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漫画「キャプテン翼」を翻訳したシリア人、カッスーマー・ウバーダ

文化

2017年1月から、人気サッカー漫画「キャプテン翼」シリーズの漫画単行本が、アラブ首長国連邦を中心にアラビア語圏で販売を開始した。初版本の一部は、シリア難民の子どもたちに寄付されている。翻訳を担当したのは日本に留学中のシリア人、カッスーマー・ウバーダさん(27)。翻訳の経緯や苦労について話を聞いた。

“マージド”に憧れた少年が“翼”を翻訳

1990年代のアラブ諸国では、街角で遊んでいた子どもたちが、いっせいに姿を消す時間があった。家の中で、サッカーアニメ「キャプテン・マージド」のテレビ放映を見るためだ。そして放映が終わると、再び外に出て、みんながアニメの中で繰り出された超人的なスーパープレーのまねをし始める。東京外国語大学に通うシリア人、カッスーマー・ウバーダさんも、そんな少年の一人だった。

「僕はマージドのまねをして、気絶したことがあります。宙返りをしながらシュートを打とうとして、頭から地面に落ちてしまったのです。そのくらい、マージドに夢中でした」

今、ウバーダさんは時の人だ。2017年1月から、「キャプテン・マージド」の原作「キャプテン翼」(集英社、原作=高橋陽一)シリーズの漫画単行本がアラブ世界で刊行を開始した。そのアラビア語翻訳を担当しているからだ。紀伊国屋書店ドバイ店ではベストセラーになっており、その本が国際機関などを通じてシリア難民の子どもたちに寄付されたことで、国内外で報道された。

「翻訳の話をもらった時は嬉しかったです。しかも、自分の名前が本に載せてもらえるというので、とても興奮しました。シリア人の僕が翻訳した日本の漫画を読んで、アラブ諸国の子どもたちが夢や希望を持ってくれたら素晴らしいことです」

翼と日本漫画文化が世界中で愛される理由—『キャプテン翼』原作者・高橋陽一インタビュー

東京外国語大学のキャンパスで撮影。ウバーダさんは、国際社会学部の4年生

難しいからこそ専攻した日本語

サッカー少年だったウバーダさんが、日本語に興味を持ったのは、ダマスカス大学に通い始めてから。最初はスペイン語を学ぼうと考えていたが、「日本語の方が習得は難しい」という話を聞き、逆に挑戦したくなった。

「僕は困難を克服するのが好きです。マージドのまねをして気絶するくらい、チャレンジ精神があります(笑)。サッカーもシリアのプロチーム『アル・ジャイシュ』で2年間練習生をして、自分が納得するレベルまで達しました。その次に、日本語への挑戦を決めたのです」

難しい漢字の学習も、ウバーダさんには「イラストを覚えるみたいで楽しい」ものだったという。猛勉強の結果、日本語専攻者の中でも上位の成績を収め、東京外国語大との交換留学生の奨学金を得た。

「子どもの頃、マージドはアラブ世界の選手だと思っていました。アニメでは、そのように翻訳されていたからです。だから、漫画が日本語学習のきっかけではありません。そんな僕が日本に留学して、『キャプテン翼』を翻訳して、アラブ世界に翼を日本人として紹介するなんて、本当に考えもしませんでした」

友だちにアラビア語版「キャプテン翼」を見せるウバーダさん。最近は「学内でも超有名人」だとか

原作を尊重して翻訳

「キャプテン翼」は主人公・大空翼を中心に、サッカーに打ち込む仲間やライバルたちの姿を描いたスポーツ漫画。1983年に日本でアニメ化されると、登場人物たちが繰り出すアクロバティックなシュートが子どもたちの心をつかみ、国内でサッカーブームを起こした。

アニメは世界50カ国以上で放送された。子ども向けに翻訳されたため、登場人物たちは各言語圏の名前に変更されている。翼は、フランスでは「オリビエ」、スペインでは「オリベル」となり、アラビア語では「マージド」となった。

漫画「キャプテン翼」のアラビア語版は、紀伊国屋書店が版元の集英社から許諾を得て刊行・販売している。製造は大日本印刷に委託。紀伊国屋書店ドバイ店を販売元として、中東や北アフリカのアラビア語圏19カ国で発売していく。

この本は原作を尊重して翻訳され、キャラクター名を現地の名前に変更しないなど、日本のコミックであることを強調している。ウバーダさんも、「学校の部活動など、日本の文化をしっかりと伝えたい」と言う。紀伊国屋書店では今回の刊行・販売を契機として、日本のコンテンツをアラビア語に翻訳出版する事業を拡大していく予定だ。

