新時代を迎える歌舞伎

波乱万丈、江戸の歌舞伎と芝居小屋

文化

新しい歌舞伎座(東京・銀座)が2013年4月2日に開場。歌舞伎が生まれて以来400年の間に、劇場空間にも波乱万丈の歴史があった。伝統を受け継ぐ第五期の新生歌舞伎座は世界に冠たる芝居小屋を目指す。

出雲阿国(いずものおくに)による「かぶきおどり」(1603年)に始まったとされる歌舞伎の400年を超える歴史の中で、歌舞伎が上演される芝居小屋にもまた波乱に富んだ歩みがあった。歌舞伎を劇場空間の面から切り取ったのがサントリー美術館(東京・六本木)で開催されている「歌舞伎―江戸の芝居小屋―」展。芝居小屋や役者を描いた絵画、劇場図などから、庶民が支えた歌舞伎の変遷を浮き彫りにして見せてくれる。

重要美術品 阿国歌舞伎草紙 一巻(部分)桃山時代 17世紀初 大和文華館蔵 *画像の無断転載禁止

 

「猿若(中村)座」が江戸歌舞伎小屋のはしり

江戸の芝居小屋は、2012年12月に若くして亡くなった十八代目中村勘三郎の初代である猿若(中村)勘三郎が1624年(寛永元年)に興した「猿若座」に始まる。京都から江戸に下った勘三郎が、町奉行所の許可を得て初めて作った芝居小屋で、当時の江戸・中橋、今の日本橋と京橋の中間に作られた。

しかし、猿若座には観客を呼びこむための太鼓をたたくための櫓(やぐら)があったが、この音が江戸城の武士たちの登城の合図である櫓太鼓と似ていて紛らわしいというので、やがて堺町(今の人形町)へ移転させられてしまった。

観客も今のように静かに黙って歌舞伎を見ていたわけでない。当時、流行した劇場内部を描いた「浮絵(うきえ)」(西洋の透視遠近法を用いて描かれた浮世絵)によると、客は食べたり、酒を飲んだり、しゃべったりと勝手気まま。芝居は、見るというより観光気分で「行く」場所だったようだ。演目も朝から日没まで1日かけて演じるものが多かった。

客にとって見物は大仕事だ。そうした中で生まれた名物のひとつが、昼食のための弁当。幕間に食べるので「幕の内」弁当と呼ばれた。弁当のルーツが歌舞伎にあるわけだが、歌舞伎十八番の演目である『助六』にちなんでつけられた「助六寿司」はいまでも人気の弁当だ。

浮絵 歌舞妓芝居之図 歌川豊春画 大判錦絵 江戸時代/明和6年(1769)11月頃 奈良県立美術館蔵 *画像の無断転載禁止

 

元禄時代、歌舞伎の危機を救った市川團十郎

役者はんじ物 市川團十郎 歌川国貞画 大判錦絵 江戸時代 文化9年(1812)千葉市美術館蔵 *画像の無断転載禁止

歌舞伎隆盛の元禄時代(1688~1704年頃)には、江戸の芝居小屋は4つ(江戸四座)となる。猿若座(堺町)のほか、市村座(葺屋町=ふきやちょう=今の人形町)、森田座(木挽町=こびきちょう=現在の歌舞伎座がある地域、のちに守田座と改める)、山村座(木挽町)だ。森田座は、明治時代に建設された歌舞伎座ができるまで最も大きな芝居小屋として隆盛した。

この中で、歌舞伎存亡の事件となったのが「江島生島事件」(1714年)。これは、江戸城大奥の一大事件だった。大奥の年寄・江島が寛永寺と増上寺を参詣した折、山村座で芝居見物。終演後、ごひいきの呉服屋の接待で役者・生島新五郎を呼んで酒宴をしたが、江戸城へ帰る刻限を過ぎてしまい、幕政を揺るがす大事件に発展した。江島は信州へお預け、生島は流罪、山村座は取り壊しとなった。処分された関係者は1000人以上にも及んだというから、単なる歌舞伎の問題ではなかった。

