2015年—忘れ去られた日露間の歴史的節目

ワシーリー・モロジャコフ【Profile】

[2015.12.28] 他の言語で読む : Русский |

2015年、過ぎ去った「節目の年」

2015年の初め、私は、「今年は露日関係史の多くの節目を迎える年(「露日関係史の節目を振り返る」)だ」とコラムで書いた。

歴史上の主要な節目を挙げながら、私は、これらが注目されないまま過ぎてしまわないことを願った。コラムの中で「是非、皆さん、これらの日を友好や相互理解の精神で、または、互いを理解していこうという気持ちとともに祝っていきませんか。」と呼びかけもした。しかし…… 思い起こされたのは、日本で、条約調印の日である2月7日が「北方領土の日」とされている1855年の日露和親条約(下田条約とも呼ばれている)だけであった。

去りゆく年は、歴史的な節目を食ってしまうような、喫緊の出来事に溢れた年であった。ウクライナ、シリア、ヨーロッパへの移民の大量流入、米国の大統領選に向けてのキャンペーンなどである。ニュースの主な部分を占めるのがこのような事柄であり、20世紀や19世紀に何かしらの条約が締結されてから〇〇周年といったことでないのは、至極、当然なことである。しかし、私は歴史家として、また、日本に住むロシアの市民の一人として、そのことを非常に残念に感じている。

それほど悪い節目ではなかったが……

ありとあらゆる条約は、交渉によって2つの国が合意に至ったという事実が結実したものである。もちろん、条約の中には不平等条約もある(日本には、そのような条約を甘んじて受け入れなければならなかった過去もある)。また、戦勝国が自らの意思を他国に押し付けるような条約もある。その代表が、「ヴェルサイユ“講和”条約」であるが、この条約の調印は、第一次世界大戦を終結させただけではなく、第二次世界大戦勃発への出発点となった。

露日間の条約の中には、このようなものは存在していない。個々の条約が、両国のうちのどちらかにとって、不満が残るものであったり、完全に満足できないようなものではあったとしても。ドイツの宰相ビスマルクの言うように「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術」なのである。それでも、困難な状況において、両国間で話をつけることができ、お互いに受け入れ可能な決定にまで辿り着くことができたという厳然たる事実の方が、両国が100年、いや150年前に協議した問題の具体的な中身よりも、ずっと重要なのかもしれない。だからこそ、ロシアと日本の間で結ばれた諸々の条約にまつわる歴史的な節目が、誰からもまったく注意が払われないまま過ぎていってしまったことが残念なのである。

会話はなく、悪口を言って終始

2015年、ロシアと日本の公式・非公式の面々が、お互いの国に対して、非常に多くの不快な発言をした。それらの面々に言わせれば、彼らの発言はもっともなものらしいが。「国際政治」は、2国間関係だけが影響を及ぼすのではないので、ここでは触れずにおこう。私自身、私に向けられた不快な言葉や、私のいる前でなされた発言などについて文句を言うことはできないが。しかし、テレビや新聞、ネットからはロシアに対する多くの不快な発言が聞こえてくるのである。

日本では、反露発言は、ロシアにおける反日発言と比べると、より抵抗が少なく「受け入れ易い」ものであるとされている。腹立たしいことのようでもあるが、言論の自由の下では何もすることもできない、反露発言をする人は自らの言論の自由という権利を行使しているのであるから。ロシアでは、公的に反日発言をするのは、元々、あまり評判の良くない人か、あまり尊敬されていない人に限定されている。もし、いつか、ロシアで尊敬されている人達が、反日のような発言をし始めるようになったら、真剣に心配しなければならない。そのようなことは、決して起こらないだろうと願っている。

ロシア人と日本人は頻繁に話し合いをしなければならないのではないか。何について話をするかというのは、この際、重要ではない。自分の意見を固持するだけでなく、相手の言っていることにも耳を傾け、会話の結果を、お互いに同意できるようにするのである。交渉とは、そもそも合意に至るためにあるものであり、交渉そのもののためにあるのではない。少なくとも優秀な外交官はそれを理解している。彼らは、交渉をして、いつまで経っても合意に至ることができなければ、自らが職を失ってしまうことになると肝に銘じているのである。一体、誰が自ら好んで失業者になるというのだろうか?

2016年は「日露同盟」から100周年

2015年の露日関係史の節目の多くが見過ごされてしまったことによって、それらが今日、もたらすことの出来たであろう多くの可能性も同時に失われてしまった。誰かがどこかで誰かと会って何かについて話をしたが、具体的な結果は見えないのである。「頻繁に会わなければならない «Надо чаще встречаться»」- あるロシア映画の有名なセリフである。より頻繁に話し合い、人々から一目置かれている人の言葉に耳を傾けなくてはならない。暇人の言うことには注意を払わずに、である。ロシアだけではなく、日本でも、質の高い歴史の知識を求める心が失われつつあるようだ。

来年、1916年は、第4次日露協約100周年を迎える。この協約は、ロシアと日本の緊密な2国間関係についての条約であるが、このような条約で2国間の関係が定められたことは他にはなかった。もちろん、露日同盟関係については言うまでもない。平和条約の締結の可能性も、過ぎ去ろうとしている2015年もそうであったように、ほとんど幻のようだと言っても過言ではない。それでも、ロシアと日本の2国間関係には、「黄金時代」について想いを馳せるきっかけならばあるのである。

バナー画像:ディアナ号沈没(Illustrated London News, 1856 (wikimedia.org))

この記事につけられたタグ:
  • [2015.12.28]

拓殖大学日本文化研究所教授。1968年モスクワ生まれ。1993年モスクワ国立大学卒業、1996年同大学博士課程修了。歴史学博士(Ph.D., モスクワ国立大学、1996年)、国際社会科学博士(Ph.D.,東京大学2002年)、政治学上級博士(LL.D., モスクワ国立大学、2004年)。2000~2001年、東京大学社会科学研究所客員研究員。2003年、拓殖大学日本文化研究所主任研究員。2012年より現職。ロシア語で著書30冊以上、そのうち日本に関するもの15冊。日本語での著書に『後藤新平と日露関係史』(藤原書店、2009年)、『ジャポニズムのロシア』(藤原書店、2011年)。

関連記事
その他のコラム

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • シンポジウム報告