるのかと調整しました。少ない部品を取り合うのではなく、地域を超えたチームワークで、世界的な視野で生産量を落とさない工夫をしてくれたのです。ダイバーシティ(多様性)も『日産ウェイ』の柱ですが、これも自然にできていたことに心打たれました」

経営危機を乗り越えて

——実際の危機に役立つ企業文化が根付くまでには、どのようなご苦労があったのでしょうか。

「日産は、1990年代に経営的な危機を経験しているという点が大きいと思います。ルノーと提携した1999年以降、当社の経営は順調に回復していましたが、2008年の金融危機で再度、危険な状況に陥りました。ですから、危機を乗り越える際には集中的に対応しなければならない、ということが従業員の身に染みついているわけです。

90年代の危機のときは、8年間赤字が続きました。この状態が長く続くことで、業績が上がらないことに慣れてしまっていました。対策を立てても後手に回り、追加の対策をしても間に合わずに情勢はさらに悪化しました。後手後手の対策ではいつまでも浮上できませんでした。99年に発表した経営再建計画『日産リバイバルプラン』で、早くリカバリーするためには、少し苦しくても集中的に危機対策をする必要があるということをようやく学びました。

今回の震災でも、集中的な対策を心がけました。例えば3カ月間の開発業務をストップし、残業も全社的にしないことにしました。支出のほとんどを止めて、キャッシュフローを抑えて事態の悪化に備えました。瞬間的に集中的に対応するという点で従業員にもメッセージが伝わりやすかったと思います。これは営業自粛ではなくて、マネージメントの判断でした。こうしたリスクマネージメントに対して、従業員が理解してついてきてくれるようになったと感じました。

現在のような形につながるリスクマネージメントを始めたのは、ちょうど日産リバイバルプランに取り組んでいる最中の2001年ごろです。その後、試行錯誤を重ね、経営の持続性に関わるリスク要因を洗い出し、リスクマップを作成し、個別のリスクについて役員からリスクオーナーを決めて対策を担当するという形ができてきました。ある程度の対策が取れればリスク項目から外して、新たなリスク要因を洗い出し、さらに対策を施すというPDCAサイクルを回してきました。そういう中に地震対策もありましたし、サプライヤーのBCP(事業継続計画)もありました。

いざというときに、リスクマネージメントが機能するということは、企業として大胆なチャレンジができるということにもつながります。日産は新興国での戦略でも、電気自動車への取り組みでも、他社の後追いではなく、日産としての独創的な戦略を打ち出し、そこに向けて成果を出していくという方法を取っています。他社の後追いであれば、失敗例なども見て動けるので大きなリスクは負わずに済みます。逆に日産が先頭で何かをしようとすれば、いろいろなリスクをはらみます。大胆なチャレンジ戦略を取れば取るほど、あらゆることを想定したリスクマネージメントが必要なのです。

例えば、中国バブルの終焉やユーロ危機といったリスクを憂慮して投資を手控えるなど、目の前の危険ばかりを気にしていたら、成長はできません。今の日本経済はそういうところに陥っているような気がします。日産は、こうした状況の中でも、いろいろなところで先手を打っていく、という決意を持った戦略を立てています。2011年6月に発表した中期経営計画『日産パワー88(エイティエイト)』も、大胆で非常に意欲的な内容になっています。

リスクマネージメントとは、災害や世界規模の経済危機等に対する日頃からの準備であると同時に、大胆なビジョン、戦略を打ち出してそこに向かっていくための準備でもあります。つまり、2通りの意味があるのだと思います」

自動車が日本の産業を支えている

——日産の「先手、先手」という対応に対して、政府の対応は終始後手に回っていたと思います。節電対策など政府をリードされているようにも見えましたが。

「自動車産業は日本のリーディング・インダストリーである、日本の産業を支えているという自負があります。自分たちが頑張らなければ、日本が大変なことになるという覚悟を持って取り組みました。

数字を申し上げますと、自動車産業の輸出は、2010年は部品も含めて約12兆円。輸入は約6000億円。自動車だけで11兆円を超える貿易黒字に貢献しています。日本全体の貿易収支は輸出約67兆円、輸入約61兆円で黒字は約6兆円ですから、自動車が輸出できなくなれば、貿易赤字になるわけです。ものの見事に、震災で生産停止を余儀なくされた2011年4月は貿易赤字になりました。貿易収支が赤字に転落するということは、いずれ経常収支に影響しますし、国債発行にも影響します。自動車産業が背負っている責任は非常に大きいのです。

残念ながらわれわれは震災直後に生産停止を余儀なくされました。それによって日本経済に大きな影響が出てしまった。被災地には500社ほどのサプライヤーがいて、大変な数の雇用の受け皿にもなっています。自動車の生産を再開しなければ、これらの工場も再稼働できません。鹿島コンビナートの化学の素材も、鉄も、われわれが動き出さなければみんな動けないのです。早く動かして、日本経済をけん引するという役割を果たさなければならない。そういう意識が非常に強かったのです。

