広瀬悠・順子:夫婦で目指す東京大会パラ柔道「一本勝ち」
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夫婦で勝ち取ったリオ大会銅メダル
目の前の男女の掛け合いに、ついこちらも頰が緩む。偉丈夫な男性はサービス精神旺盛に言葉を次々に重ね、傍らの笑顔が愛らしい女性は、時折男性にちくりと言葉を投げて軌道修正はするものの、おっとりと構えている。
「質問されているのはおまえやで」「でもやはり、あなたが喋(しゃべ)って」。その夫婦漫才のような絶妙な間合いから感じ取れるのは、2人を結ぶ強い信頼感だ。
今回インタビューしたのは、2016年リオデジャネイロ・パラリンピックの柔道(視覚障害)に共に出場した広瀬悠(はるか/男子90キロ級)・順子(女子57キロ級)夫妻だ。順子は銅メダルを獲得、視覚障害者柔道日本女子で初の表彰台だった。夫の支えがあったからこそだと彼女は言う。「悠さんに取らせてもらったようなものです」
悠がすかさず言葉をつなぐ。「全くその通り!」
順子はリオでメダルが取れるとは思っていなかったと言う。出場資格は世界ランク8位までに与えられるが、順子は当時7位。1回戦は勝利したものの、準決勝でブラジル選手と対戦し、地元選手を応援する会場の熱気に飲み込まれた。黒星を喫した妻の表情を、観客席にいた夫は見逃さなかった。
「会場の大型スクリーンに映される順子を、わずかな光を頼って凝視すると、顔面蒼白(そうはく)になっていることが分かった。それで、3位決定戦が始まる前に彼女の近くまで行き、『組手がおろそかになっている』と声を掛けたんです」
順子は悠の声でわれに返った。一瞬にして、一緒に柔道に取り組んできた濃密な日々がよみがえった。苦しくとも楽しい日々―順子の体にふつふつとエネルギーが湧き上がる。3位決定戦の相手はこれまで一度も勝ったことのないスペイン人選手。だが、得意の一本背負いから、夫に徹底的に教え込まれた寝技に持ち込んでの一本勝ち。まさに、妻と夫の得意技を融合させた勝利だった。
「天才は、努力家に勝てない」
リオ大会で悠自身は9位に終わった。だが、妻がメダルを取ったのは想定内と胸を張る。「2人一緒の出場が決まった時、夫婦で出るからにはどちらか一人でもメダルを取らなければと思い、僕の練習時間を妻に注ぎました。僕より、妻の方がメダルに近いと考えていましたから」
しかし夫婦といえども、アスリートである以上、妻の成績より自分の結果にこだわりを持つはずだ。悠が苦笑いする。
「僕はあまり自分に興味がないというか…。というより、僕らが追及する “楽しい柔道” を世間に広めるには、どちらかがメダルを取らなければと考え、可能性の高い方の妻に賭けました」
そしてもう一つ、悠にはない強さを順子は持っている。ブラジリアン柔術、総合格闘技の選手でもある悠は、器用な天才肌。一方の順子は、大量の汗を流しコツコツと技を積み上げる努力家。「天才は、努力家に勝てないのが世の常」と悠が言う。
「しかも順子は、どんなに勝っても 『もっと教えて、もっと教えて』としつこい。4月にトルコで開催されたワールドカップで優勝した直後も、そう言ってきた。世界一の人に教えることはないよと言っても 『もっと』 って。僕が世界一になったとしたら、その直後は絶対練習する気にはなりませんね」
順子=大学1年で視力障害に
山口県山口市で生まれた順子は少女マンガ『あわせて一本!』に影響され、小学校5年生の時に柔道を始める。遅いスタートだったが根っからの努力家肌で練習に打ち込み、高校時代にはインターハイに出場。だが、大学1年で膠原(こうげん)病の一種、成人スティル病を患い視界が徐々に狭まった。
「医者からは膠原病が治れば目も治ると言われていたのですが、結局、視力は戻らなかった。でも、事故などで一挙に失ったわけではなかったので、そんなに落ち込むことはありませんでした」
ただ、行動範囲は極端に狭くなった。
