なでしこジャパンが強くなるまで

田中 昌宏【Profile】

[2011.10.03] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

2011年FIFA女子W杯で初優勝した「なでしこジャパン」。恵まれているとはいえない環境の中で、彼女たちの“強さ”はどのように培われたのか。スポーツ報知サッカー担当の田中昌宏記者が解説する。

ドイツ女子W杯の結果

〈1次リーグ〉
日本 2―1 ニュージーランド
日本 4―0 メキシコ
日本 0―2 イングランド

〈準々決勝〉
日本 1―0 ドイツ(延長)

〈準決勝〉
日本 3―1 スウェーデン

〈決勝〉
日本 2―2 米国(延長)
3PK1

MF澤穂希。彼女こそ、サッカー女子日本代表―なでしこジャパンのみならず、日本における女子サッカーのムーブメントを中興した人物だと筆者は考えている。6月26日に開幕したFIFA(国際サッカー連盟)女子ワールドカップ(ドイツW杯)で、主将として初優勝に導いた。もともと大会前からFIFA世界ランキング4位と、強豪国の位置づけではあったが、日本サッカー初の世界一という快挙に、国民は大いに沸き返った。

大会前、ドイツへの出発時。中部空港に集まった報道陣は10人。ファンは皆無だった。それが帰国時の成田空港には400人のファンと260人の報道陣でごった返した。FW安藤梢は「99年W杯の時には1人も迎えに来てくれる人がいなかった」としみじみ振り返った。イレブンには国民栄誉賞が授与された。フィーバーが続き、オフのCM撮影やテレビ出演のみならず、練習日にも取材の依頼が相次いだが、澤はこう繰り返した。「今まで女子サッカーには光が当たらない時期があった。少しでも興味を持ってもらいたい」——失われた時を取り戻そうとするかのように、疲労もいとわず広告塔に徹した。

7月19日、W杯優勝後に帰国。成田空港で多くのファンの歓迎を受けたなでしこジャパン。

澤穂希とともに進化した“なでしこジャパン”

ゼロから世界一へ、日本女子サッカーは45年の道のりを駆け抜けていった。1966年、神戸市の小学校に誕生したスポーツ少年団が全国初の女子チームとされる。70年代に実業団チームやクラブチームの創立が相次いだことで、“女子版天皇杯”として1979年度に全日本女子選手権が開催された。当初は8人制、25分ハーフ、グラウンド面積は男子の約3分の2で、胸トラップは禁止されていた。

80年代に男子と同一条件での試合形式となると、全国リーグ(日本女子サッカーリーグ→L・リーグ→なでしこリーグ)も誕生。91年には、初のW杯(当時の名称は世界選手権)が中国で開催された。五輪では96年アトランタ大会から種目入り。日本は2大女子サッカー世界大会のそれぞれ第1回大会に出場し、95年スウェーデンW杯では決勝トーナメントに進出(準々決勝敗退)した。


ドリブルする澤穂希(ロンドン五輪アジア最終予選 対北朝鮮戦で)。

順調な歩みを見せていたはずが、96年五輪、99年米国W杯と、出場はするものの、いずれも1次リーグ敗退。ついには五輪予選を兼ねた99年W杯の結果、翌2000年シドニー五輪切符を逃す屈辱にまみれた。するとリーグの観客動員も激減し、前後して日本経済の悪化から、鈴与清水FC、日興證券といったL・リーグの強豪チームも相次いで撤退。日本の女子サッカー熱は急激に衰え、苦難の時代を迎える。

澤もこの苦難の時代を経験している。99年6月に、所属のNTV(現日テレ)ベレーザからプロ契約を打ち切られた。プロ選手としての活路を米国に見いだした澤は、同国のプロリーグへの移籍を決意。帝京大を中退して海を渡った。しかし、03年、当時の所属チームが加盟していたプロリーグが休止したため帰国を余儀なくされた。

深刻な状況に陥っていた日本女子サッカーを救ったのが、澤という選手だった。

「苦しいときは私の背中を見なさい」


澤が精神的支柱となり、チームが成長(ロンドン五輪アジア最終予選 対韓国戦で)。

03年W杯予選を兼ねた同年のアジア選手権で、出場国枠「2.5」のところ、日本は4位に終わり、本来なら初めてW杯出場を逃すところだった。だが、準優勝の中国がW杯開催国として「自動出場権」を得ていたため、順位が繰り上がりアジア3位として、北中米カリブ海地区3位のメキシコと、ホーム&アウェーのプレーオフに回ることになった。(03年W杯は、当初中国での開催予定だったが、SARSの流行により、米国での開催に変更。しかし、開催国としての出場権は維持された)

