日本外交戦略にとってのモンゴルを再評価する

岡 洋樹【Profile】

[2014.05.27] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | العربية | Русский |

「モンゴル3横綱時代」で、一段と親しみを増したモンゴル国。最近では北朝鮮による日本人拉致問題で北朝鮮との仲裁役を務め、外交舞台でも注目されている。歴史的視点から日蒙関係を再考する。

大国のパワーポリティクスのはざまで

日本人にとって、モンゴルの出現はなにかしらいつも唐突である。13世紀の元寇もそうだったが、モンゴル出身力士が出現した時や、北朝鮮による日本人拉致問題をめぐりモンゴルが日朝の仲裁役を務めたことが報道された時も、唐突な感じを受けた日本人は多かったと思われる。だからこそ、日本外交におけるモンゴルの価値を「改めて評価」しようとする向きがあるのだろう。しかしこの問題を理解するためには、実は「日本にとってのモンゴルの価値」よりも、「モンゴルにとっての日本の価値」を考える方が近道なのである。

どのような国にとっても、国家の安全保障は死活的な問題である。それはモンゴル国にとっても同様である。しかし、問題はロシアと中国という二大国に挟まれたわずか人口270万人の小国モンゴルが、自国の安全保障をいかに確保するかなのだ。この1世紀のモンゴルの歴史が示しているのは、大国のパワーポリティクスを利用することがその唯一の方策であったことだ。かつてモンゴルとその周辺をめぐる中露とのパワーポリティクスに加わっていた日本は、第2次世界大戦、冷戦を経た今日、モンゴルにとってどんな価値を持っているのだろうか。

紆余曲折を経て誕生したモンゴル人民共和国

1911年の辛亥革命を機にチベット仏教の活仏(かつぶつ)ボグド・ゲゲーン率いるモンゴルが清朝からの独立を宣言した時、彼らが利用したのはロシアの植民地主義的野心だった。帝政ロシアは1912年の露蒙条約で、ボグド・ゲゲーン政府への支援を約束するとともに、モンゴルでの利権を確保した。

1917年のロシア革命後、モンゴルは失地回復を狙う中国軍や、ソ連と敵対するロシア白軍に占領されるが、1921年ソ連赤軍の支援を得た人民革命党が人民義勇軍を組織して中国軍とロシア白軍を駆逐、7月に活仏を元首とする制限君主制人民政府を樹立した。

1924年、活仏の死去に伴って、第一回国家大フラル(会議)はモンゴル人民共和国と国名を改めた。第二次世界大戦終結後の1946年には、中国国民党政府の独立承認を得た。1949年の中華人民共和国建国後、1950年代に入ると中ソが蜜月時代を迎え、中国との関係も一時改善されたが、中ソ対立の始まりとともに再び関係は悪化した。モンゴル人民共和国は、ソ連の衛星国ではあったものの、独立国家として1961年には国連への加盟も果たした。

内外モンゴルの統合は果たせず

しかし大国を利用した独立への試みは、大きな代償も伴った。日露協約(1907年から17年までの4回にわたる、日本とロシアとの間の東アジアをめぐる勢力範囲分割の条約)で、日本の内モンゴルにおける利権を認める代わりに外モンゴル(ゴビ砂漠北方の旧称)を自己の勢力圏とする保証を得ていたロシアは、外モンゴルにおける経済的利権を確保する一方で、日本や中国との関係悪化を恐れて内外モンゴルの統合を認めず、外モンゴルにおける中国の宗主権をモンゴルに認めさせ、独立を否定した。ソ連もこの方針を引き継ぎつつ、革命の輸出ともいえる人民革命党の独裁下のモンゴルで膨大な粛清犠牲者を出した。犠牲者の多くは、日本のスパイとして裁かれた。

一方、中国に取り残された内モンゴルのモンゴル人も、外モンゴルの同胞と同じように、日本の野心を利用しようとした。例えば内モンゴル東部の出身者で、ボグド・ハーン政府の軍事指揮官となったバボージャブは、1915年ロシア、中国、モンゴルの間のキャフタ条約で内外モンゴルの統合が否定されると、日本と結んで独立運動を続けた。第二次満蒙独立運動と呼ばれているのがこれである。

日本の野心を利用した独立・自治運動の大きな代償

1925年、国共合作の下、コミンテルン、モンゴル人民共和国の援助で展開した内モンゴル革命の実態は社会革命というよりは民族運動だったが、その指導者たちの一部は、1931年の満洲事変の際に関東軍に協力して蜂起し、中国軍と戦った。これも日本の力を利用して独立ないし自治の獲得を企てたものである。日本の傀儡(かいらい)とされる徳王(デムチグトンロブ)も、同じように自治運動に日本の力を利用した人物である。内モンゴルが払った代償も、外モンゴル同様大きかった。

