ふるさとの宝は失われていない—陸前高田市立博物館・文化財レスキューがつなぐ街の「心」

熊谷 賢【Profile】

[2015.03.11] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

4年前の東日本大震災・津波で、人口約2万3000人の10パーセント近くを失った岩手県陸前高田市。街の記憶・歴史をつなぐ文化財レスキューの取り組みとその意義を、市の学芸員唯一の生存者が語る。

2011年3月11日—鮮明な記憶

あの日、私は、「陸前高田市海と貝のミュージアム」で貝類標本管理のためのデータベースにデータ入力をしていた。午後2時46分、今まで経験したことのない大きな揺れを感じた。その揺れは6分以上も継続し、揺れが収まった後、館内の様子を見回り、その被害の大きさを目の当たりにした。

幸いにもその時間入館者はいなかったが、展示標本はケース内でバラバラに散乱し、海の生き物たちの入った大型の水槽は倒れ、床は水浸しになっていた。当日勤務していた職員に、市役所に避難するように指示を出した後、再度、館内の見回りをしてから施錠して市役所に向かった。

市役所では駐車場と、道路を挟んだ公園に職員、避難された市民のみなさんが集まっていた。大きな余震が何回かあった後、「津波が堤防を越えましたので高いところに避難してください」という最後の放送があり、私はその放送を聞いてすぐに、市役所の屋上に避難した。この時、一緒に避難した職員は多くの犠牲者を出した市民会館に入ってしまった。

津波は、家屋を破壊し、瓦礫(がれき)を押し出すように市役所を襲ってきた。海水は全く見えず、瓦礫のみが押し寄せ、その後、大量の海水が流れ込み、みるみるうちにその水位は上昇していった。市役所向かいの3階建ての市民会館は完全に水没し、私たちが避難した市役所屋上にまで海水が入り込んできた。波高は15メートルを超えていたと思う。倒壊する家屋の下敷きになる方、逃げ遅れてそのまま波に呑まれてしまう方、引き波で流されてきた屋根に乗ったまま流されていく子供、何もできずにただただ目の前の悲惨な出来事を見ているだけであった。

文化財はヘドロにまみれ、学芸員は自分一人に

被災した市役所で眠れぬ一夜を過ごし、家族の安否も確認できないまま翌日から災害対応をすることとなった。自宅は流失したが、幸いにも3日目に家族全員(両親、妻、当時小学生だった息子)との再会を果たすことができた。私の家族は、妻の職場で高台にある特別養護老人ホームに避難していた。私自身は家族と離れ、米崎地区本部(米崎地区コミュニティセンター)で3月下旬まで災害対応にあたった。町内に設置された避難所への救援物資の受け入れ、仕分け、配分を中心に自衛隊との調整、避難者の要望把握など、物資の入った段ボール箱の隣で寝起きをしながらの対応だった。

上段:陸前高田市立博物館(左)、海と貝のミュージアム全景(右);下段:被災した博物館(左)とその館内(右)

この間はまさに混乱の真っただ中にあり、心身ともに疲労困憊(こんぱい)の状態であった。日々の災害対応に追われながらも、博物館等の文化財関連施設の被害状況が気になり、発災から3日目に陸前高田市立博物館、海と貝のミュージアム、市立図書館、埋蔵文化財保管庫の4施設の現状把握を行った。

4施設はすべて完全に水没し、館内の資料は真っ黒いヘドロ混じりの海水に浸かり、一部の資料は流失し、残った資料もすべてにヘドロや土砂が付着し、破損した資料も少なくなかった。適正な温湿度の管理下で保管されていた資料は、急激な変化に脆弱であり、一刻も早く応急的な処理を行わなければ、さらなる劣化につながることは容易に推測できたが、人命優先、脆弱な職員体制下ではなすすべもなかった。

博物館資料を気にしながらも災害対応にあたる日々が続いた。やがて、混乱した日々が続く中で、職員の安否が分かりはじめ、博物館職員や市職員に大きな人的被害があったことが明らかとなり、学芸員は自分一人だけになってしまったことを知ることになる。

文化財レスキューの開始

博物館職員6名全員が犠牲となったことを受け、自分が中心となり文化財レスキューをしなければならないと強く感じ、かつて博物館勤務の経験のある方などに声をかけて、4月1日から、被災した文化財等関連施設からの被災資料のレスキュー活動を始めた。

土砂と瓦礫が詰まった館内での作業は困難を極め、度重なる余震に注意しながらのレスキュー活動は思うようには進まなかった。作業は瓦礫の撤去、瓦礫の下に1メートル以上も堆積した土砂の中からの資料の救出は専門的な知識を必要とするため、岩手県教育委員会、岩手県立博物館を中心とする県内関係機関に応援を要請し、徐々に体制を構築していった。4月下旬からは自衛隊の応援もあり館内の瓦礫撤去は加速していった。

救出した資料は、すぐに安全な場所に移送しなければならないが、当時は軽トラック1台だけでの移送であり、道路状況も悪く、保管場所までの片道17キロの道を2時間かけて往復した。

4月1日から開始した一次レスキュー(被災現場から資料を安全な場所に移送すること)は、体長9.7メートルのツチクジラの剥製などの一部の大型資料を除き、6月17日までには、山間に位置する閉校となった小学校への移送がほぼ完了した。

ツチクジラの剥製の移送。地元の高校生から「つっちぃ」の愛称で親しまれていた剥製は、クジラの剥製としては国内最大。

被災前、市立博物館には約23万点、姉妹館の海と貝のミュージアムには約11万点の資料が収蔵されていて、市立図書館、埋蔵文化財保管庫に保管されていた資料を含めると約56万点の文化財等の資料が被災した。何とかその約8割を回収することができた。

