金木絵美:シッティングバレーボールの楽しさを伝えたい
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巨人軍選手も苦戦
日本プロ野球が開幕する直前の3月4日、東京ドームでオープン戦を終えた読売ジャイアンツの選手たちは、その足でドーム内に急きょ作られた仮設コートに向かった。
「そこ、レシーブ」
「打て―っ」
野太い掛け声と楽しそうな笑い声が場内に響く。パラスポーツの認知度向上に寄与するための球団主催のイベント「G hands デー」。一般参加者とともに選手たちが体験していたのは、障害者スポーツのシッティングバレーボールだ。
お尻をコートから離さず上体だけを使ってプレーをしなければならないため、運動能力に長(た)けた野球選手でも思うようにボールが扱えない。彼らを指導していたのは、女子シッティングバレーをけん引する金木絵美ら日本代表選手。金木が弾むように言う。
「まさか私たちが、スターぞろいの巨人の選手に教える日が来るとは(笑)。でも、シッティングバレーの愛好者が増えてくれるのは本当にうれしい」
パラ大会の素晴らしさに触れた北京
北京(2008年)、ロンドン(12年)のパラリンピック2大会に出場した金木は、シッティングバレー日本代表の中心選手。同時に、野村証券高槻支店のマーケティング担当、小学校3年生の息子の母として多忙な日々を送る。
シッティングバレーに出会ったのは19歳。地元神戸市の身障者スポーツセンターを訪れ、コーチからバレーを勧められたのがきっかけだった。中学時代にバレーに親しんでいたことが幸いし、すぐに代表入り。だが、アテネ大会(04年)の出場を懸けた最終予選で敗れた。
「それまではリハビリの一環としてスポーツに取り組んでいたのでパラリンピックは頭になかったんですけど、最終予選まで進んで敗れたことで一挙に闘争心に火が付きました。頑張れば手が届くって」
そして出場を果たした4年後の北京大会では、女子代表チームの主将を務めた。だが、1勝もできなかった。
「今考えれば代表合宿もほとんどできず、にわかチームで出場したので当然の結果だったと思います。主将としても未熟でした」
北京の経験が金木を大きく変えた。パラリンピックの雰囲気は、それまでに出場した世界選手権やアジア大会とはまるで違った。きらびやかに彩られた満員のスタジアム。母国チームの応援にあらん限りの声援を送る観衆。会場に渦巻く巨大なエネルギーに飲み込まれそうだったが、日本代表としての責任感とプライドで闘志を奮い立たせた。
「人生に何が良かったかなんて最後まで分かりませんけど、少なくとも身障者でなければパラリンピックは体験できなかった」
「泣き言を言っても、体は治らない」
18歳の時だった。子どもの頃から算数、数学が得意だった金木は銀行で働くのが夢で、高校は商業高校を選んだ。卒業後は地元の銀行に就職が決まり、新入社員として仕事に意欲を燃やしていた。ところが入行してわずか1週間目、左太ももに激痛が走った。病院に行くと「骨肉種」と診断され、すぐに入院させられた。
「その時にとっさに思い浮かんだのが、病気の重さではなく、銀行で働けなくなるという思いでした。医師に真っ先に問い掛けた言葉が、“銀行に行けなくなっちゃうの?” でしたから」
だがやがて事態の深刻さが重くのしかかってくる。骨肉種はがんの一種、がん=死という構図が、金木の頭から離れなくなった。だが、自分の未来が絶たれるかもしれないという恐怖は、献身的な家族の支えによって徐々に消えていく。母は、娘の心の動きを細やかに読み取りながら、つきっきりで看病してくれた。父や二人の兄も時間を見つけては病院に通った。
「そんな家族を見ているうちに、どんなに苦しくても私は絶対に泣かない、と決めたんです。もちろん、髪の毛が抜け、トイレへ行くにも何度も転び、日々襲われる嘔吐(おうと)のつらさに涙目になったこともありますけど、泣き言を言ったところで体は治るわけではないし、家族につらい思いをさせるだけですから」
1年後にようやく退院し、市役所で障害者手帳を渡された時に初めて、自らの障害を実感した。左脚の切断は免れたが、骨にプレートが埋め込まれ、膝を曲げることができなくなっていた。
シッティングバレーの楽しさに目覚める
退院後に始めたシッティングバレーは、思ったよりも難しかった。一般のバレーボールよりコートが狭く、ネットが低く設置されており、レシーブする短い時間を除いて、臀部(でんぶ)をコートから浮かしてはならない。金木は中学時代にバレーの経験がある分、ジャンプする癖が体に染み込み、慣れないうちは何度も反則を取られた。だが、付き添ってくれた母にこう言われた。
「こんなに楽しそうな姿は初めて」
以来、週末はシッティングバレーの練習に費やす。
がんが再発するかもしれないと一抹の不安は常にあったが、「5年生存説」をクリアした23歳で結婚、夫の赴任先の高槻市に移り、野村証券高槻支店に職を得た。
以来、仕事、家事、育児、そしてシッティングバレーの練習と忙しい中で、健常者への普及活動にも精を出す。
厳しい練習環境で成果を出せるか
東京パラリンピックまで2年余り。1チーム6人で行うシッティングバレーは、通常のバレーと同様に25ポイントを先取して3セット獲得した方が勝つ。座ったままで行い、ネットの高さとコート幅が違うことを除けば、ルールは通常のバレーとほとんど変わらない。大会では大いに活躍してシッティングバレーの魅力をアピールしたいと金木は言うが、現実はなかなか厳しい。
シッティングバレーは個人競技と違い、選手がそろわなければ、効果的なチーム練習ができない。現在女子の日本代表候補は15人近くいるが、住む場所も全国に散らばっている。だが、国際基準の競技用床材コートマット(タラフレックス)が敷かれた体育館があるのは、今のところ姫路市だけ。毎月土曜、日曜に合同練習が行われるが、常に全員が集まれるわけではなく、チームの意思疎通がなかなかできないのが現状だ。
「それぞれの仕事、家庭環境などによる制約もありますから、全国から姫路に集まるのがなかなか大変なんです」
しかも選手によっては、東京五輪・パラリンピック開催が決まっても、海外遠征は有休を取って試合に出場している。だが、かつてと違って費用の自己負担はない。
「数年前まではみんな、海外遠征費用を稼ぐために仕事をしていたようなものです。でも、好きなことができるだけで幸せでした」
現在、野村証券がスポンサーになり、ようやく日本でも少しずつ練習環境が整ってきている。とはいえ、国の支援が手厚い中国などの強豪は、長期合宿をこなしパラリンピックに臨む。練習不足の日本代表は、リオ大会に出場できなかった。海外勢は背が高く手も長い。東京でのメダル獲得のハードルは高そうだが、それでも日本選手は、勝負の瀬戸際で底力を見せるはずと金木は言う。
「誰もが母国開催のパラリンピックで活躍したいと願う。その6人の執念がコートでがっしりとかみ合った時、思いがけない力を発揮するかもしれません」
金木はセッターでチームの司令塔だ。これまで何があっても笑顔で自らの人生の舵を取ってきたように、コート内の見事なトス裁きで他の選手の能力を引きだし、メダルをぐっと手繰り寄せるに違いない。
(本文・敬称略)
(4月2日 記/バナー写真: 2017年「アジア・オセアニア シッティングバレーボール選手権大会」でイランと対戦)
インタビュー写真撮影:大久保 惠造