日本の「トインビー・モーメント」【谷口 智彦・元外務副報道官】

「挑戦と、それへの応戦」。英国の歴史家トインビーがかつて日本人に認めた属性が、震災によって呼び覚まされたと、谷口氏は指摘する。

「挑戦と、それへの応戦」。英国の歴史家トインビーがかつて日本人に認めた属性が、震災によって呼び覚まされたと、谷口氏は指摘する。

国民心理上まれな現象はまだ続いている。挑戦にひるまず立ち向かおうとする敢闘精神が、広範に共有されている。テレビでマイクを向けられたとき、10代、20代の男女が意見を述べるその口ぶりが、ひとつ明瞭な証拠だ。

どこか他人に判断を預け自分の意見を婉曲にしたり、不決断からくる照れを隠すため文末の語尾を消え入るように発音したりといったよく彼らの見せた特徴は、このところの実例からは観察できなくなった。高校生や中学生たちが、腹から出る声で、何事か使命に奉じていきたいといった強い表白をする。

受けた挑戦に対する果敢な応戦

電気、ガス、水道、鉄道それから荷物の集配といった死活的インフラに関わる事業は、震災後2カ月を待たずほとんど旧に復した。驚くべき速度を支えたものは、上からの指示でない、下からの自発的な対応だったことが明らかになっている(例えば『WEDGE』誌2011年6月号特集参照)。

同じ電気業者だから、鉄道事業者だから、あるいはガスを扱う仲間だからといって全国から集まった集団が見せた、命令によらない、内発的動機に基づく奮闘のゆえだった。

倒れた電柱を立て直し、がれき撤去に働いた現地の人々の多くは、自身が住み処を失い、肉親を失った人すら少なくなかった。このような人々が、己れを顧みず、公(おおやけ)に奉じようと働いたためでもあった。いずれも真に驚くべき現象である。

訪れているのは、久方ぶりの「トインビー・モーメント」だ。

日本人はかつて1960年代、英国人歴史家アーノルド・トインビーの単純だが力強い定式を好んだ。当時毎年のようにトインビーの著作が日本語に翻訳され、続々刊行されたのは、「ある挑戦を受け、これに果敢に応戦し得る文明は、必ず成長する」――そう説くトインビーの歴史観が、当時の日本人にとってあたかも応援歌のごとく聞こえたからだった。

「挑戦と、それへの応戦」。トインビーがかつて日本人に認めた属性を、震災は長い眠りから呼び覚ましたのである。

政治指導者は日本を自己規定せよ

だとするならば、政治指導者は日本をどんな国にしたいか進んで語るべきだろう。普段なら政治家たちが何を言おうが我関せずの人々も、今なら聞いてみる気になっている。もしそれが納得できるものならば、被災地救援で見せたと同じ、内発的動機に基づく、下からの動きが盛り上がる。少なくともそれを期待できる素地がある。

日本は――と自己規定する言葉を、彼らは今こそ言うべきであろう。

世界に開かれた国であり続ける。国際公共財をよく保全する国となる。伝統社会との調和を図りつつ、自由と民主主義の価値を奉じようとする国々とともに行く。

そのため米国、カナダ、豪州やニュージーランド、インドネシアやインドといった海の安全に責任を持つ民主主義の国々と、日本は今まで以上の深い絆を結んでいかねばならない。

――こういう国柄の自己規定と国として目指すべき将来の使命とは、日常の延長線上に今日が昨日と同じ、明日も今日と同じと前提せざるを得ない退屈な空気の中では、なかなか口にしにくい。今、大きな非連続が、「トインビー・モーメント」が日本社会と日本史に現れたときだからこそ、言うにふさわしい。

今だからこそ伝えられるメッセージ

国外の聴衆にとっても事情は同じだろう。日本が難局にあるのは理解できるにせよ、自分にかまけるだけの国になってしまうか、それとも意欲と意思を強く語る国になってよみがえるのか、同じメッセージを発するにしても、今ならばこそ関心を呼ぶことができるはずだ。

「だからTPPが必要なのだ」と言えばよい。内にこもろうとする力を跳ね除けて、新たな挑戦に立ち向かう意欲を伝える何よりの言葉となる。

「日本の危機に汗のみならず涙を流してくれた米軍の役割を、わたしたちは高く評価する。この地域と世界の安定・安全に日本として十全な貢献をなすため、障害となる規制は取り払う」とも言えないだろうか。集団的自衛権は生得権としてこれを保有するが、行使はしないなどといった国際常識からかけ離れた国内でしか通用しない強弁を、この際正しておきたい。

それを政治指導者は、避難所に暮らす人々、被災地復興のため働く人々にめがけて言うのである。「トインビー・モーメント」を最も鋭く知覚している人々を、まず動かそうとするのだ。

あまり時間はない。緊張はやがて弛緩に変わる。そのときではもう遅い。

(5月27日 記す)

(後注)
「汗のみならず涙を流してくれた」とは、われわれ有志が先頃ワシントンタイムズに掲載した全面広告に、敢えて加えた言葉だった。日本政府は米軍を名指して感謝することになぜだか及び腰だったので、言わねばなるまいと思った。以下は広告コピーの全文。

Thank you, America, for the prayers you are praying, for the songs you are singing, all the paper cranes you are folding, and above all else, the sweat and tears your service men and women are shedding to help Japan survive the disaster… you are our true friend.

(米国の人々よ、ありがとう。我々は感謝する。あなた方が捧げてくれた祈り、歌、折り鶴に。そして、何にもまして、日本が大災害を乗り切るのを支援するために米軍の人々が流してくれている汗と涙に。あなた方は我々の真の友人である。)

谷口 智彦

谷口 智彦
Taniguchi Tomohiko

1957年香川県生まれ。81年、東大法卒。『日経ビジネス』記者、編集委員を経て外務省に入省。外務副報道官、広報文化交流部参事官を務める。米プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール国際研究センター・フルブライト客員研究員、ロンドン外国プレス協会会長、上海国際問題研究所客座研究員などを歴任。現在、慶應義塾大学特別招聘教授。著書に『通貨燃ゆ 円、元、ドル、ユーロの同時代史』(日本経済新聞社)など