福島原発事故を通じてリスクと安全を考える

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福島原発事故から2年半近くが経過したが、日本では原発再稼働リスクをめぐる議論が続く。「リスク」とは何か。リスク管理の専門家ウディ・エプシュタイン氏は、今年3月、原子力政策シンポジウムでリスクの正しい理解について講演した。以下はその要旨。

リスクと社会について話したい。私の話が、一般市民、そして政策立案者と誠実な関係を築くための土台になればと願う。

福島第一原子力発電所での事故があったがゆえに私たちはここに集まり、原子力エネルギーについて話している。2011年3月11日の事故によって、安全で容認できる形での原子力利用は可能かどうかに世界の関心が集まった。

私は原発に賛成でも反対でもない。正直であることに賛成し、不正直に反対する。私はこの30年、数学者としてリスクを分析する技術と付き合ってきた。リスク分析専門家の目標はふたつ。政策決定者に対し、理にかなった論拠を提出し、社会に対しては明快で実際的な説明をすることだ。

リスクとは何か

リスク(つまりは安全性)とは以下の3問に対する答えだ。

(1)   どのような失敗が起こりうるか。
(2)   その確率はどの程度か。
(3)   その失敗によってもたらされる結果は何か。

原子力発電にはこれまで、そしてこれからも常にリスクが伴う。100パーセント安全というものはない。福島の事故を検証した国会事故調査委員会の黒川清委員長の言う通り「事故は起こり、機械は壊れ、人間は間違える」。

多くの規制当局者は、原発の炉心損傷事故の確率は1万年に1回を超えない、大量の放射能放出事故の確率は10万年に1回を超えない、という安全目標を長年支持してきた。

2011年3月10日時点で世界には438基の商用原子炉が存在した。各原子炉が70パーセントの稼働率で、上記の安全目標に基づき安全を確保していた場合、世界のどこかで炉心損傷事故が起きる確率は100年に3回前後となる。つまり、あなたが生きている間に2回から3回の炉心損傷事故が起こると予想できる。

炉心損傷事故は放射能の放出を意味するわけではく、福島やチェルノブイリのような事故のことではない。大量の放射能放出に同じ論法を当てはめると、330年におよそ1回、福島のような事故が起きると予想できる。

ここで皆さんに問いたい。世界のどこかで大量の放射能放出が起きる確率が330年におよそ1回だとしたら、原子力発電を容認しますか。この確率は原発の数が増えればさらに上がり、私たちが地球村の住民であることも忘れずに。中国で事故が起これば、沖縄の人々の生活に影響を及ぼす。

私はここで事故の確率についてのみ論じているのであって、この種の事故が原因の死や病気については触れていない。また、皆さんが交通事故に遭うリスクや、過剰な飲酒、脂肪過多の食事、喫煙がもたらすリスクのほうが、はるかに高い。

感情が判断に及ぼす影響

原子力発電の利点は環境に対する二酸化炭素の負担軽減、石油への依存削減、貿易収支の改善、化石燃料による大気汚染の減少――などがある。しかし、原子力について考える際、こうした利点は私たちの考えにほとんど影響を及ばさない。問題は、われわれがリスクをどう捉えているかだ。

私たちが原子力発電を放棄しても、社会に対するテクノロジーの影響は消えない。日本の海岸にはガスや石油、液化天然ガス(LNG)のタンクが並ぶ。私たちは巨大地震や津波、台風が化学・石油・ガス産業にもたらす被害の可能性を調査してきたが正直な話、福島の事故に匹敵するような環境、社会、経済上の被害をもたらす事故のシナリオ(可能性)は存在する。

政策立案当者たちは、リスクがどう認識されるかを考える際に経済学から発想を得る傾向がある。この際にカギとなるのが、個人と社会は合理的に行動するという前提だ。この前提によれば、より多くの、より良い情報を提供すれば、誰もがリスクについてより論理的・合理的でより多くの情報に基づく決定を下す。

しかし、人々は理性的に行動しない。理性は決定の一部でしかない。感情も同様に重要となる。意思決定における感情の必要性を考えない人は、人間のありようという視点を忘れている。

市民と対話する努力

科学技術者は、どうすれば一般社会や政府とより効果的に連携できるのか。私たち科学技術者はより良き聞き手となることが必要だ。すべての当事者にとって、それぞれ重要な問題は何かを理解する必要がある。また、より上手に明快な説明ができるようになる必要がある。

問題の一端は、科学技術に携わる者たちが市民との交流を避ける傾向が強くなったことにある。100年前、最新の科学的理論と発見について、大手の新聞は教育を受けた人なら理解できる記事を掲載した。社会との対話が存在し、科学は人気のある議論のテーマだった。

だが現在、科学の世界にいる私たちは社会と断絶し、傲慢(ごうまん)になり、一般人と会話する術を失ってしまった。

福島での事故の直後、私は茨城県東海村のタウン・ミーティングに出席した。ミーティングを主導していた「先生」のひとりに、心配そうなお母さんが、子どもに有害となる放射能の線量について尋ねた。この博識な先生の答えは、インターネットで調べてください――だった。

理解してもらう技術

科学技術者が積み上げた証拠が理解・応用される仕組みを、われわれはどのように理解したらよいのか。

最初のステップは、聞く姿勢を身につけることにある。聞く姿勢は相手とのつながりを生む。

第2のステップは、誰もが厳しい質問をし合うこと。質問は知識への道を開く。冒頭のリスクの定義も、3つの問いに対する答えである。科学技術者らは自分たちが支える政策決定者に質問するよう促すべきなのだ。さらに社会に害を及ぼすかもしれない技術がかかわる場合は一般市民に同様に働きかけねばならない。

第3のステップは、科学は決して正確でなく不変でもない、との認識だ。科学は時間とともに、そしてときには予期しない発見によって変化する。私たち(科学技術者)は皆さんが不確実性を理解し、さらには「予期していない出来事」に備え、事故の際には――もしも事故が起きたら、ではない――柔軟に対応できる弾力的な組織を作る手助けをせねばならない。

安全とは各個人の認識

福島の事故後、私は多くの日本の友人から尋ねられた――「いつになれば十分に安全と言えるのか」と。私はこう答えた。「あなたが十分安全と思えば十分安全なのです。あなたはどのように暮らしたいのか。あなたが実現したい暮らしのために、どのようなリスクを受け入れられるのか」。

(全てを解決する)魔法のような答えはない。あるのは困難な選択でしかなく、客観的な基準が存在する場合もあれば、どう感じるかで選択を迫られる場合もある。大切なのは、私たち全員が自分の決断に責任を持つこと。これは――福島第一原発で起こったように――決断が誤った結果をもたらした場合に重要となる。間違えた際は、たとえ間違えを最後に知ったとしても、最初に誤りを認めることだ。

リスクは各自の認識であり、感覚でもある。私たち科学技術者は、自分たちが知っていること、知らないことを正直に語り、一般市民と政策決定者に正直でなければいけない。われわれは手を携え、対話を続け、正しい行動を追求し続ける必要がある。

(2013年3月25日の広島におけるシンポジウム「アジアの低炭素社会と原子力政策」でのスピーチから抜粋。全文(英語)はエプシュタイン氏のサイトに掲載。)

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