敵地で引き分けた後、国立競技場での第2戦。ヘッドで決勝ゴールを放ったのがエース澤。崖っぷちでの4大会連続W杯出場を決めた。

当時のDF大部由美主将は、「アジアの強豪の北朝鮮や中国は高い身体能力に加えて、生活や国のためというハングリーさがある。自分たちは何のためにサッカーをするのかと迷った中で、澤が米国で活躍し、みんなの目標になってくれた」と後輩をたたえた。

さらに、04年のアテネ五輪では全試合フル出場を果たし、五輪で初めて決勝トーナメント進出(準々決勝敗退)へと導いた。そして08年北京五輪では、MF宮間あや、FW大野忍らの台頭もあり、準々決勝でホームの中国を破り、メダルへあと一歩の4位と躍進。大会中に若手に対して言った「苦しい時には私の背中を見なさい」という言葉は、今でも語り草になっている。10年のアジア大会で初優勝。日本はアジア最強国に名乗りを挙げ、さらに上を目指すことになった。

なでしこジャパン・主な国際大会での成績

大会名 成績
1991 第1回世界女子選手権(中国) 1次リーグ敗退
1995 第2回世界女子選手権(スウェーデン) 準々決勝敗退
1996 アトランタ五輪 1次リーグ敗退
1999 第3回世界女子選手権(米国) 1次リーグ敗退
2000 シドニー五輪 予選敗退で不出場
2003 第4回FIFA女子W杯(米国) 1次リーグ敗退
2004 アテネ五輪 準々決勝敗退
2007 第5回FIFA女子W杯(中国) 1次リーグ敗退
2008 北京五輪 4位
2011 第6回FIFA女子W杯(ドイツ) 優勝

アジア最強国から世界一へ

日本サッカー協会は10年、米国やドイツなど列強との差を埋めるために、「海外強化指定選手」制度を導入した。海外への道をいち早く切り開いた澤の経験を参考に、他の選手もレベルの高い欧米に移籍しやすくするため、海外でプレーする選手に1日1万円の「日当」を支給するものだった。

制度の提案者の1人、同協会の野田朱美理事=日テレ監督=は、他の理事から「なでしこリーグの空洞化を招く」と反発を受けながらも、「1年でも経験すれば、必ず何かが身につく。痛い思いもするが、少しでも外国人を怖くないと思えるようになれる」と粘り強く訴え続けた。デュイスブルク(ドイツ)の安藤、ポツダム(同)のFW永里優季、モンペリエ(フランス)のMF宇津木瑠美も、この制度の恩恵を受けて腕を磨いた。ボストン(米国)からモンペリエに移ったDF鮫島彩、フランクフルト(ドイツ)の熊谷紗希も、今年から挑戦を始めた。

11年のW杯準々決勝で、延長戦の末、1―0で地元ドイツを破ったことは記憶に新しい。シュート数で9対23と圧倒されながらも、ドイツの猛攻を防ぎきったのは、澤をはじめ海外経験者が、屈強な外国人にもまれながら技術や体力を向上させてきたたまものだ。

8、9月に中国で行われたロンドン五輪アジア最終予選。W杯後のフィーバーで、各選手は練習時間が妨げられるほど多忙を極め、代表の佐々木則夫監督が「もう少し走る強化をしなければいけなかったが、それをやると故障者が出るかもしれなかった」とつぶやくこともあった。それでも世界一の自信は揺らぐことなく、1位通過で本大会出場を決めた。

ただし慢心はない。澤は「個々の能力を上げないとメダルを取れない。(予選メンバーに)基本の技術やチームコンセプトを理解していない選手が多い」と若手にカツを入れた。来夏の五輪でも、W杯で初めて日本に土をつけられたドイツや米国が、金メダルを狙うなでしこにとって最もやっかいな相手になるに違いない。そして澤は気になる言葉を続けた。「全体を底上げして、誰が出ても変わらないようなチームにしないと」。33歳は、ロンドンをサッカー人生の集大成とするのだろうか。

2011年9月、ロンドン五輪アジア最終予選を1位通過。12年の本選での活躍を誓う。

(2011年9月22日 記)

写真提供=報知新聞社

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  • [2011.10.03]

スポーツ報知・運動部。1974年兵庫生まれ。関学大商卒。97年報知新聞大阪本社に入社。整理記者を経て、取材記者としてボクシング、アマチュア野球、カレッジスポーツなどの担当を歴任。現在はサッカー担当記者として主にJ1・ヴィッセル神戸、なでしこリーグ・INAC神戸レオネッサを担当。編集局運動部所属。

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