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特集 変貌し続ける大都市、TOKYO
家康が築いた巨大都市東京 : 壊滅と再生を繰り返してもベースにあるのは江戸の町(上)
[2018.05.02]

400年前の東京は、城の目の前まで入り江が迫る住む場所の少ない寂れた土地だった。東京は何度も壊滅の危機に直面し、そのたびに再生と拡大を繰り返してきた。いかにして、今日ある東京の姿になったか、その歴史を振り返ってみたい。

2016年に国連が発表した『The World’s cities data booklet』は、人口が1000万人を超える31の世界の巨大都市をランキング化している。その堂々1位に輝いたのが東京だ。隣接する神奈川県、埼玉県、千葉県を含めたいわゆる「東京圏」の人口は約3800万人で、カナダの総人口を上回っている。

今でこそ、高層ビルが林立し、交通網が高度に発達し、目まぐるしく人が行き交う大都会だが、400年前は雑木林と湿地が広がる寂れた土地だった。そして、この400年の間に、東京は何度も壊滅の危機に直面し、そのたびに再生と拡大を繰り返してきた。いかにして、今日ある東京の姿になったか、その歴史を振り返ってみたい。

100万都市大江戸の誕生

東京(当時は江戸)の本格的な開発が始まったのは、徳川家康が豊臣秀吉に関東移封を命じられた1590年だ。現在の皇居の場所には江戸城があり、そのすぐ目の前まで入り江が迫る、人の住む場所が少ない小さな村だった。そこで、家康は城の北側にあった神田山と呼ばれる丘陵地を切り崩し、入り江を埋め立てて土地を造成していった。それが、現在の丸の内・有楽町エリアの始まりだ。城の周りには防御のための内堀と外堀を巡らせる一方で、城のすぐ近くまで船が入れるように掘割を整備し、物流網を整えた。

明暦の大火(1657)後に再建された江戸城天守台。高さ11メートル、東西41メートル、南北45メートルの花こう岩でできている。皇居東御苑で一般公開されている。

そうして整備された江戸の町が大きく発展する原動力となったのは、各藩の藩主を1年おきに江戸に出仕させる「参勤交代」だ。大名たちは家臣を引き連れて領地と江戸とを行き来する一方で、正室と世継ぎを事実上の人質として江戸に常住させなければならなかった。幕府は城の周辺や西側の台地を大名たちに屋敷用地として分け与えた。江戸に大名家や家臣団が住まい、武家人口が増加すると、そこから発生する莫大な需要を満たすために商業が栄える。正確なデータはないが、18世紀に江戸の人口は100万人を突破したと考えられており、世界でも有数な大都市となった。

江戸の中でも、特ににぎわったのは日本橋かいわいだ。「日本橋」が初めて架設されたのは、家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開いたのと同じ1603年。その翌年には、日本橋は主要幹線道路である五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)の起点と定められた。街道を通って領地と江戸とを行き来する大名たちはもちろんのこと、全国からの旅人が絶えず日本橋を往来したという。

江戸の街を何度も襲った大火

急激な人口の増加で、町人が住む下町の人口密度は極めて高くなっていった。粗雑な木造の長屋が狭い地域に密集して立ち並び、ちょっとした火の不始末や付け火(放火)によって、数年に一度の割合でいくつもの町を焼き払うような大火が発生していた。「火事と喧嘩は江戸の華」などと言って、江戸の名物の一つに数えられるほどだった。

中でも、特に大きな被害をもたらしたのが、1657年(明暦3年)の冬に発生した明暦の大火だ。延焼被害については諸説あるが、現在の千代田区、中央区、文京区を中心に江戸の市街地の60%を焼失。江戸城も西の丸を除いて焼け落ち、大名屋敷550軒、旗本屋敷770軒、このほか寺社350、橋60に延焼した。

この大火をきっかけに、幕府は江戸城内にあった御三家(尾張、紀伊、水戸の徳川家)の藩邸や大名屋敷を城外に移転させ、跡地には馬場や薬園などを設け、延焼防止帯の役割を与えた。玉突き的に、大規模な屋敷替えが発生し、武家屋敷や寺社の移転先を確保するため、隅田川を越えて本所や深川が開発されたり、被災した町人の集団移住先として多摩地域や三鷹市の開墾が進んだ。大火で何度も焼き尽くされた江戸は、再生のたびに少しずつその範囲を広げていった。入り江に面した小さな村は、家康の江戸入りから100年足らずで「大江戸八百八町」と呼ばれる一大都市に成長したのだ。

外国の技術で西欧化を目指した明治政府

1867年の大政奉還によって徳川幕府は終えんを迎え、政治権力は天皇に戻った。1000年以上に渡って京都にあった都が江戸に移り、この時に江戸から東京(東の京)に呼称を改めた。

明治政府は、近代化を国是として掲げ、先進的な技術や知識を取り入れるために、欧米の技術者や行政官らと契約し、「お雇い外国人」として官庁や大学などに招へいした。1872年には、英国人技師のエドモンド・モレルの指導によって、新橋と横浜の間に日本で初めての鉄道が開通。皇居を囲む東京の中心部では、木造の旧大名屋敷を取り壊し、お雇い外国人建築家によって、れんが造りや石造りの西洋建築が相次いで建てられた。霞ケ関にある中央合同庁舎6号館(法務省旧本館)は、ドイツ人建築家のヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により、米沢藩上杉家の屋敷跡に1895年に建てられたもので、当時の赤れんが造りの建物の代表例だ。

千代田区霞ケ関にある法務省旧本館。1945年の東京大空襲で赤れんがの外壁を残し焼失したが、1994年の改修で創建時の外観を取り戻した。現在も政府関連の機関が入る合同庁舎として利用されている。3階の法務資料展示室は無料で内部を見学できる。

また、明治政府から皇居正面にあった兵営跡地の一括払い下げを受けた三菱合資会社は、ロンドンのシティーのような一流のビジネス街の創出を構想。お雇い外国人としての任期終了後も日本に留まっていた英国出身のジョサイア・コンドルの設計による丸の内初のオフィスビル「三菱一号館」を1894年に竣工。その後、周辺には赤レンガの3階建てのオフィスビルが建設され、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれるようになった。因みに、「三菱一号館」は1968年に取り壊されたが、2009年に可能な限りオリジナルに忠実なレプリカとして再現され、現在では「三菱一号館美術館」として丸の内の街並みを彩っている。

日本初のオフィスビル三菱一号館は2009年に復元され、美術館として活用されている。外観のみならず、内部空間も当時の製造方法や素材にまでこだわって忠実なレプリカとなっている。

文・写真=nippon.com編集部

バナー写真:東京押上にあるスカイツリーから見下ろした東京の街

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