この時、歌舞伎の危機を救ったのが、2代目市川團十郎。芝居小屋を簡素化し、夕刻の営業をやめるなど、山村座以外の3つの芝居小屋(江戸三座)を残すために尽力した。現代で言えば、アクション満載の芝居が「荒事」に当たるが、江戸歌舞伎の特色であるその芸風を確立したのが初代團十郎であり、その2代目が歌舞伎の危機を救ったことから、歌舞伎界で「市川宗家」と呼ばれるようになったとされている。

歌舞伎とゆかりの「八百屋お七」火事事件

また、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、芝居小屋が火災に見舞われることがしばしばあった。中村、市村両座は1681年と1684年に大火事に見舞われている。しかも、死者3500余人を出した1683年(天和2年)の「天和の大火」でも両座が類焼している。この大火事は、井原西鶴の『好色五人女』で有名な「お七火事」とも呼ばれているものだ。

16歳の娘・八百屋お七は、「天和の大火」で焼け出され、世話になった寺の小姓と恋仲になる。やがて新居ができて、お七は一家とともに寺を引き払ったが、小姓への思いが募り、「もう一度火事になったら会えるかも知れない」と自宅に放火した。火はすぐに消し止められボヤで済んだが、お七は鈴ヶ森刑場で火炙(あぶ)りの刑に処せられた。このことから、「天和の大火」は、「お七火事」呼ばれるようになり、歌舞伎でも上演されるようになった。

震災と戦火をくぐりぬけて

明治維新を経て、江戸が東京となった後、1889年(明治22年)に木挽町に新しい歌舞伎の殿堂として誕生した歌舞伎座もまた、およそ120年の歴史の間、いくつかの苦難をくぐりぬけてきた。1921年(大正10年)には漏電で焼失し、さらに2年後には修復中に関東大震災に遭い、内装用の桧材が全焼して工事の中断を余儀なくされた。第2次世界大戦では1945年(昭和20年)の東京大空襲で大屋根も含めて全焼した。

歌舞伎座の歴史はまさに波乱万丈の舞台そのものであり、同時に「復興」の歴史でもあるといえる。

第二期歌舞伎座(画像提供=松竹株式会社)

 

観客動員で世界3大歌劇場を超える

歌舞伎座を運営する松竹の迫本淳一社長は、2013年3月18日の日本記者クラブにおける記者会見で、新開場に当たって「芸術性と大衆性を伝える歌舞伎の原点に戻る」と述べた。迫本社長が掲げたもうひとつの抱負は、「国際的な日本文化の理解に貢献すること」だ。

過去の海外との関係でいえば、すでに戦前から俳優のチャーリー・チャップリンやフランスの作家ジャン・コクトーらが観劇している。特にコクトーは1936年、歌舞伎座で、六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」を見たが、これが映画『美女と野獣』(1945年)に大きな影響を及ぼしたといわれている。

「観客動員を現在の年間90万人から110万人まで拡大したい」(迫本社長)との目標を掲げて幕を開ける「新生」歌舞伎座。ミラノ・スカラ座、ウイーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場の世界3大歌劇場の観客動員数が年間50万人から90万人であるだけに、この目標を達成すれば、世界に冠たる芝居小屋となる。

サントリー美術館「歌舞伎座新開場記念展 歌舞伎 ― 江戸の芝居小屋」開催日程2013年2月6日~3月31日
美術館URL http://www.suntory.co.jp/sma/ ※展示替えあり

上野花見歌舞伎図屏風 伝菱川師宣画 六曲一双のうち左隻 江戸時代 元禄6年(1693)頃 サントリー美術館蔵 *画像の無断転載禁止

 

(タイトル写真重要文化財 歌舞伎図巻 二巻のうち下巻(部分)江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵 ©徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom *画像の無断転載禁止)

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