その中には、国登録有形民俗文化財である「陸前高田の漁撈(ぎょろう)用具」もある。多くの資料が市民のみなさんからの寄贈であり、陸前高田の歴史、文化を伝える重要な文化財だ。4つの文化財関連施設から救出した資料は約46万点におよび、その素材も多種多様であり、その処理には専門的な指導が不可欠であった。

試行錯誤の安定化処理

被災した資料は、そのまま放置するとカビが発生し、腐朽が進むため安定化処理(資料を長期に渡り安定的に保管できる状態にすること)を行う必要がある。安定化処理は除泥→除菌→脱塩→乾燥→経過観察という手順で行われるが、国際的に見ても津波によってこれだけ多くの文化財が被災した例はなく、その方法は未確立な部分が多い。そのため、文化庁が設置した東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会に要請し、専門的な指導を受けることとなった。

陸前高田市立博物館では、東京国立博物館、岩手県立博物館の保存修復の専門家の指導を得ながら作業を進めることにしたが、当初は足の踏み場もないほどの被災資料と、梅雨時の高湿度の中で発生するカビへの対応に追われるばかりであった。被災した資料の安定化処理は、生物学的劣化要因(カビ)、化学的劣化要因(塩分)、物理学的劣化要因(海水に浸かった資料の急激な乾燥による割れや変形、津波による破損)の除去を必要とする。

被災した文化財の「安定化処理」は、閉校した小学校を利用した仮収蔵施設(現在は仮設博物館)で継続中だ。写真は紙製資料の除菌作業(上段左)と洗浄作業(上段右)および考古資料洗浄作業(下段)の様子。

今回のような海水による損傷を「海水損」と呼ぶが、前記のとおり処理方法が未確立な部分が多いため、さまざまな方法を指導機関に検討していただき、安全性が確認された方法を現地で行うようにして作業を進めた。しかしながら、水洗することで溶出してしまうインクなどを使用している書簡類や硬化してしまう皮革製品、油彩、水彩等々、処理方法が未確立な資料はまだ膨大に残されている。

文化財は「陸前高田」のアイデンティティー

陸前高田市立博物館の開館は1959年、公立の登録博物館としては東北で第1号だった。ニューヨーク・メトロポリタン美術館にも展示されている縄文時代の貝塚から出土した漁撈用具など、高い学術的価値を持つ収蔵資料も多い。

震災から約3週間で文化財レスキューを開始した我々に「そんなものより人を探せ」と声を荒げる被災者の方や、「捨ててしまえ」と言う方もあった。しかし、その一方で、「家が流されすべてを失ってしまった。ここに来れば何か高田のものが残っていると思って見に来た」とレスキュー現場に足を運ぶ被災者の方もあった。

被災した方々は、自分の家のあった場所で一生懸命に自分の生きた証を瓦礫の中から探し出していた。自分が自分である証、それは自分の歴史でもある。博物館の資料や文化財は陸前高田が陸前高田である証である。新しい街は時間の経過とともにできてくると思う。しかし、その過程で失うものは数知れない。きれいな街ができたとしても自然、歴史、文化を伝えるものがなければ、モノだけで、心がなくなってしまう。

「世界に誇れるまち」。誇れるものは何か。それは、陸前高田が陸前高田であるというアイデンティティー。市立博物館の資料は99.9パーセントが市民の方々からの寄贈である。資料を博物館に託した方の思いというものが1点1点の資料には込められている。陸前高田の豊かな自然に育まれながら生活し、歴史を積み重ね、文化を作ってきた人々の証を私たちは、100年、200年後にも残していかなければならない。先人たちは、何度も津波の被害に遭いながらも、今まで残してくれた。それをここで失うわけにはいかない。

「博物館資料を持ち去らないで下さい。高田の自然、歴史、文化を復元する大事な宝です  市教委」と書かれた書き置きが見つかった。市教育委員会の職員の多くが犠牲となった中でこのような書き置きを残せる者はいなかった。市教委の名を利用して誰かが残してくれたメッセージであり、その意味は重い。(写真撮影:前川さおり氏)

復興への道は険しくても

私自身は、2011年6月下旬に、家族と共に米崎中学校グラウンドに建てられた仮設住宅に移り、3年を超える月日を過ごした。この間、息子の龍之介は、みんなの健康のためにと、仮設のすべての住人を訪ねてラジオ体操に誘い、一日も休まずに続けた。2014年7月に、ようやく自宅を再建し、仮設での生活にピリオドが打てた。新しいわが家はより内陸側にあり、以前の家のように海は見えない。それが少しさびしい気もする。

だが、まだ多くの方々が仮設住宅で、自分の生活する場所もいまだ見えない状況下に苦しんでおり、解決しなければならない課題は山積している。博物館などの跡地は高台造成のためのかさ上げ予定地となっており、現在は立ち入り禁止だ。市が2018年を目指す博物館の再興も、道は険しい。

しかし、だからこそ今、決して見失ってはいけないことがある。文化財の残らない復興は本当の復興ではない。

(2015年3月2日 記)

バナー写真=「陸前高田市海と貝のミュージアム」被災後全景(バナー写真および本文中掲載写真提供:陸前高田市立博物館)

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  • [2015.03.11]

陸前高田市立博物館副主幹。1966年10月生まれ。専門は動物考古学。1995年から陸前高田市立博物館、陸前高田市海と貝のミュージアムの学芸員を務め、2012年より現職。

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