電力不足に伴い実施された計画停電では、生産を止めざるを得なくなり、その意欲に水を差す結果となりました。当初の計画では7月には徐々に増産して夏場から秋にかけてフル増産という見込みでした。被災地を含めて大きな経済効果を及ぼして、日本の復興につなげたいと考えていたのですが、計画停電にブレーキをかけられたようなものです。

それでも、大規模停電を起こすわけにはいきません。われわれ自動車業界で使用している電力は相当な量ですから、電力使用量が最も多いといわれた木・金曜日の操業を止めれば、ピーク電力は平準化して他の産業は普通に仕事ができるようになります。そこで、自動車業界全体で休日の振り替えに踏み切ることにしました。

この方策が最も有効な社会貢献と考え、決断したことでしたが、一番うれしかったのは、木金の振り替え休日でつらい生活を強いることになってしまった従業員とその家族、休日変更で迷惑をかけた工場の周辺地域の方々から『苦労したけれども、世の中には貢献できた』という感想が聞けたことです。従業員一人ひとりまで、自動車産業の社会的責任を感じることができたという点では、従業員に苦労はかけたけれども、やって良かったと感じています」

超円高というさらなる危機に向かって

——冬季には再び直面するであろうエネルギー不安に加えて、超円高や燃料高騰など、現在日本の製造業は六重苦ともいわれる危機に見舞われています。この危機にどのように立ち向かうおつもりですか。

「一番厳しいのは、やはり円高です。国が強くなって人々の生活が豊かになれば、当然賃金が上がり、通貨も上がる。通貨が上がれば、比較的付加価値の低い労働集約的な産業は成り立たなくなり、海外に出て行く。それによって、少し貧しかった国が徐々に豊かになっていく。逆に豊かになった国は、輸入しすぎて貿易収支が赤字になり通貨が下がる。そうすると、競争力が復活して、また輸出できるようになる。私は持論として、マクロ経済はこういった構造によって成り立っていると考えています。

そのサイクルに合わせて、産業転換が起こり、より付加価値の高いものに変わっていくことを誰も否定しないでしょうし、競争力が失われていく産業を無理に保護することも必要ないでしょう。伝統産業を保護することとは異なります。産業は、競争力を失えば、市場原理として退場せざるを得ないものです。そして、経済の中心となる代わりの産業を生み出すことも必要。これは当然の原理です。

一般的には、こうした産業転換は時間をかけて、競争力を失ったものから競争力があるものに変わっていきます。交代が進む間に、新しい産業の生産性や技術が向上していきます。しかし、今、起こっている急激な円高は、そうした転換の過程をすべて飛ばして、あらゆるものの競争力を根こそぎ失わせるほどの破壊力があります。日本の約1億2000万人の人口のうち、就業人口は5479万人。うち製造業に従事するのは約5分の1にあたる1036万人です。日本から製造業がなくなった後、何がこの1036万人の受け皿になるというのでしょうか。

円高だから製造業は海外に出て行けば良いとか、農業・医療・介護・保育、そういうところが受け皿になるといった議論も見かけますが、1036万人全員が農業・医療・介護・保育で働けるとはとても思えません。新たな基幹産業が必要になります。それはもしかしたら、環境産業であるかもしれないし、IT産業かもしれません。ただ、現在は、自動車産業が支えているのです。バトンタッチする相手もいないのに海外に出て行くなどという無責任なことは、自動車産業はできません。

一企業の経営者としては、1ドル50円という円高でも経営を成り立たせろと言われれば、やりようはあります。しかし、それでは日産自動車という会社は生き残っても、日本の日産自動車ではなくなります。そのようなことは絶対にすべきではないと思っています。

今、それほど大変なことが起こっているという危機感がなかなか共有されないことを本当に心配しています。あと5年この円高が続いたら、日本は完全に空洞化することになってしまうでしょう。製造業が成立しなくなったときに、これだけの国をどうやって支えるのだろうという不安がぬぐい去れません」

——本日、お話をうかがって、自動車産業は日本そのものを映す鏡であるようにも感じられました。その意味も含めて、日本のクルマの魅力とは何だとお考えですか。

「やはり、クルマに乗っていただく方に対する、日本人ならではのおもてなしの気持ちだと思います。クルマに乗っていただいたときに、包まれるような幸せな気持ちを抱いていただける。そんなクルマをお届けしたいという気持ちを持って作っています。

また、ドライビングプレジャー、すなわちクルマを運転する楽しさをご提供しています。さらに排気ガスが出ないとか、出ても非常にCO2が少ないといった、環境へのきめ細かな配慮、そして高い安全性も日本車が備える要件と言えます。日本独特の行き届いた品質も忘れてはなりません。

おもてなしの気持ち、ドライビングプレジャー、環境、安全、品質。この5つを備えているのが日本車の魅力です」

聞き手=原野 城治(一般財団法人ニッポンドットコム代表理事)
撮影=川本 聖哉

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