富士山の文化史

高階 秀爾【Profile】

[2012.01.02] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية | Русский |

富士山は、遠く古代の昔から日本人にとって賛嘆と敬意の対象であり、数多くの絵画や文学などの中に描かれてきた。なぜこのように富士山は日本人の心と深く結びついてきたのか。美術史家の高階秀爾・東京大学名誉教授が探る。

日本美術の熱心な愛好家であったフランスのエドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt)は1892年2月17日の『日記』のなかで、友人たちといっしょに「フジヤマ」を描いた北斎の版画作品(複数)を鑑賞したと記し、次のような感想を述べている。「わが国の現代の風景画家たち、特にモネが、これらのイメージにどれほど多く負っているか、はかりしれない程だ」(“on ne sait pas assez ce que nos paysagistes contemporains ont emprunté a ces images, surtout monet,”)。 実際、印象派の画家たちを熱狂させた日本の浮世絵版画のなかでも、北斎の『富獄三十六景』のシリーズは最もよく知られたものであり、その影響も大きかった。後に、クロード・ドビュッシーが交響詩『海』を作曲した時、楽譜の表紙絵に用いた波の図も、同じシリーズのなかでの「神奈川沖浪裏」から取られたものであった。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』

『富獄三十六景』連作は、時に画面いっぱいに堂々たる山容を描き出し、時に江戸の町並みの彼方に遠望される富士を描くなど、さまざまに工夫をこらした卓抜な構図によって、当初から大きな評判を呼んだ。だが北斎は、それだけでは満足せず、さらに10図を追加して、総計46点の作品にまとめ上げた。それに続けて、新たに100点の富士図を集めた冊子本形式の『富獄百景』全3巻も残している。それ以外にも、富士山の登場して来る北斎作品は少なくない。肉筆画では、重要文化財に指定されている『潮干狩図』に、海辺で潮干狩りに興ずる人々の背景に雪をいただく富士の秀麗な姿が見えるし、90年におよぶ彼の長い生涯の最後の年に描かれた1点は『富士越龍』の絵であった。旺盛な創作意欲に恵まれたこの天才画家は、生涯を通じて富士に憑かれていたと言ってもよい。

葛飾北斎『潮干狩図』(大阪市立美術館蔵)

葛飾北斎『富士越龍』(北斎館蔵)

 

描かれた富士山

だがそれは、ひとり北斎だけにかぎられたことではなかった。おそらく江戸時代の著名な画家で、何らかの意味で富士に因んだ作品を残さなかった者はほとんどいないと言っても過言ではないであろう。屏風絵、襖絵、掛け軸、画巻から、信仰の対象である参詣曼陀羅や登山のための案内図、さらには衣裳の模様や日常の什器、調度などの工芸品の装飾も含めて、無数の富士の図が描かれた。

このような傾向は、広く一般の庶民のあいだで愛好された浮世絵の世界において特に顕著である。富士信仰や富士登山の大衆化にともなって増大してきた需要に応えるために、多くの浮世絵師たちが直接富士を主題とした刊本や版画の制作に励んだ。北斎と並ぶ風景画の巨匠広重もその1人である。彼は北斎に対抗するという意気込みで、冊子本形式の『富士百図』の刊行を企てている。この計画は、20図を収めた初編1巻を上梓しただけで終わってしまったが、同じく北斎に倣った『富士三十六景』は、2種類のシリーズを残している。また、広重の代表作として名高い『東海道五十三次』シリーズや最晩年の傑作『名所江戸百景』シリーズにも、しばしば富士の姿が登場することは、広く知られている通りである。これらの浮世絵は、単に鑑賞のためばかりでなく、江戸見物や旅の思い出、あるいは土産物として大量に出版されたが、その事実は、富士山が人々にとってきわめて親しい存在であったことを雄弁に物語っている。

安藤広重『東海道五拾三次之内 由井 薩 嶺』

もちろん、日本列島のほぼ中央にあって、どの山よりもひときわ高く、荘厳なまでの美しさを見せる富士山は、遠く古代の昔から日本人にとって賛嘆と敬意の対象であった。すでに『万葉集』のなかに、「天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺……」と歌い始めた山部赤人の有名な長歌をはじめ、富士を讃える歌がいくつも収められているし、その後も、和歌や物語のなかで富士はしばしば言及されている。絵画の領域では、現存する最も古い作例は、11世紀中頃に描かれた『聖徳太子絵伝』で、これは、太子が甲斐の国(現在の山梨県)から献上された黒い馬に乗って富士山の頂上まで駆け登ったという伝説を絵画にしたものである。このエピソードは、太子信仰の拡がりとともに広く語り伝えられ、その後繰り返し描かれた多くの太子の絵伝のなかに必ず登場してきて、富士の姿を人々に印象づけるのに貢献した。また鎌倉時代には、念仏宗を拡めるために諸国を巡り歩いた一遍上人の事蹟を描いた『遊行上人縁起絵』などが、富士の姿を伝えている。そのほかにも、単独で富士山を描き出した作品は少なくない。

秦致貞『綾本著色聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)

しかし、江戸時代になってから、富士山と日本人の関係は大きく変化した。北斎や広重の例に見られるように、富士山は一般庶民のあいだで、きわめて身近な、親しみ易い存在となったからである。そのことは、江戸の町が徳川幕府の所在地として、急速に発展したことと当然無縁ではない。

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  • [2012.01.02]

美術史家。大原美術館館長、東京大学名誉教授。1932年、東京生まれ。東京大学修士課程(美術史専攻)修了。東京大学文学部教授、国立西洋美術館館長などを経て、2002年から大原美術館館長。著書に『ルネッサンスの光と闇』(三彩社/1971年、中公文庫/1987年、芸術選奨文部大臣賞受賞)、『日本美術を見る眼―東と西の出会い』(岩波書店/1991年、岩波現代文庫/2009年[増補版])など。

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