日本の書

金澤翔子—世界に羽ばたくダウン症の天才書家

文化

ダウン症に生まれた金澤翔子。世界的な書家に育った陰には、母と亡父の愛情があった。「涙」から「輝き」へ。アーティストとして、活躍の場は広がっていく。

金澤 翔子 KANAZAWA Shōko

書家、雅号「小蘭」。1985年東京生まれ。書家である母に師事し、5歳で書を始める。2005年、初の個展「翔子 書の世界」を開催。その後、鎌倉建長寺、京都建仁寺、奈良東大寺などで個展を開催。2015年、ニューヨークで初の海外展を開催し、同9月にピルゼンおよび11月にプラハ(チェコ共和国)で個展を開いた。母との共著に、『魂の書 金澤翔子作品集』、『海のうた 山のこえ―書家・金澤翔子 祈りの旅』ほか多数。

「皆さんに元気とハッピーと感動をあげたい」――2015年3月20日、ニューヨークの国連本部で開かれた“世界ダウン症の日”を記念する会合の席上、金澤翔子さんが行ったスピーチの締めくくりの言葉である。

5歳で筆を持つ

翔子さんは1985年6月、東京で誕生した。当時42歳だった母の泰子さんは初めての出産に有頂天になった。しかし、医師からダウン症と宣告されると、一転して絶望の淵に立たされた。苦悩と悲しみの中、泣きながら翔子さんに授乳しているとき、幼子の翔子さんが、小さな手を差し伸べて母の涙を拭い、微笑んだという。「翔子の生きようとする意志、優しさと賢さに救われた」と、泰子さんは語っている。そして、二人はどの母子にも勝る強い絆で結ばれることになった。

翔子さんが5歳の頃、書道の研鑽(けんさん)を積んできた泰子さんは「翔子に友だちを作ろう」と、自宅に書道教室を開いた。子ども4人でスタートしたところ、翔子さんだけ最初から筆を正しく持つことができたので、泰子さんは「この子には書の可能性があるのかもしれない」と直感したという。

小学校に入り、友だちもたくさんでき、平穏な日々を送っていた4年生の時、担任の先生から特別支援学級のある学校に転校するよう告げられた。「こんなに楽しい学校生活なのに、どうして」と反発を感じながらも、仕方なく学校を休むようになった。このつらい時間をどう耐えるか悩んだ泰子さんは、翔子さんに仏教の精髄を276文字で表現した般若心経を書かせることを思いつく。まだ10歳のハンディキャップのある少女にとって、難解な漢字が連なる経文を書くことは、無謀な挑戦に思われた。昼も夜も、書に取り組んだ翔子さん。母の厳しい指導に泣きながら書いた翔子さん。こうして、今でも多くの人に感動を与えてくれる作品「涙の般若心経」は出来上がった。

作品「涙の般若心経」1995年 4面 各137×35cm

亡父の愛が招いた奇跡

このときの書三昧の日々の体験は、翔子さんの書作を考える上で、大きな飛躍をもたらしてくれたのではないだろうか。漢字のもつ複雑な構造と筆順を体全体で会得したに違いない。翔子さんの努力は、6年後の2001年、日本学生書道文化連盟展において最高の金賞受賞へと結実していく。

この間にも、母と子は大きな悲しみに打ちひしがれた。翔子さんが14歳の時、最愛の父・裕さんが心臓発作で急逝したのである。52歳という若さだった。しかし、父親の愛はその後の翔子さんの人生に光明をともすことになる。05年、20歳になった翔子さんの進路に困惑していた泰子さんは、夫が生前、「20歳になったら個展を開こう」と語っていたことを思い出し、夫の遺志を継いで翔子さんの個展開催を決断した。

同年12月、東京・銀座のギャラリーで開かれた展覧会「翔子 書の世界」には、大勢の人たちが来場し、感激に涙した。その様子が新聞やテレビ、インターネット上で伝えられると、翔子さんはダウン症の天才書家として脚光を浴び、彼女の人生は一変した。父の愛が招いた奇跡である。

