日本の死刑を考える①—不可視の領域

森 達也【Profile】

[2016.12.27] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية | Русский |

日本は先進国の中で数少ない死刑存続国の一つだ。国民の8割が存続を支持する現状に違和感を持ち、取材を重ねてきたドキュメンタリー映画監督が、改めて制度を巡る問題点を提起する。

「命の選別」をするシステム

この7月に相模原の障害者施設で19人の入寮者が殺害された事件は、日本社会に大きな衝撃を与えた。さらに、加害者が事件の少し前に投函(とうかん)した手紙に、「日本国と世界平和の為に」「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えること」などと記していた事実も明らかになり、多くの人が、「これは優生思想だ」「生きる意味がない命などない」「命は選別できない」と憤った。

命は全て尊い。順位など付けられない。選別などできるはずがない。全く同感だ。だがならば、日本社会は今この瞬間にも、命を選別して処理する(ある意味で)優生思想的なシステムから目をそらしていることを、僕は指摘せざるを得ない—死刑制度だ。

死刑は、これ以上は生きる意味や価値がないと裁判所が判断した命を、人為的に抹消(まっしょう)する制度だ。そしてこのシステムを、日本では8割以上の国民が支持している。

ここで重要なのは、死刑制度があることではなく、その事実から多くの人が目をそらしていることだ。もちろん死刑制度があることは知っている。でもそれ以上深くは考えない。死刑囚はどのように処刑されるのか。その時に何を思うのか。処刑されるまでどのような日々を過ごすのか。そもそも死刑にはどのような意味があるのか。日常でそうしたことを考える人はほとんどいない。

死刑宣告を受けたオウム真理教幹部たち

僕もまた一般の日本人と同様に、以前は死刑について、強い関心は持っていなかった。人を殺すなど重大な罪を犯した人は、罰として自分が処刑される。自分も殺したのだから当然だ—意識としてはその程度だ。しかしオウム真理教のドキュメンタリー映画を撮る過程で、死刑を宣告された6人の幹部信者たちに拘置所で面会しながら、僕は混乱していた。なぜなら自分が今、「やがて殺される人と話している」と気が付いたからだ。

もちろん人は誰もが死ぬ。事故で。病気で。老衰で。でも今、透明なアクリル板越しに僕と話している彼らは、事故や病気で「死ぬ」のではない。彼らは「殺される」のだ。それも合法的に。

彼らは悔いていた。自分たちの過ちに。宗教的な熱狂に。涙ぐみながら、遺族の気持ちを考えれば自分たちは殺されて当然だ、と何人かは言った。何度も会った。手紙も交換した。後悔だけではない。冗談にほほ笑む瞬間もあった。事件のディテールの解釈について、「森さんそれは違います」と少し怒るときもあった。そこにいるのは普通の男たちだ。いや見方によっては、普通以上に優しくて純粋で善良な男たちだった。だから混乱した。人は人を殺してはいけない。彼らは法を犯した。だから合法的に彼らを殺す。この論理の意味が分からなくなった。なぜ彼らは殺されるのか。なぜこの社会はそれを当然だと考えるのか。

その後に、死刑をテーマに取材を始め、多くの人に会った。いろいろ考えた。悩んだ。模索した。2年以上に及ぶこの体験と模索を、一冊の本にした(『死刑』/現在は角川文庫)。

結論から書けば、死刑制度を維持することに論理的な整合性はほとんどない。この国の多くの人は死刑制度を支持する理由に犯罪抑止力を挙げるが、もし仮に死刑制度が犯罪抑止に有効であるならば、すでに廃止した世界の3分の2の国で治安が悪化しているはずだ。しかし、そんな統計はほとんどない。社会学的には、「死刑制度は犯罪抑止において有意な機能を果たしていない」は、すでに前提になっている。

