伝統美のモダニズム “Cool Traditions”

尺八奏者ブルース・ヒューバナー:東北の被災地に心をささげて

文化

米国カリフォルニア州出身の尺八奏者のブルース・ヒューバナー。福島県の自然や文化、人々を愛し、東日本大震災後も演奏を通じて、東北の被災者らと心の交流を続けている。今年も4回目を迎えた福島県桑折町の無能寺で行われた東北復興のための演奏会で熱演した。

ブルース・ヒューバナー Bruce HUEBNER

尺八奏者・作曲家・琴古流師範。1960年カリフォルニア州生まれ。カリフォルニア州立大学ノースリッジ校音楽学部卒業。同サンタバーバラ校東洋学修士課程修了。94年、東京藝術大学邦楽科修士課程を首席終了。現在まで8枚のCDをリリース。オリジナル曲「天戸川」はニューヨークのメトロポリタン美術館で開催された古田織部展のテーマ曲にもなる。ギターや箏(こと)とのユニットで新感覚の音楽を創造し、常に尺八の可能性を追求している。横浜市在住。国内外で音楽活動を展開している。

被災者の心に届く和楽器の音色

福島県北部に、かつて養蚕地帯として栄えた桑折(こおり)という町がある。2011年3月の東日本大震災で被災した福島第1原子力発電所からは、約90キロメートル離れた内陸部に位置する。そのため事故後、放射能被害を受けた浪江(なみえ)町から、220世帯もの被災者を受け入れた。あの日から6年半。いまだに86世帯が、この町の仮設住宅や復興公営住宅に暮らしている。

彼らの住む施設から歩くこと数分。樹齢450年を超える笠松の下をくぐり抜けると、厳かな無能寺(むのうじ)の本堂が現れる。ここに、ある秋の夕べ、浪江町の被災者を含む150名近くの人が会した。お経(きょう)を唱えるためではない。尺八と箏(こと)の調べに心を寄せるためである。

尺八奏者は、カリフォルニア州出身のブルース・ヒューバナー。そして、彼の24年来の親友であり、同じく琴古流尺八奏者の橘三郎(竹号:梁盟)。箏奏者は、オーストラリア出身のマクイーン時田 深山である。

尺八奏者ブルース・ヒューバナーらの演奏を聴きに、東日本大震災で被災した浪江町の住民ら約150名が集まった

伝統和楽器が奏でる、多種多様で深い音色が、寺の本堂に響き渡る。やがて、東北を代表する民謡「南部牛追唄」(なんぶうしおいうた)」と「新相馬節」(しんそうまぶし)が演奏されると、観客席からは、声を絞りだすように唄いだす人、合いの手を入れる人、すすり泣く人までいた。「和楽器の持つ本当のパワーを再認識したのは、震災がきっかけでした」とヒューバナーは語る。

尺八は感情表現が豊かな楽器

そもそも、ヒューバナーは、なぜ尺八の演奏家になったのか? 10歳でフルートを、14歳でサックスを始めた彼は、カリフォルニア州立大学でクラシックやジャズを専攻していた。その頃、偶然ラジオから流れてきた尺八を聴いて、天啓を感じたという。「フルートのようでいて、全く違う。例えば、ドとレの間の繊細な、微分音を出せることに驚きました。ヒュ〜という、墨絵のようなタッチで、個性や即興性も発揮できる。とても可能性のある楽器だと思いました」

無能寺の推定樹齢450年以上の笠松をバックに、尺八を吹くヒューバナー

尺八を本格的に学ぶため、カリフォルニア州立大学で東洋学の修士号を取得後、文部省の国費留学生として1989年に来日した。東京藝術大学邦楽科修士課程に外国人として初めて入学し、人間国宝の故山口五郎氏に師事。94年に首席で卒業した。

「尺八は、自分の声に近いサウンドを出せます。だから自分の感情を音で表現できるのです。どうして東北がこんなことになってしまったのだ! なぜなんだという、憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちを、『ふっ』と強く吹く音に託すことができるのです」

ヒューバナーの尺八のメロディーに合わせて、無能寺の信徒が御詠歌を唱和した

尺八という楽器そのものは、竹を切って節を抜き、穴を開けただけの単純な縦笛である。しかし、「唄口」(うたぐち)と呼ばれる穴に、吹き込む息の強さや、口の形や角度に変化を付けたり、「指孔」(ゆびあな)という穴の押さえ方を変えたりすることで、低い音(メリ)と高い音(カリ)を自由自在に吹き分けられる。そのため、千変万化の音色を奏でられるのである。この尺八の「メリカリ技法」という邦楽用語に由来して、「メリハリ」という日本語が生まれた。