作品「藝」を前に微笑む翔子さん

1人暮らしを始める

作品「月光」2004年、101×35cm

その後の活躍ぶりには驚くべきものがある。鎌倉の建長寺、奈良の東大寺、京都の建仁寺、岩手の中尊寺、広島の厳島神社など日本を代表する寺社をはじめ、全国各地の美術館や文学館などの文化施設で個展と席上揮毫(きごう、公開制作)を次々と開催しており、母娘のスケジュール帳は真っ黒の状況だ。中でも、2011年にNHKの大河ドラマ「平清盛」の題字を揮毫したこと、13年に東京で開催された国民体育大会の開会式典において5メートル四方の紙に「夢」の大字を揮毫したことは、全国的な話題となった。そして、国連でのスピーチは世界に大きな驚きと感動を与えた。

15年秋、30歳を過ぎた翔子さんはお母さんの家を出て、一人で生活を始めた。これまでお金には全く関心がなかった翔子さんだったが、今では毎日のように、千円札を握りしめて地元の商店街で買い物をしている。彼女の姿が見られる商店街には笑顔があふれ、街の活性化につながっているという。そして、自分で料理をして、一人で食べるのが日常の生活である。

泰子さんの悩みは、翔子さんと一緒に食事ができないことである。それは、母として大変うれしい悩みといえよう。ダウン症の娘が自活するなんて、かつては想像もできなかった夢のような出来事である。世界中のダウン症の子どもたちとその家族に、大いなる勇気と希望を与えるにちがいない。翔子さんの自活を可能にしたものこそ、彼女が体得した書の力ではないだろうか。

広がり続ける活躍の場

作品「門」2014年、140×100cm

翔子さんの書の基礎をなしているのは、漢字の楷書である。楷書は1画1画を離して書き、直線を多用した方形に近い書体である。楷書の美が確立したのは、中国の唐時代であるといわれている。私は、書に関しては門外漢といわざるをえないが、翔子さんの書を見ていると、唐の顔真卿(がん・しんけい、709-785)の楷書を思い出す。骨太で堅牢(けんろう)な造形性とともに、強靭(きょうじん)な線の中に秘められた発条(ばね)のような弾力を感じさせるのが、顔真卿の特徴ではないだろうか。翔子さんの場合、これらの特徴に加え、生命の拍動をそのまま表したような線のリズムとゆらぎが見る者の心を捉える。本格的な漢字の書法にのっとりながらも、無心に、そして自由に筆を走らせているようだ。泰子さんも、「翔子はうまく書こうとか、紙からはみ出しちゃいけないなんて考えないんです。いつも皆さんに元気とハッピーをあげたいんです」と語っている。

現在では、翔子さんは漢字の楷書ばかりでなく、より曲線的でスピード感のある行書や草書、そして日本語の仮名文字まで、多様な書の表現を自在に駆使している。その力を遺憾なく発揮して、漢字の一字書や熟語、仏教の経典や言葉、漢詩のほか、日本古来の和歌や俳句から近代の詩まで多彩な領域の書作を生み出している。これらの翔子さんの書には、彼女の生命の輝きがあふれており、書家の書という範疇(はんちゅう)を超えた、見る者の心に直接響くアートとして、さらにいうならば現代に生きるアートとして高く評価されていくに違いない。

作品「飛翔」2006年 70×135cm

これまで、翔子さんの海外での個展は、ニューヨーク、プラハなどで開催されているが、今年10月のシンガポールを皮切りに、来年4月のドバイ、5月のサンクトペテルブルグなど多くの海外個展が予定されている。これから、翔子さんの書の美は、極東の島国日本から世界中に羽ばたいていくだろう。翔子さんの「翔」の字は、羽を広げて飛ぶという意味なのだから。

バナー写真:山形美術館での席上揮毫(2016年8月13日)。書き上げた「平和の祈り」を前に観客と笑顔で交流する翔子さん。写真提供・山形新聞

障害者 書道 金澤翔子