死刑廃止を主張する人の多くは、冤罪(えんざい)のリスクに言及する。これに対して存置(そんち)を主張する人たちは、そのリスクは死刑だけに限ったことではないと反論する。刑罰全てに冤罪のリスクはあるのだから、冤罪を理由に死刑を廃止するならば、それは刑罰そのものを否定することになるとの論理だ。

でも、これは間違っている。死刑を除いた全ての刑罰は「自由刑」だ。自由を拘束することで罰を与え、更生をはかる。ところが死刑は「生命刑」だ。命を奪う。人の腕を折ったからといって腕を折り返せとの刑罰(つまりタリオの法則)は、近代史法の精神とは相いれない。しかし死刑制度だけは、同害報復を肯定している。ならば冤罪の意味も、他の刑罰とは全く違う。要するに取り返しがつかないのだ。

被害者遺族の心情を理解したつもりで

死刑を支持する人の多くが依拠する理由は、結局は論理ではない。被害者遺族の心情だ。実際に大きな事件が起きるたび、メディアは被害者遺族の恨みや憎しみを大きく報道する。そうした報道に接しながら、多くの人は自分だって家族を殺されたら同じ心情になる、と考える。だから被害者遺族のために、死刑制度は必要なのだと。そこに論理はない。被害者遺族の応報感情を代弁しているのだ。もちろん、理不尽な暴力に直面した遺族は、可能な限り、救済されるべきだ。社会保障やケアなど、課題はまだ多い。ただし救済と加害者への報復は同じ位相ではない。ここで冷静に論理を優先することが成熟なのだとしたら、この国はまだその段階に至っていないとの見方もできる。

僕のこの主張に対して、「もしも自分の子供が殺されたとしても、あなたは同じことが言えるのか」と反論されることは頻繁にある。僕はそのたびに「その状況を正確に想像することなどできないけれど」と前置きをしてから、「死刑を望むどころか、その犯人を自分の手で殺したいと思うかもしれません」と答える。多くの人はこの答えに戸惑う。ダブルスタンダードじゃないかと怒る人もいる。ならば言い返す。「ダブルスタンダードで当たり前です。だって自分の子供が殺されたその瞬間、僕は当事者になっているのだから」

被害者や遺族の気持ちを想像することは大切だ。でも非当事者である限り、決して当事者の心情と同一化はできないと、限界に気付くことも大切だ。僕が会った被害者遺族の多くは、加害者への強い応報感情を持つと同時に、「なぜあの時外出を止めなかったのか」「なぜ目を離してしまったのか」などと自分を責めていた。仏壇の前で被害者にわび続けていた。地獄の苦しみだと思う。ところが死刑を支持する多くの人は、そんな思いは共有しない。表層的な応報感情だけを共有し、遺族の気持ちを知れと声を荒げる。

実のところ日本の殺人事件の半数以上は、身内による身内への犯行だ。被害者遺族の多くは加害者家族である場合も多い。そういう遺族は大きな声を出しづらい。だからメディアも大きくは取り上げない。こうして半分以上の事例が不可視となる。こうした遺族の存在を誰も想像しなくなる。

そもそも遺族の気持ちを死刑制度存続の重要な理由にするならば、天涯孤独の人が殺された場合、その犯人に対しての刑罰は軽くて良いということになる。決して理屈ではない。現実にその状況が起きている。ならば近代司法の最重要原則である罪刑法定原則が崩壊する。つまり論理が情緒に負ける。その結果として多くの矛盾が生じる。でもこの国の8割以上の人は気付かない。目をそらしている。それが死刑制度を巡る日本の現状だ。

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  • [2016.12.27]

映画監督、作家。明治大学情報コミュニケーション学部特任教授。1956年、広島県呉市生まれ。98年オウム真理教を取材した映画『A』、2001年に続編『A2』を発表。11年に著書『A3』(集英社インターナショナル)で第33回講談社ノンフィクション賞受賞。その他『死刑』(朝日出版社、2008年/角川文庫、2013年)、藤井誠二氏との対談『死刑のある国ニッポン』(河出文庫、2015年)など。

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