「いざ、日本の祭りへ」(4)祇園祭と京都

祇園祭を支える京都町衆の「おもてなし」

文化

1日から31日まで祇園祭一色に染まる7月の京都。とりわけ多くの見物客を集めるのが7月14日から16日にかけて行われる「宵山(よいやま)」、そして17日の「山鉾(やまほこ)巡行」だ。異国から芸術品を取り寄せてまで飾り立てた京都町衆の心意気と「おもてなし」が日本最大の夏祭りを支えている。

7月16日、宵山の四条通。夕暮れの京都の町を駒形提灯が照らす。海外からの観光客も多く見受けられた。

お囃子の調べが祇園祭を盛り上げる

コンコンチキチン、コンチキチン。

お囃子(はやし)の音が宵山を迎えた京都・祇園に響き渡る。粽(ちまき)を売る子供たちの童歌も聞こえてきた。祭礼の前夜を祇園祭では宵山と呼び、宵々々山(14日)、宵々山(15日)、宵山(16日)と3日に渡って前夜祭が続く。

山鉾で奏でられる祇園囃子。この日のために練習を重ねてきた。

百貨店が立ち並ぶ京都のメインストリート・四条通(しじょうどおり)も、この期間は様相を大きく変える。およそ25mの高さを誇る長刀鉾(なぎなたほこ)をはじめ、豪華絢爛(けんらん)に飾られた曳(ひ)き山がいくつも展示される。山鉾と呼ばれる曳き山は室町通(むろまちどおり)、新町通(しんまちどおり)といった南北に走る横道にも置かれ、その周辺では各町が趣向を凝らしたグッズを販売していた。

新町通の賑わい。奥に見えるのは南観音山の山鉾(写真左)。手拭い、うちわ、お守りなど、販売されているものは各町で異なる(写真右)。

夕刻が近づき、山鉾に飾られた駒形提灯に灯りがともされた。歩行者天国となった四条通、烏丸通(からすまどおり)は浴衣姿の人で埋め尽くされていく。午後10時、本番の晴天を祈願してそれぞれの町の囃子方が練り歩く日和神楽(ひよりかぐら)が始まった。混ざり合うお囃子を耳にしながら、見物客がそぞろ歩きを楽しんでいた。

囃子方が四条通のお旅所に向かう。各町に戻るのは夜中12時を超える。

迫力満点の「辻廻(つじまわ)し」が観客の度肝をぬいた

翌17日の朝。あれだけたくさんあった夜店はすべて片付けられ、町は静粛な空気に包まれた。いよいよ山鉾巡行がスタートする。

新町通を進む北観音山の山鉾。白い羽織が曳き方(綱で山鉾を引っ張る人)、青い羽織が車方(車の方向を調整する人)。高さが20mを超えるため、電線にぶつからないように屋根の上にも人が乗っている。

祇園祭の曳き山は「山」と「鉾」に大別される。「山」には屋根がなく、胴体の上に趣向を凝らした人形が乗せられている。「鉾」は車輪と屋根がある巨大な曳き山。屋根の下にある囃子舞台では、移動しながら祇園囃子が演奏される。北観音山のように車輪と屋根を持つ鉾のような山もある。

山には人形が乗せられる。写真左は郭巨山(かっきょやま)。写真中は放下鉾(ほかほこ)。鉾に乗り、扇子を片手に声をかけているのが音頭取。写真右が船鉾(ふねほこ)。鉾全体が船の形になっている。

 

四条通を進む山鉾の行列。

祇園囃子のテンポに合わせながら、33基の山鉾が列をなしてゆっくりと進んでいく。見どころは巨大な鉾が角を曲がる瞬間だ。鉾にはかじがついていない。車輪の下に割った竹を並べ、その上を滑らせながら90度回転させるのだ。「ヨーイトセ」という音頭取の声とともに、車方、曳き手が息を合わせて鉾を動かす。その迫力に見物客も息をのんだ。「辻廻し」と呼ばれる技で祇園祭はクライマックスを迎える。

南観音山の辻廻し。

 

舞妓さんも浴衣姿で声援を送っていた。

不慮の死を遂げた人の魂を鎮めるために始まった

夏祭りの代表ともいわれる祇園祭。その起源は1100年ほど前までさかのぼる。

日本の都・京都では、夏になると疫病が流行り、多くの人命が失われていた。当時の鴨川は暴れ川として知られ、梅雨になると毎年のように氾濫。平安京にまで水が流れ込み、溜って腐った水が疫病を引き起こしていたのだ。