第二のふるさと福島に思いを込めて

そんな奥の深い尺八の世界に引き込まれたヒューバナー。「福島は、第二のふるさと」と言ってはばからない。藝大を卒業後、先輩の紹介で2000年までの6年間、福島県の山の中に暮らしながら、地元の大学で音楽などを教えた。今も横浜の自宅から、毎週水曜日と木曜日に福島へ出向き、福島学院大学で教鞭(きょうべん)を執っている。また、箏奏者のカーティス・パターソンとデュオを組み、福島を含む東北地方でコンサート・ツアーを、2005年から行ってきた。

尺八の一般的な長さは、一尺八寸(約54.5cm)のため、その名前で呼ばれている。ヒューバナーと橘(右)は、同じ琴古流尺八の門下生であり、24年来の親友でもある

横浜市在住のヒューバナーは、福島の大学で毎週2日、教えている。時々、帰り掛けに一人で、国内屈指の秘境とも言われる福島県の男沼(おぬま)でキャンプをする。「電気も何もない静寂の中で、風の音だけに耳を傾けながら作曲する」こともあるという。この日も、そんな風をイメージしながら演奏した

それだけ思い入れのある土地だけに、未曽有の巨大地震と津波の報を受けた時のショックは忘れないという。すぐに、原発事故により避難を余儀なくされた双葉町の人々が一時避難した「さいたまスーパーアリーナ」に駆け付け、見舞い、混沌(こんとん)とする会場内で演奏をした。凍えるような寒さの被災地にも、100回以上足を運んだ。

ヒューバナーはこれまでに被災地を100カ所以上訪れ、東北民謡の「追分節」や「さんさ時雨」などを吹き続けた(画像提供:ブルース・ヒューバナー)

東北被災地のあまりの惨状を目の当たりにし、「この大惨事の中、尺八を聴きたい人なんているだろうか? かえって迷惑ではないか?」と、最初は不安だったという。ところが、実際に演奏すると割れんばかりの拍手を送ってくれる人が大勢いて、「和楽器だからこそ、共感できる」ことを改めて実感したという。

もう一つの「気づき」は、「被災者だけでなく、自分にとっての『心のふるさと』を見つけられたこと」。在日35年目を迎えるヒューバナーだが、「米国人の自分が、なぜ異国の地で、異国の楽器を演奏しているのか?」という問いを、常に持ち続けていたという。いくら努力しても「閉鎖的な邦楽界に、認めてもらえないジレンマ」もあった。「でも、今は全く気にならなくなりました。尺八を通じて、たくさんの仲間と出会えたことに、感謝しています」

ふるさとに帰ろう

無能寺で「復興への願いを込めて」開催されたコンサートは、今年で4回目を迎えた。企画しているのは、同寺の写経教室に参加している、桑折町に避難した浪江町民だ。震災以前から、ヒューバナーの演奏会に足を運んでおり、まだ一時避難所にいた頃、慰問演奏に来た彼と偶然、再会。仮設住宅に落ち着いた後、「ボランティア演奏をお願いするのではなく、自主企画にしたい」という思いから、この催しを始めたという。

「なぜ、無能寺で尺八の演奏をするのか? それは、音楽のためだけではなく、コミュニティーとのつながりを大事にしたいからです」と言うヒューバナー。現代の日本人の多くが、興味を失いながらも、その音色を聴くと、どことなく懐かしく感じてしまう不思議な楽器、尺八。

それは、「日本人が古来、自然との関わり合いを大切にしてきた音楽の歴史があるからです」とヒューバナーは語る。箏奏者のパターソンと2007年にリリースしたCD「Going Home」(ゴーイング・ホーム)に、彼は、次のような言葉を添えている。

「僕たちの音色を育んだふるさとに帰ろう。ふるさとが、静かに降りつもる脅威で満ちています。皆が震えておびえています。(中略)竹を鳴らしてみるのも気持ちがいいです。ふるさとの山に抱かれ、川はせせらぎ、森に包まれ、風はそよぎ、空は果てしなく…そんな音を一緒に紡ぎましょう」

ヒューバナーが尺八で奏でる東北民謡は、ただ主旋律をたどるのではなく、自然界のさまざまな振動数を融合したような、まるで霊魂の存在を感じさせるような響きに溢(あふ)れていた。それは、まさに、聴く者と奏でる者の両者が、それぞれの心の中で「ふるさと」を感じていたからであろう。

取材・文=川勝 美樹
写真撮影=長坂 芳樹
(文中敬称略)

バナー写真=福島県伊達郡桑折町にある無能寺の本堂で、東日本大震災の被災者ら向けに、尺八の演奏をするヒューバナー

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