ニッポン偉人伝

西洋と東洋を超えて:岡倉天心

歴史 文化

岡倉天心は、明治期における西洋化の荒波の中で近代日本美術の発展に大きな功績を残した。ボストン美術館の中国日本美術部長としても活躍した天心は、西洋と東洋の精神性の融和を図った稀有な思想家だった。

日本文化紹介だけにとどまらないメッセージ

「多文化共生」が喫緊の課題となった現代社会において、なお国家間、民族間の対立は激しさを増している。100年以上前、ある日本人が覇権や利権をめぐり世界を荒廃させる争いを、荒波の中で一つの玉を奪いもがきあう龍になぞらえた。彼の名は岡倉覚三(天心、1863〜1913)。日本とロシアが開戦した1904年、米国に渡ってボストン美術館に勤務し、間もなく日本人で初めて中国日本美術部部長となった人物である。彼は日本やアジアの美術や歴史、芸術思想を伝える3冊の書物(※1)を英語で著した。これらの本には、対立する「西洋」と「東洋」を表す2匹の龍が登場する。

1906年、Fox Duffield社によって発行されたThe Book of Tea(『茶の本』)の初版本(提供:茨城大学五浦美術文化研究所)

1906年、米国で出版されたThe Book of Tea(『茶の本』)において、彼は龍の争いによって裂かれた世界を修復するために、中国古代神話の女神「女媧(じょか)」やインドにおける神仏の化身「アバター」を待つしかない、と述べた。解決を探る手だてを放棄するかのような絶望に満ちた語り口の後に、読者にこう呼びかける。「まあ、茶でも一口すすろうではないか」と。彼は言う。「明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。はかなさを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか」

暗い海から出て、一杯の茶を飲みましょうと光の中へ誘うのだ。「西洋」で飲まれる「茶」は「紅茶」であり、その茶葉は「東洋」を原産としている。紅茶は「西洋」の生活に欠かすことのできない飲料だが、日常生活の中でひとときのお茶を味わうことは、国や民族を越えて見られる普遍的な行為である。アフタヌーン・ティーにおける主人と客のやり取りには、日本の茶道の礼に通じる「もてなし」と「問答」がある。東西を越えて「茶の礼拝」は存在しており、それゆえ東西の人間性はすでに「tea-cupの中で出会っている」と彼は考えた。

『茶の本』は、茶道をテーマに日本文化を海外に紹介した著作と理解されている。だが、それだけにとどまらないメッセージを内包する。東西の文化的差異を認めつつ、両者が対等であることを説き、かつ互いの価値観や文化の多様性を認め合いながら思いやりを持つことで、両者は「調和」できると主張する。彼は「茶道」を巧みに援用しながら、「茶」という日常の小さな出来事が創り出す心と心の交流を、世界規模で説こうとした。だからこそ、今なお世界中の人々に読まれ高い評価を得ているのだと思う。

《双龍争珠》 横山大観1905年 絹本墨画淡彩。松を龍に、月を宝玉に見立てて描かれている(画像提供:横山大観記念館)

西欧の学問と日本の伝統的な教養を結合

このような本を著した岡倉覚三は、どのような人物か。日本史の教科書には東京美術学校(現・東京藝術大学)創立に尽力し、そこから横山大観(1868~1958)らの日本画家が輩出されたこと、日本美術院を設立したことなどが記されている。彼が近代日本美術の発展に果たした功績は大きい。日本の伝統に基づきながら新しい時代の美術の創造を積極的に推進し、廃仏毀釈(きしゃく)で傷ついた古美術の保存と修復に尽力した。その活躍の場は国際的な広がりを持ち、晩年の10年間は、米国ボストン美術館中国日本美術部の経営に手腕を発揮し、東洋美術を欧米に紹介する拠点とすべくコレクションを拡充し、人材を育成した。

その生涯の活動と業績から、国際人と位置づけられる彼の素地は、混沌(こんとん)とした明治維新期に、横浜と福井と日本橋、商人と武士、西洋文明と伝統的教養というハイブリッドな文化環境で培われた。福井藩の下士だった父親は、開港した横浜で藩の商館の手代となり貿易商人として才覚を発揮、維新後は東京日本橋に転居して旅館や越前物産取次所を開業した。岡倉は横浜で英語を学び、東京大学でお雇い外国人教師から西欧の学問を摂取する一方、日本橋で漢詩、南画、琴、茶道という日本の伝統的な教養を身につけた。西欧的近代性と明治以前の東洋的非近代性を同時に吸収し、それらを矛盾することなく自己の内部で結合させていった。

岡倉は、東京大学を卒業して文部省(現・文部科学省)に入省、やがて国家建設期の美術行政を先導し、東京美術学校の2代目校長となる。そのまま順風満帆な人生を送るかに見えたが、上司九鬼隆一の夫人初子との恋愛関係が家庭生活に暗い影を落とし、西洋式の教育の導入を図る新しい指導者との間に軋轢(あつれき)が生じた。やがて東京美術学校校長を非職となり、「美校騒動」(※2)が起き、辞職した画家、彫刻家、工芸家たちとともに日本美術院を設立した。理想を掲げて立ち上げたものの、横山大観や菱田春草(1874~1911)らが新しい表現として試みた没線描法が「朦朧体(もうろうたい)」と批判を受けて経営が悪化し苦境に陥った。

