限界にきた自衛隊PKO派遣

政治・外交

南スーダンの治安が悪化し、民族紛争ぼっ発の恐れもささやかれる中、政府は現地の国連PKOに参加する陸自施設部隊の交代派遣を決断した。日本がカンボジアに初めて部隊を派遣(1992年)してから間もなく四半世紀を迎えるが、筆者は「PKOの性格は以前と様変わりしており、このままの状態での自衛隊の派遣は限界にきている」と指摘する。

政府軍と反政府勢力の間で武力衝突が続いている南スーダン。日本政府は国連南スーダン派遣団(UNMISS)で平和維持活動(PKO)を行う陸上自衛隊施設部隊の交代派遣を決め、11次隊が12月中旬までに現地入りする。稲田朋美防衛相は「現地の状況は落ち着いている」と国会で説明したが、現地の実態は紛争のまっただ中にある。

「住民保護」の立場から、今やPKOの部隊(PKF=国連平和維持軍)は「紛争の当事者になる」ことを前提に活動している。武力行使を禁じた日本国憲法9条とは明らかに矛盾しており、このままの状態での自衛隊PKO派遣は限界にきている。

「先制攻撃ができる」国連部隊:日本の5原則と真逆

日本のPKO参加を可能にした「PKO協力法」(1992年制定)には、PKO参加5原則が明記されている。その内容は①停戦合意が成立している②紛争当事者が日本の参加に合意している③中立的立場を厳守する④基本方針が満たされない場合は撤収できる⑤武器の使用は命の防護のために必要な最小限のものに限られる――というものだ

南スーダンでは7月に首都ジュバでも戦闘があり、PKO要員も含め少なくとも73人が死亡。UNMISSの対処の仕方も問題視され、ケニア人の司令官が更迭された。国連はその後、4000人規模の要因を増派する「地域防護部隊」設置を決定。この部隊には、住民保護のためには「先制攻撃ができる」権限が付与された。

つまり国連部隊が火ぶたを切っての戦闘もあり得る、もはや言い訳ができない「戦時」の状態だ。しかし、いまさら自衛隊が撤退することはできない。そのため、政府は「あそこは戦場じゃない」と言い続けるしかない。

稲田防衛相が10月に南スーダンを視察した際、部隊が大臣に見せることができたのは国連施設内での塹壕(ざんごう)掘りだけだった。実は、国連は「フィールドサービス」というインフラ部門を持っていて、PKOの施設部隊が基地内の施設建設にあたることは本来ない。宿営地の外に出られないので、あれしかすることがない。それほど治安が悪いということだ。

「駆けつけられる警護」のリスク

11次隊には「駆けつけ警護」という新たな任務が付与された。邦人のNPOなり援助団体を守ると日本国内では伝えられているが、実態としてはこういう任務が自衛隊に任せられることはまずない。PKFの司令官、副司令官という高官は、日本の事情をよく分かっている。つまり、自衛隊は日本の国内法では軍事組織ではなく、日本は軍事的過失の責を国家として負える法体系を持っていない非常にやっかいなものであることを。国連は軍事的な過失を最も恐れるし、そもそも司令部が能動的な警備業務を施設部隊にさせることはない。

最も懸念されるのは「駆けつけ警護」ではなく、「駆けつけられる警護」だ。7月のような戦闘が再び起きた場合、また民族紛争など大規模な残虐行為が起きた場合、住民が助けを求めて国連施設内に押し寄せてくる。2014年にもこのような事態は実際にあった。避難してくる住民の中には民兵が混じっている可能性もある。その際に発砲があったら応戦しなければならない。大変な混乱が起こる。

そこで、自衛隊員の発砲が原因で、民間人の犠牲が出てしまったらどうか。現地政府は「南スーダンの国民を殺した」と言ってくるかもしれない。このリスクは現実にある。国連PKOは現在、南スーダン政府から歓迎されている環境には必ずしもない。イラクやアフガニスタンの多国籍軍と同じ状況だ。

国連と現地政府の間で「軍事的過失の有無」を巡る対立になった場合、一般的に国連は、問題を起こした兵員を本国送還させる。国連地位協定で現地法から訴追免除されているが、現地社会の感情はそれで済むわけがない。だから、国連としては「容疑者の母国の厳しい、そして迅速な軍法会議できちんと裁くから」と言い訳をするしかない。しかし日本には、その言い訳ができない。こんな外交リスクのある部隊を、司令部がクリティカルな任務に就かせるわけがない。本来は、PKOに部隊を派遣する基本的な資格すらないと言っていい。