自然災害による被害は京都だけにとどまらなかった。東北三陸沖でも869年に貞観(じょうがん)地震が発生。マグニチュード8.4以上ともいわれる巨大地震で、津波による浸水域も東日本大震災に匹敵すると推定されている。その他にも富士山や阿蘇山の大噴火……相次いで起こる自然災害を、当時の人は不慮の死を遂げた人たちの祟(たた)りだと考えていた。

日本全国にいる怨霊(おんりょう)を鎮めなければならない……。鎮魂の祭礼として始まった祇園社(現在の八坂神社)の御霊会(ごりょうえ)が祇園祭の起源といわれている。

「祇園祭の本当の主役は、八坂神社の3基の神輿(みこし)です。7月17日に執り行われる神幸祭(しんこうさい)では、スサノオノミコトをはじめとする3人の神様を神輿にお乗せし、お旅所(たびしょ/巡行中に神輿を一時的に鎮座させておく場所)までお連れします。24日の還幸祭(かんこうさい)でお旅所から八坂神社にお戻りになる。この2つの祭礼によって穢(けが)れを払い、疫病の退散を願うのです」とは祇園祭山鉾連合会理事長・吉田孝次郎さん。

もともと山鉾巡行には、神様を迎えるために神幸祭の前に行われる前祭(さきのまつり)と、還幸祭の後に神様への感謝を込めて行う後祭(あとのまつり)があったが、現在では前祭のみが執り行われている。

スサノオノミコトを乗せた神輿が八坂神社の舞殿を出発する(写真左)。3基の神輿を前に京都市長が演説した(写真右)。

山鉾こそが京都町衆の誇り

脇役だった山鉾を祇園祭の中心的存在にしたのが京都の町衆たちだ。室町時代(1336〜1573年)になり都が京都に戻ると、酒屋や土倉(今でいう金融業)といった商工業者が力をつけていった。祇園祭でも氏子(うじこ)町ごとに山や鉾を出すようになる。足利将軍家の後継者争いに端を発する応仁の乱(1467年〜1477年)によって京都は焼け野原となり、祇園祭も一時中断されるが、町衆たちが再興へと導いた。以後、祇園祭は名実ともに町衆たちのお祭りとなっていく。

安土桃山時代(1573〜1603年)から江戸時代(1603〜1868年)にかけて海外貿易が盛んになると、山鉾はさらに華麗さを増していった。

北観音山を受け継ぐ財団法人北観音山保存会理事長の石川卓さんも「当時から“うちの山鉾が一番素晴らしい”と、華麗さを競い合っていた」と話す。

「京都の商人(あきんど)は倹約家が多く、質素な生活を送っていましたが、祭りにはきちんとお金をかけていたそうです。ここ六角町にも三井、松坂屋という豪商がいましたが、山鉾にも財力を投入し、遠くチベットやペルシャから織物を取り寄せていました。工芸装飾も贅(ぜい)を凝らしたもの。当時の人にしてみれば滅多に見られない貴重な品です。祇園祭に日頃お世話になっている方々を招待し、楽しんでもらう。それが町衆のおもてなしでした」

貴重な調度品で山鉾を飾っていく。

力のある町衆たちが財力を競うようにして山鉾を飾ったため、世界中から貴重な調度品が集まった。山鉾が「動く美術館」と称される所以(ゆえん)だ。華美な装飾を施した山鉾は京都に生きる人の誇りでもある。美しい山鉾を一目見ようと多くの見物客が集まるようになっていった。

祇園祭は疫病退散を願う都市型夏祭りの原型として全国に広まっていく。福岡の博多祇園山笠、岐阜高山の高山祭、富山高岡の御車山(みくるまやま)祭など特色ある曳き山を楽しめる祭りが、日本には数多くある。

祇園祭で感じる京都の「おもてなし」

京都町衆のおもてなしは「屏風祭」にもあらわれている。山鉾町の町衆たちは宵山の期間中、蔵に秘蔵されている屏風絵や美術品を親戚や知人に披露してきた。今では屏風祭として一般の見物客にも公開している。

北観音山でも屏風絵を公開している町家がある(写真左)。観光客も屏風祭を楽しみにしている(写真右)。

「祇園祭の宵山は京都に生きるものにとってハレの場。お客さまをお迎えするにあたって普段はお見せしないものを公開しているのです」(石川さん)

祇園祭でしか感じることのできない京都がある。それは京都町衆の「おもてなし」に支えられていた。

撮影=中野 晴生

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