1905年、茨城県北部の五浦海岸に岡倉が思索の場として設計し建設された六角堂。2011年の東日本大震災の津波で流されたが、12年に創建時に近い形でよみがえった(提供:茨城大学五浦美術文化研究所)

21世紀において見直されるべき思想家

将来の活路を求めて彼が向かったのはインドであった。その目的の一つは、シカゴの万国宗教会議で「宗教の調和」を唱えて信者を得たヒンドゥー僧スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863〜1902)に会うことであった。ヴィヴェーカーナンダは、古代インドの諸宗教の真理を西洋世界に示しつつ、西洋思想と東洋思想の持つ普遍的要素を認め、その交流を願った。このような調和の考えは、日本美術の伝統と西洋美術の技術を結びつけて新美術を創出しようと奮闘する岡倉の心を捉えたことだろう。『茶の本』には「象牙色の磁器の中の琥珀(こはく)色の液に、その道の心得ある者は、孔子の甘美な寡黙、老子の風刺、釈迦牟尼その人の天上の香気に触れることができる」と書かれている。儒教、道教、仏教が調和した「茶」の神髄は、一宗派に捉われぬ諸思想を包容する多様性だと解することができる。

岡倉はインドでラビーンドラナート・タゴール(1861〜1941)とも親交を結んだ。タゴールは、カルカッタ(現コルカタ)に生まれ、詩、戯曲、小説をベンガル語で著し、1913年にノーベル文学賞を受賞した近代インド文化を代表する人物である。各国を歴訪し、インド文化と思想の紹介につとめ、世界平和と国際協力をうたった。岡倉は、タゴールの周辺に集う現地の芸術家たちと交流し、英国からの独立を目指す人々のナショナリズムに共感を寄せていった。

ラビンドラナート・タゴール(提供:茨城大学五浦美術文化研究所)

岡倉も、ヴィヴェーカーナンダも、タゴールも、西洋文明が圧倒的な優位を誇る時代にアジアを代表する知識人として、自国の芸術、宗教、歴史、生活文化など伝統的文化を西欧社会に伝え、その理解を求めた。芸術や宗教を通して、「西洋」と「東洋」の持つ普遍的要素を唱え、その健全な交流、調和を願った点で共通している。

インドで岡倉は「日本美術」の源流を「アジア」に位置づけた。それをよりどころに「日本」の文化・思想をボストンから世界に発信していった。ボストン美術館勤務を開始すると、米国を「西洋と東洋の中間に位置する家」にたとえ、優れたコレクションの形成とその芸術鑑賞は「西洋と東洋がお互いよりよく理解し合う」ために有意義であると働きかけた。「西洋と東洋の中間の家」とは地理的な意味のみでなく、西洋と東洋が理解しあえる場を意味し、ボストン美術館をそうした場にすることが彼の経営理念の根幹になった。日米のスタッフで東洋美術部門の基礎を築き、育てた米国人学芸員は各地の美術館へと移って、日米開戦の頃まで両国の文化交流に尽くしたのである。

1913年、ボストンで脱稿したオペラ台本The White Fox(『白狐(びゃっこ)』)(提供:茨城大学五浦美術文化研究所)

彼の最後の著作はオペラ台本The White Fox(『白狐(びゃっこ)』)である。信太妻(しのだづま)伝説(※3)を題材に、母親の愛情と別離の悲しみという普遍的なテーマを核に、オペラという西洋文化の枠組みで創造された物語である。狐(きつね)コルハとヤスナとの間に生まれた子どもは、相いれない二つの世界を結びつける奇跡的な存在である。その子にコルハが残した魔法の玉は、二つの世界に調和をもたらす未来を予言している。この玉は、『茶の本』の龍が求める玉と響きあう。

没して100年以上が経過した今も、数え切れない多くの龍が、動乱の海で覇権や利権を得ようと躍起になってもがき争っている。世界はますます混迷の度合いを深め、私たちはいまだ荒廃を修復できずに立ち尽くしている。今こそ、岡倉覚三の思想を見直すべきであり、その知恵は、国家間、民族間の対立が激しさを増した現代社会において、いっそう重要となる。

バナー写真=岡倉覚三(天心)。1904年頃、ボストン美術館において(提供:茨城大学五浦美術文化研究所)

(※1) ^ The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan(『東洋の理想』)、The Awakening of Japan(『日本の覚醒』)、The Book of Tea(『茶の本』)。

(※2) ^ 岡倉の校長辞職に反対して、美術学校教授の大半が辞職願を提出するなどした学校騒動。

(※3) ^ 信太の森の白狐が葛の葉姫に化けて安倍保名(あべのやすな)と結婚して一子をもうけたが、正体を知られて古巣に帰ったという伝説。

美術 思想