1994年、ルワンダの大虐殺がPKOの転機

日本のPKO5原則が制定された1992年当時、国連はPKO活動での交戦を忌み嫌っていた。つまり、国連と日本の姿勢はほぼ同じ方向を向いていた。しかし94年、国連PKOが派遣されていたルワンダで停戦合意が崩れた時、中立性を重んじるばかりに武力行使せず、結果、100万人もの住民が虐殺されたことを受け、国連は従来のPKOのありようを正反対に変える決断をした。99年にアナン国連事務総長(当時)は告示を出し、部隊が住民保護など任務遂行上、武器使用をする際には「国際人道法を遵守せよ」と指令した。

国際人道法(戦時国際法)は、相対する紛争の当事者同士が戦闘の際に守るべき、いわば“戦争のルール”であり、アナン告示はつまり国連PKOが「紛争の当事者」になるということだ。これは国連関係者にとって、まさに「青天の霹靂(へきれき)」であった。PKOの活動目的の筆頭に「住民の保護」が加えられるようになった。

2000年7月、私は国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)の民政官として、インドネシアと国境を接するコバリマ県の行政を統括していた。この時、私が統括していたPKO部隊が東ティモールの独立に反対する民兵グループと遭遇して銃撃戦となり、兵士2人(ニュージーランド、ネパール隊各1名)が殉職する事件が発生した。

アナン告示の後で、この民兵グループを交戦主体とみなし、「捕獲」を前提としない軍事行動が選択された。部隊は民兵15人を追い詰め、文字通り「殲滅(せんめつ)」した。東ティモールでの自衛隊のPKO派遣(施設部隊)は、現地の治安が回復した2002年2月から行われた。

自衛隊は「お客さん」

PKOがまだ牧歌的だった時代は、自衛隊の部隊は「お客さん」で済んでいた。日本が参加すれば、自動的にODAもついてくる。国連も国連官僚も現地政府にとっても喜ばしいことで、部隊の活動については「おとなしくやってくれ」と、これまではそれで済んでいた。現在は「紛争の当事者」が前提となり、PKFの武器の使用基準(ROE)も先鋭化されている。このROEは全ての部隊に共通のものだが、当然ながらその大半を自衛隊は「できない」と国連に通告する。そこまで無理をして、なぜ自衛隊の部隊派遣にこだわるのか。

南スーダンへの自衛隊施設部隊派遣を決めた2011年当時、UNMISSのマンデート(委任された権限)は「国づくり」にあった。想定される交戦相手も隣国のスーダンだった。大統領派と副大統領候補の対立構造が鮮明化したのはその後の話で、14年には「住民保護」のマンデートに変更された。マンデートが変わっても自衛隊派遣を継続した自民党政権も罪深いが、マンデートの変化で自動的に「紛争の当事者」になることは当然想定しなければならないのだから、当初の派遣を決めた民主党政権も同様の責任がある。

日本が参加した主な国連PKO

自衛隊施設部隊派遣
カンボジア 1992~93年
東ティモール 2002~04年
ハイチ 2010~13年
南スーダン 2012年~
文民警察要員
カンボジア 1992~93年
停戦監視、軍事監視要員
カンボジア、東ティモール、ネパール
司令部要員
モザンビーク、ゴラン高原(イスラエル、シリア)、東ティモール、スーダン、ハイチ、南スーダン

(外務省、防衛省などの資料を基に作成)

部隊派遣以外にも支援の方法ある

PKOが「交戦主体」となった現在、多くの先進国はもはや部隊を派遣しなくなった。旧宗主国で、当事国に道義的な責任を持つ国でも、司令部要員や軍事監視団の派遣、資金供与などで責任を果たしている。以前は好ましくないとされたが、現在は当事国の周辺諸国がPKO部隊派遣の主役だ。アフリカでの問題は「アフリカの中でなんとかする」というのが大義になりつつある。

「派遣実績をつくりたい」とこれまでやってきた日本だが、自衛隊のPKO派遣はもう今後あり得ないだろう。部隊派遣は人数も多いし、国連外交を考えると目立つのは確かだが、それでもやりたければ憲法を変えるしかない。

一方、部隊派遣以外にも日本がやれることはたくさんある。そこで思考を停止してほしくない。国連の加盟国として、PKOにはオールジャパンとして支援する体制を取らなければならない。PKOは4つの部門(軍事=PKF、停戦監視、文民警察、民生)があり、PKFは1部門でしかない。

文民警察は1つのオプションだ。カンボジアPKOで1993年、高田晴行警部補(当時)が武装ゲリラに襲撃され殉職して以来、警察庁は一貫して国連活動に消極的な姿勢を貫いている。しかし、文民警察の場合、法的な住み分けは明確で、自衛隊派遣のような問題はない。武器を使用する場合も「警察権の行使」であり、交戦には当たらない。

バナー写真:南スーダンPKO派遣に向けた宿営地の共同防護訓練で、他国軍の協力に駆けつける陸上自衛隊員=2016年10月24日、岩手県滝沢市(時事)

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