第一次世界大戦の教訓と21世紀の国際関係

サーラ・スヴェン【Profile】

[2014.11.11] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | العربية | Русский |

第一次世界大戦と現在の東アジア情勢の類似性

最近、 第一次世界大戦と日本をめぐる議論が学界でもメディアでも活発に行われている。特に注目を集めているのは、戦争が勃発した理由と背景、そして現在の東アジア国際関係との類似性である。しかし、当時の日本の政治家、軍人、論客が第一次世界大戦全体からどのような教訓を得たか、戦争をどのように評価したか、また戦争の結果からどのような日本の将来像を描いたかについては、あまり議論がなされていない。ついては、ここで若干の論説を紹介したい。

国際関係、あるいは世界における日本の立ち位置という観点において、第一次世界大戦後の日本は重要な岐路に立っていた。同盟国の英国と継続的に協力関係を保つべきか、それとも別の方針を探るべきか、という2つの議論がここでの大きな構図であった。不思議なことに、一部の論客は反英米的な議論を展開するとともに、むしろ敵国だったドイツを美化し、ドイツを「成功モデル」として捉えていた。

ドイツを美化したジャーナリスト、軍人平和主義者

例えば、ジャーナリストの筑紫次郎はドイツの敗戦を相対化し、その総動員体制を模範として捉え、ドイツによる国民動員体制を基盤とする「善(よ)き軍国主義」を提唱した(『亜細亜持論』、1920年10月)。一般的にドイツの軍国主義は戦争勃発の最大の原因とされ、戦中から戦後にかけて世界的に厳しい評価を受けていた。しかし、筑紫はドイツで当時流行していた「匕首伝説(あいくちでんせつ)」(※1)を信じ、ドイツは軍事的には敗北していないのに、一部の政治家と革命的分子によって降伏に追い込まれた、と主張して「ドイツモデル」を擁護した。

同様に、後の陸軍および外務大臣の宇垣一成(1868年~1956年)も日記に「ドイツは戦争で負けておらぬ」と記し、ドイツモデルの有効性を訴えた。さらに、当時稀有な存在であった“軍人平和主義者”の水野広徳(1875年~1945年)さえ、第一次世界大戦直後、ドイツ式軍国主義を雑誌『中央公論』で擁護した。

「独逸の降伏以来、独逸必敗の預言者続々として自ら名乗りを揚げて(いる)。これと同時に排軍国主義の声滔々として天下を風扇し、当年の軍国主義者関として声を潜む。(中略)独逸の敗北に鑑みて、僕は益々軍国主義の必要を認むるものである。(中略)我が国の如きも将来国家として強からんことを欲せば、独逸の長所を学ぶの雅量を有せなくてはならぬ。」(『中央公論』1919年8月1日)

軍国主義を排した大正デモクラシー

しかし、日本は明治時代から模範にしていたドイツと距離をおいて、戦争の教訓として軍国主義を捨てなければならない、とする論客も少なくなかった。いわゆる大正デモクラシーの立役者である吉野作造(1878年~1933年)は、日本は英米仏という戦勝国の同盟国であるので、思想動向に関しても、この民主主義諸国の仲間入りをしないと国際的な孤立に追い込まれる、と警告した。また、宗教学者・哲学者の姉崎正治(1873年~1949年)は戦前から「日本のドイツ模倣熱」を批判し(『中央公論』、1902年4月1日)、戦中・戦後にはドイツの軍国主義を「害毒」として激しく批判した(『世界文明の新紀元』、1919年)。

さらに、言語学者の本間久雄(1886年~1981年)は「軍国主義を批評す」という論文で、当時の日本における軍国主義と愛国主義の緊密な関係を批判し、教育における偏狭な愛国主義の利用の不適切さを指摘した。

「我が国定教科書に現はれた愛国心—少くもミリタリズムに裏づけられた愛国心は不幸にして、この場合であると私は信せざるを得ないのである。といふのはそのミリタリズムが(中略)封建的な(中略)ものであるからである。今日の愛国心、自分の国さえよければ他の国はどうなっても構はないといふ自我的なセルフィッシュな、偏狭な国家主義に基礎を置く封建的愛国心では断じてあり得ない。」(『中央公論』1922年7月1日)

第一次世界大戦後、封建的・侵略的なドイツ式軍国主義・愛国主義から離脱し、吉野作造等を始めとする「大正デモクラシー」を推し進める声が優位になり、1920年代の日本は平和的国家となった。しかし、デモクラシーと平和主義は一方通行ではない。

その後、日本社会では再び軍国主義がもてはやされ、日本政府は戦争への道を選んだ。ドイツや他の欧州諸国と同様、第一次世界大戦の教訓が十分に考慮されなかったのではないか。第一次世界大戦を考える際、その開戦のみならず、戦後期にどのような教訓が得られたかについても、現代人として考える必要があるのではないか。

(2014年8月22日 記、原文日本語)

タイトル写真=1919年7月19日に行われた第一次世界大戦戦勝記念パレード(写真提供=TopFoto/アフロ)

(※1)^ 「背後からの一突き」という意。第一次世界後期ドイツの参謀本部総長を務めたパウル・フォン・ヒンデンブルク(1847年~1934年)が、1919年に敗戦の原因を探る国民議会で発した言葉。

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  • [2014.11.11]

上智大学准教授、フリードリヒ・エーベルト財団東京事務所日本代表。1968年ドイツ生まれ。マインツ大学、ケルン大学、ボン大学で歴史学、政治学を学ぶ。4年間の金沢大学での留学を経て、1999年ボン大学文学部日本研究科博士号取得。ドイツ日本研究所人文科学研究部部長、東京大学大学院総合文化研究科准教授などを歴任。共編著に『明治初期の日本―ドイツ外交官アイゼンデッヒャー公使の写真帖より』(OAGドイツ東洋文化研究協会・Iudicium/2007年/和独文)『Pan-Asianism: A Documentary History(史料で読むアジア主義)』(Rowman & Littlefield/2011年/英文/2 vols.)など。

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