満洲国には内モンゴル東部のモンゴル人の「自治」省として興安省が置かれ、西部でデムチクトンロブが蒙古連合自治政府を樹立したものの、真の独立はもちろんのこと、自治さえも満足なものとは言えなかったし、全ては日本の敗戦で破たんした。第二次世界大戦終結直後、内モンゴルの指導者は外モンゴルとの統合を試みるが、これもあえなく挫折し、新中国の下で民族自治区を獲得したものの、やがてその指導者達は迫害の憂き目をみた。

大国を利用した独立・自治の試みの代償は大きかったが、少なくとも今、モンゴル国(1990年に社会主義から複数政党制・大統領制に移行、人民共和国から「モンゴル国」へ改称)という独立国家が存在していることは事実であり、モンゴル人にとってその成果は否定すべくもない。現在のモンゴルの歴史記述は、1911年以来の先人の努力を、この一点で評価している。膨大な数の国民を粛清の犠牲とした30~40年代の指導者チョイバルサン元帥の石像は、独立を達成した功労者として、民主化後早々に引き倒されたスターリン像を尻目に、いまだにモンゴル国立大学の前に立っている。

モンゴル略史

1911年 辛亥革命,中国(清朝)より分離,自治政府を樹立
1919年 自治を撤廃し中国軍閥の支配下に入る
1921年7月 活仏を元首とする君主制人民政府成立、独立を宣言(人民革命)
1924年11月 活仏の死去に伴い人民共和国を宣言
1961年 国連加盟
1972年2月 日本とモンゴル外交関係樹立
1990年3月 複数政党制を導入,社会主義を事実上放棄
1992年2月 モンゴル国憲法施行(国名を「モンゴル国」に変更)

(出典:外務省)

日蒙関係に新地平を切り開くとき

ロシアと中国という二つの大国に挟まれた小国モンゴルの地政学的な位置は、今も変わらない。だから彼らは、両国と良好な関係を保つ一方で、全方位外交を堅持しながら、安全保障を全うするための第三のパートナーを捜し求める。その最大の候補が、米国や日本なのである。モンゴル科学アカデミーのある長老研究者は、「モンゴルは軍事的安全保障は米国に、経済的な安全保障は日本に求めたい」と筆者に語っていた。

しかし米国も日本も、モンゴルに領土的な野心をもつ時代ではない。だから何らかの形での協力と引き替えに、その関心をつなぎ止めておこうとするわけである。筆者はモンゴルの研究者達からよくこんな話を聞かされた。我々モンゴル人はロシア人とは長いつきあいで、彼らのことをよく知っている。だからもし日本がロシアと話がしたいのなら、我々は役に立てるだろうと。ロシアを北朝鮮に置き換えれば、なぜ拉致問題でモンゴルが顔を出そうとするのか、理解できるだろう。

民族の独立や自治を求めるモンゴルが日本に見いだす価値と、日本にとってのモンゴルの価値は、常にすれ違ってきたように思われる。かつての日本は、モンゴルの独立をロシア・ソ連の謀略としか見なかったし、モンゴルが独立するだけの能力を持っているとも考えなかった。だから日本にとってモンゴルは、なによりも自国の利害の問題だったのである。

北朝鮮問題や天然資源の調達先といった自国の事情を越えた価値を、日本がモンゴルに見いだすことができるかどうかが問われている。日本伝統の相撲力士達が、日本の民族衣装に身を包み、英雄として凱旋(がいせん)するような国は、めったにはないのだから。

(2014年5月13日 記)

タイトル写真=2013年の日・モンゴル首脳会談で横綱白鵬関からの色紙をモンゴルのエルベグドルジ大統領(右)に手渡す安倍晋三首相(代表撮影:2013年3月30日、ウランバートル / 時事)

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  • [2014.05.27]

東北大学東北アジア研究センター教授。専攻はモンゴル史。1959年生まれ。1991年3月早稲田大学大学院文学研究科単位取得退学。2005年3月、博士(文学)取得。 早稲田大学助手、日本学術振興会特別研究員(PD)、東北大学東北アジア研究センター助教授などを経て1996年より現職。主な著書は『清代モンゴル盟旗制度の研究 』(東方書店, 2007)など。

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