禅の世界へ

マインドフルネスのルーツ、白隠の禅を訪ねて

文化

日本の社会と文化に大きな影響を与えた禅は、欧米にも「ZEN」「マインドフルネス」として浸透をみせる。実在した祖師・先師、現代に生きる禅師の人間味あふれる姿にその魅力のルーツを探った。

現実を直視し、実践を重んじる禅の基本は坐禅だ。その座禅を養心養生の長寿法として説いた禅師が白隠慧鶴(はくいん・えかく)。禅の修行を体系化した人でもある。今も伝えられる座禅の奥義に迫った。

頭に卵の大きさのバターが載っている。それが徐々に溶け、とろりと体に染み渡っていくさまをイメージする。それを繰り返すことで、禅の境地に入り、万病が治るどころかどんな道でも成就できる。

臨済宗中興の祖・白隠慧鶴が説いた「軟酥(なんそ)の法」という内観法だ。酥とは牛乳を煮詰めた古代のバターのこと。今、まさに呼吸や体を観察する瞑想(めいそう)やマインドフルネスに世界が注目している。さまざまな病気への治癒効果が実証され、仕事の効率アップにつながるとして欧米企業も導入し始めた。軟酥の法はマインドフルネスのルーツとも言えるだろう。

白隠ゆかりの達磨寺

京都市上京区。臨済宗妙心寺派法輪寺は通称「だるま寺」の名で親しまれている。起き上がり小法師(こぼし)や縁起物として日本人には馴染みが深い達磨だが、元々はインドから中国に禅宗を伝えた禅宗の初祖。法輪寺は、達磨大師の禅画を多く描いた白隠禅師ゆかりの寺でもある。

蒸し暑さが残る初秋、法輪寺の門をくぐると、中年女性の団体客と遭遇。「これからですか。このお寺面白いわよ~」と声を掛けられた。

その意味が中に入ってすぐ分かった。おびただしい数の達磨が鎮座している。大小合わせ、数千はあるだろうか。

住職の佐野泰典氏が、作務(さむ)の手を休めて現代にも生きる白隠禅師の教えを説いてくれた。

達磨の巨大な肖像画を前にする法輪寺住職の佐野泰典氏(撮影=筆者)

「現代人は心と体のバランスを崩し、ひずみが生じている。医者や薬に頼りがちですが、そもそも人間には自らもって生まれた力がある。座禅・瞑想し心を整えれば、いちいち腹を立てたりつまらないことに捉われることもない。そうした精神状態を保つことができれば、何をするにしてもそれが成功への一番の近道ということでしょう」

一期一会の特別展

達磨像 白隠慧鶴筆 江戸時代 (18世紀) 大分・萬壽寺蔵

今年は白隠禅師が亡くなって250年。禅ブームも相まって各地で白隠禅師にスポットを当てた催しが行われている。

10月中旬、東京・上野の東京国立博物館では、白隠禅師の没後250年、臨済宗の宗祖・臨済義玄の同1150年を記念する「禅-心をかたちに-」展が始まった。

臨済宗とその流れをくむ黄檗宗(おうばくしゅう)の各本山が所蔵する高僧の肖像や墨蹟(ぼくせき、禅僧の書)、仏像、工芸など国宝24点、重要文化財102点を含む名宝が50年ぶりに集められた。

会場に入るや否や約2メートル近い大画面の巨大なぎょろ目に吸い込まれる。白隠禅師が描いた力強くユーモラスな達磨の肖像画だ。漆黒の背景には「直指人心 見性成仏」(じきしじんしんけんしょうじょうぶつ)の文字が。「真っすぐに自分の心を見つめよ。仏になろうとするのではなく、本来自分に備わっている仏性に目覚めよ」という禅の教えの根本だ。白隠禅師は、庶民に何とか分かりやすく禅宗の教えを説こうと、1万点以上の絵画、墨蹟をしたためたと言われる。

「喝」を入れまくった臨済禅宗祖

分かりやすさでいえば、極めてユニークな仏像を見つけた。釈迦(しゃか)の息子、羅怙羅(らごら)尊者像だ。醜い容貌だったとされる羅怙羅だが、開いた仏像の胸には穏やかな顔の釈迦が彫られている。人は誰しも仏心を備えているという白隠禅師の教え、「衆生(しゅじょう)本来仏なり」そのままである。