2012年のある日、知人に頼まれて同年のロンドン大会で金メダルを獲得したゴールボール(視覚障害者の球技)チームの手伝いに行き、選手たちのはつらつとした動きに心を揺さぶられた。「私もスポーツがしたい!」そう思った途端、畳の匂いや汗が染み込んだ柔道着の感触がよみがえり、再び柔道に取り組もうと視覚障害者柔道に転向を決める。
「あの頃、このままでは自分の人生が先細りになってしまうという恐怖があった。でも、ゴールボールを見てから後ろ向きの自分に決別し、柔道で新たな自分の人生を切り開いてみようと考えました」
大学卒業後は、東京の大手損保会社に勤務しながら、練習に精を出した。
悠=一度は柔道を辞めたつもりだった
愛媛県松山市に生まれた悠は小学2年から柔道を始め、高校時代にインターハイに出場。だが、緑内障を患い視力が極端に低下する。
「高校時代までは厳しい柔道しかしてこなかった。だから、緑内障になった時、目が見えなくなる恐怖より、柔道を辞められる喜びの方が大きかった」
鍼灸(しんきゅう)師になろうと県立松山盲学校に通っていた時、担任教師から「君なら柔道でパラリンピックに出られる」と勧められ、それまで考えたこともなかった視覚障害柔道での大会出場を目指し、再び畳の上に立った。
視覚障害者の柔道は、障害の程度ではなく、体重によって男子7階級、女子6階級に分かれている。選手が互いに組み合った状態から試合を開始し、いかに相手を崩すかが勝負の分かれ目となる。
悠は、かつての理不尽なスパルタ式の練習ではなく、「楽しみながら技を磨く」アプローチを追求した。そして2008年北京パラリンピックでは100キロ級で5位に入賞する。
妻に「必ず金メダルを取らせる」覚悟
2人が出会ったのは2013年の夏、共に日本代表として臨んだ米国大会だった。順子が悠に「一目ぼれ」したそうだ。「10日間一緒だったんですけど、1日目はみんなの中心的存在だった悠さんを避けていました。でも、仲間たちを和ませる明るさや気遣いに、すぐに魅了されてしまいました」
お互い後天的に視覚障害者になったため、分かり合える部分が多かった。
愛媛と東京の遠距離恋愛が始まった。「1年に数回しか会えないのに、順子はデートをしても押し黙ったまま。ほとんど口を開かなかった」。悠が笑いながら当時を振り返ると、「だって、素を出して嫌われたくなかったから」と順子がはにかんだように言う。
2年後の夏、「遠距離は厳しい」と悠が別れ話を切り出した。順子の頭にも一瞬、リオを目指すには柔道に専念した方がいいかもしれないとの思いがよぎった。だがそれ以上に、悠を失うことは自分の人生を失うも同じと強く感じ、とっさに口走った。「それなら私と結婚してください!」遠距離恋愛が難しいなら、いっそのこと結婚してしまえばいいと思い切ったのだ。
順子のその後の行動は早かった。東京の会社を辞め、すぐに荷物をまとめて松山に向かったのだ。悠が言う。「デートで一言もしゃべらない人からプロポーズされるとは。ただ現実論として、障害者同士が生活を共にできるのかと思案しましたけど、悩んだのは1日だけ。すぐ順子となら何とかなると思い直しました」
2人は結婚後まもなく伊藤忠丸紅鉄鋼に所属し、松山市を本拠地に活動している。家事一般は自分がこなすことが多いと言う悠は、東京大会で「順子に必ず金メダルを取らせる」と断言した。「“夫婦で金” と言いたいところですが、僕はどうかな…。でも、夫婦での出場は必ず果たします。2人だから頑張れる」
強い絆で結ばれた2人が、再び夫婦でパラリンピック出場を目指しベストを尽くす―そして妻のメダル獲得のために夫は妻を全面的に支える。広瀬夫妻の挑戦は、ハンディキャップを持つ世界中のカップルにとって大きな励みになるのではないだろうか。
(本文中敬称略)
インタビュー撮影:川本 聖哉
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