アラビア語版「キャプテン翼」は、現在2巻まで発売されている

シリア人だから推薦したのではない

ウバーダさんを翻訳者に推薦したのは、東京外国語大学大学院総合国際学研究院の青山弘之教授。実は青山教授も、『キャプテン・マージド』を熱心に見た一人だという。

現代アラブの政治と思想が専門の青山教授

「1990年代にシリアに住んでいた時のことです。アラビア語吹き替えのアニメは、教育番組的な役割があるようで、とても堅苦しいアラビア語に翻訳されています。これが、アラビア語論文を読む必要がある、私のような研究者の語学勉強にすごく役に立ったのです」

そんな青山教授は、アラビア語を学ぶ日本人学生よりも、ネイティブに翻訳を頼むべきだと考えた。『マージド』はエンターテイメント性が弱まっていたため、くだけた表現が必要だと思ったからだ。それに、日本で「キャプテン翼」がブームになったのは30年近く前で、今の日本人学生はあまり「翼」に詳しくない。そこで浮上したのが、ウバーダさんだ。彼はアラビア語圏の留学生で一番日本滞在が長く、交換留学生から正式に東京外大に転入している。

「単純に優秀だから、ウバーダ君に声を掛けたのです。当初は難民支援の話もまだなかったので、シリア人だから選んだのではありません」(青山教授)

シリア難民の子どもたちにコミックスを送るという支援は、出版計画とは別に進行した。同志社大学の内藤正典教授によって、集英社に提案されたという。集英社側はすぐに快諾し、初版3千部から千部を買い取り、支援団体に寄付することを決めた。

実際、ウバーダさんは翻訳作業が始まってから、支援の話があることを初めて聞いたという。青山教授は「支援は素晴らしいこと」としながら、日本の一部報道が「シリア人のウバーダが、シリア難民の子どものために漫画を翻訳した」というニュアンスで伝わらないかと心配する。

「あまりにも出来過ぎた美談に仕立て上げられることで、一過性のブームにならないかが心配なのです。日本はシリアに長期的な支援をしていくべきだからです。私がダマスカスに住んでいた90年代までは、多くの企業がシリアに進出していて、日本のプレゼンスが高かった。それが、今では事実上すべて撤退してしまい、とても下がっています。日本の漫画は大人でも楽しめるもので、そのソフトパワーによって、多くのシリア人が日本に親近感を持ってくれると考えています。ですから、『キャプテン翼』だけで終わらず、他の漫画も長期に出版し続けてほしい。私は紀伊国屋書店さんに、そうお願いしています」

とても仲が良い青山教授とウバーダさん

日本とアラブ世界をつなぐ役割

漫画のアラビア語翻訳は、困難の連続だという。最初に問題となったのが、日本の漫画では、さまざまなフォントが使い分けられていることだ。ウバーダさんはそれをできるだけ再現するために、自分で漫画に合いそうな3種類のフォントを探し、その所有権者に連絡して使用許可をもらった。

セリフ表現も、方言を使うなど工夫している。フスハー(アラビア語標準語)だけだと、どうしても表現が堅くなってしまうためだ。東京外大には、アラブ諸国から留学生が集まっているので、エジプト方言やアルジェリア方言も、学内で簡単に確認ができるから助かっているという。

「今、7巻まで翻訳が進んでいますが、フォントの使い方など、どんどんうまくなっています。青山先生も言っていたように、漫画の持つソフトパワーを生かせば、シリアと日本だけでなく、アラブ世界と日本をつないでいけるでしょう。僕が工夫を積み重ねれば、翼の後にアラビア語で出版される漫画でも生かされていくと思って頑張っています」

自宅で翻訳作業をするウバーダさん

ウバーダさんは今、キャプテン翼の翻訳を続けながら、勉強と就職活動に励んでいる。卒業後はシリアに帰らず、まずは日本で仕事を覚えたいという。

「今回は、偶然、母国に貢献する機会をもらいました。でも、次は自分が主導して、シリアのために何かがしたい。日本は第2次世界大戦後に、短期間で復興し、急成長した国です。そこでしっかりと学び、仕事を覚えることで、内戦終結後のシリアのためにも役立てると思っています。そして、将来は日本とアラブ世界の架け橋になりたいです。とても困難な道ですが、僕も翼のように挑戦し続けていきます」

写真=三輪 憲亮 取材・文=ニッポンドットコム編集部

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