十八羅漢像のうち「羅怙羅 (らごら)尊者像尊者 范道生作 江戸時代 寛文4年(1664) 京都・萬福寺蔵

「仏像なような表情」とは温和の代名詞でもあるが、目をむいて今にも「喝」と怒鳴り、拳でこちらを突く勢いの像もある。宗祖・臨済義玄のいわゆる「怒目奮拳(どもくふんけん)」の肖像画だ。臨済自身、修行者に幾度となく「喝」を繰り返したそうだが、座禅道場でこんな禅師に遭遇したらおちおち座ってなどいられないだろう。

重要文化財 臨済義玄像 一休宗純賛 伝曾我蛇足筆 室町時代 15世紀 京都・真珠庵蔵

日本文化の源流に禅あり

禅僧の怒目にとどまらず、どこまでも追い掛けてくるような虎と龍の目(龍虎図屏風)、今にも屏風から這い出してきそうな虎の目(群虎図)が会場内の空気を引き締める。峻烈な禅風が支持された初期臨済宗の迫力とエネルギーには圧倒される。

重要文化財 龍虎図屏風(左隻)狩野山楽筆 安土桃山~江戸時代 17世紀 京都・妙心寺蔵

重要文化財 龍虎図屏風(右隻)狩野山楽筆 安土桃山~江戸時代 17世紀 京都・妙心寺蔵

重要文化財 南禅寺本坊小方丈障壁画のうち群虎図 狩野探幽筆 江戸時代 17世紀 京都・南禅寺蔵

会場には一休さんとして親しまれた一休宗純禅師の愛した尺八も置かれ、その音色も奏でられているほか、禅の影響で広まった茶道の国宝級の名碗や茶入(ちゃいれ)なども展示。日本文化の源流に禅があることを実感する。

生活の中に「動中の工夫を」

禅文化はバラエティーに富むが、今に生きる人が禅の精神を身近に感じるにはどうすればよいのか。会場内を視察中の臨済宗黄檗宗連合各派合議所の蓮沼良直理事長に尋ねると、「それはやはり座禅を実践し、生活の中に境地を求めていくことですよ」ときっぱり。

臨済・黄檗両宗を束ねるトップとあって眼光鋭く迫力がにじみ出ているが、会場内で話し出すと柔和な顔つきに変貌する。

「ただ、座る。一つのものになりきる。これが無心、正常心(しょうじょうしん)につながる。コップの中の泥水をごらんなさい。最初は濁っていてもしばらく置いておくとどんどん澄んでくる。いつのまにか向こう側も透けて見えるようになる」

「ただね。この泥を捨てようとしてはいけない。どんな人にも泥はある」

しかし、日々の仕事や生活に忙殺される現代人が、座禅に多くの時間を割くのは至難の業だ。

そうしたこちらの気持ちを見透かすように蓮沼理事長は続ける。

「何も座ることだけが禅ではない。電車に乗っていても、歩いていても禅の境地はある。周りをちらちら気にせずに油断せずに、静かに心を治めながら歩いていけば良い。これも動中の工夫。『動中の工夫、静中の工夫に倍すること百千万倍』といってね、静かな中に禅を求めるのでなく、動きの中に静かな心を求めていくという世界もある」

禅は現代の羅針盤にも

会場を後にした。「歩きの中にも禅の境地はある」という蓮沼禅師の言葉のままに、濡れた石畳の感触を感じながら歩いてみた。ついさっきまで雨を含んでいた空気に甘さが残る。公園の木々の緑も心なしか鮮やかだ。

「禅、分かったようでやはり分からないが、単純ではないからこそ、ここまで『ZEN』としての広がりを見せているのだろうか」

禅展オープニングの挨拶で蓮沼理事長は、「人々の多くは霧の中の船路を行くがごとし。ここにあって禅は時代を超え地域を超え、これからも光り輝くものと信じている」と語っていた。

取材・文=小山 哲哉
展示物画像提供=東京国立博物館

バナー写真: 「動きの中にも禅の境地を求める10人の修行僧」(十大弟子立像、京都・鹿王院所蔵、撮影=ニッポンドットコム編集部)

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