シリーズ 東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜
【第5回】オランダ東インド会社からみた近世海域アジアの貿易と日本

太田 淳【Profile】

[2013.05.06] 他の言語で読む : ENGLISH | Русский |

17~18世紀にわたるオランダ東インド会社の活動を通して、中国、インド、日本を含むアジア南東海域での活発な経済的・文化的ダイナミクスを検証する。

はじめに—「荒ぶる海」での貿易ネットワーク構築

本稿で論じる海域アジアとは、日本海、東シナ海、南シナ海、インドネシア―フィリピン海域、ベンガル湾とその周辺地域(日本列島を含む)から構成されるものとする。海域アジアは人口稠密(ちゅうみつ)で経済活動が活発であり、陸で囲まれた海には定期的に季節風が吹いたことから、古くから貿易によって結びつけられていた。17世紀に登場したオランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie、直訳は連合東インド会社)も、その活動を維持するため、やがて海域アジアの大半の地域で取引することが必要となった。

本稿の主な考察対象時期は、オランダ東インド会社(VOC)が設立された1602年からその解散(1799)までとする。一般的なイメージとして、江戸時代の初めの2世紀にほぼ相当するこの時代、海域アジアの中でも東シナ海は幕府による「鎖国」や周辺国の海禁政策によって秩序づけられ、VOCはその「静かな海」で特権的地位を享受したと考えられているかもしれない。

しかし現実には、当時の東シナ海はさまざまな商人集団が競争を繰り広げ、国家も貿易をめぐって争い合う「荒ぶる海」であり、VOCもそうした競争や紛争に巻き込まれる中で東シナ海からベンガル湾に至る貿易ネットワークを構築した。本稿はさまざまな貿易を通して近世海域アジアの経済的・文化的ダイナミクスを検討し、その中にオランダ東インド会社の活動を位置づけることを試みる。

オランダ東インド会社の進出

アジアの高価な物産を直接現地から輸入して巨利を得ようと考えた9名の裕福なアムステルダム商人は、1595年に共同で出資した船隊を初めてアジアに派遣した。この航海が一定の利潤を得られる可能性を示すと、オランダ各地に20近くの貿易会社が設立され、マルク諸島(モルッカ諸島または香料諸島とも呼ばれる)などからナツメグ、メース、クローブといった高級香料などを競って輸入した。過当競争による利益低下を恐れた国の指導者たちは1602年にそれらの会社を統合させ、ここにVOCが設立された。

VOCの目標はまず高級香料を産するマルク諸島であったが、それからすぐに海域アジアの大半に活動を広げた。1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペイン人やイギリス人などのライバルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通じて支配を強めた。VOCは一部地域で香料の強制栽培を開始したが、それだけでは生産が伸びないことを認識し、現地で需要の高い産品の輸入に取り組んだ。

特にインドの染織品にはマルクだけでなくインドネシア諸島各地で強い需要があることを知ったVOCは、インドへの進出を加速した。インドでは先来のポルトガル人から妨害を受けたものの、VOCは各地の領主と交渉し、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フグリなど各地に商館を設置した。特に染織品の重要産地であるコロマンデル地方には多くの商館が置かれ、インドにおけるVOCの染織品取引の中心となった。

VOCは当初からジャワ西部をアジアの活動拠点と考え、最初その中心はジャワ西端のバンテンに置かれた。ジャワ西部の拠点はインド洋を越えた船がマルク諸島に向かうだけでなく、南シナ海を北上し中国へ行くためにも重要な中継基地になると考えられた。明朝中国は外国商人の来港を厳しく制限していたが、ポルトガル人は1557年に地方官憲によってマカオ居住が認められていた。

ポルトガル人がマカオから長崎に中国産生糸をもたらし日本銀を持ち帰る貿易で巨利を得ていたことが、VOCに中国貿易に対し強い関心を持たせた。VOCは1619年にバンテンからその属国であったジャカトラを奪うと同地に拠点を移したが、ジャワ西部からマルク諸島と中国に向かう二つのルートを統括する方針は維持された。ジャカトラはバタヴィアと改名され、VOCの政庁が置かれた。

VOCはさらに中国に拠点を得るために福建当局と交渉を行ったが、ここでもポルトガル人による妨害があって成功せず、このことがVOCに日本へ目を向けさせた。日本からは、既に長崎に来航していたポルトガル人とバランスを取るためにオランダ人の来航が希望されていた。貿易を要請する徳川家康の親書を平戸藩主の松浦鎮信が届けると、VOCはこれを受諾して1609年に平戸に商館を開いた。平戸は中国南岸との貿易の重要拠点であり、長崎のポルトガル人と距離を保ちつつ中国貿易参入が果たせると考えられた。

17世紀の海域アジア

17世紀の海域アジアの貿易は、中国における政治経済の変動を軸に展開した。東シナ海・南シナ海の貿易秩序を支えていた朝貢制度は16世紀には崩れ、アナーキーな状況が生じていた。中国北方でモンゴル系アルタンが領土を脅かすようになると、その防備のための軍糧を補充するのに税銀が用いられるようになり、明朝社会で銀財政への転換が進んだ。そのための銀を入手するルートは二つあった。一つは、マニラを経由するアメリカ大陸の銀である。1580年代にスペインがメキシコのアカプルコからマニラへ銀を運び始めると(ガレオン貿易)、すぐに福建や広東の商人が毎年マニラに来航して大量の銀を持ち帰った。

もう一方は、後期倭寇(わこう)がもたらす日本銀である。このシリーズの第1回で村井章介氏が論じたように、華人を主な主体とする後期倭寇は海賊よりも貿易を活動の中心とし、禁制の日本銀を浙江、福建、広東などに運んだ。こうした貿易を通じ、「倭寇」の一部は中国南岸で強力な商業軍事集団となった。北方でも、前線近くに大量の軍費・軍需物資が届けられたことが、それを着服し独立王国化する勢力を生んだ。こうして明朝が外憂に苦しむ一方で、北方や南方の辺境では、16世紀末までに商業軍事勢力による銀の密輸に伴う貿易が活況を呈した。

VOCも海賊行為に参戦

平戸に進出したVOCも、まさに商業軍事勢力(もしくは海賊)としてこうした状況に参入した。初期の平戸商館はマレー半島のパタニ商館経由で中国の生糸や絹織物を、またアユタヤから染料の原料となる蘇芳(すおう)や鹿皮などを輸入し、主に日本銀を輸出した。しかし1613年からは、スペインやイギリスとの抗争に対処するためVOCはマルク諸島へ食料、武具類、日本人傭兵を送り始めた。さらにVOCの船隊はスペインとの抗争の一環としてマニラやマカオの沖合でスペインおよびポルトガル船の攻撃や中国船の捕獲を行い、1616~21年には平戸商館を捕獲品の搬入や軍需品の補給の拠点として使用した。VOCのこのような海賊行為は、1621年に幕府がスペインやポルトガル人の提訴を受けて禁止させるまで続いた。

しかし平戸は中国から遠く、また公的には明朝が日本との貿易を禁じていたことから、VOCはさらに中国貿易を推進するために、中国南岸かその近くに拠点を得ることを望んだ。1622~24年にかけてマカオや澎湖(ほうこ)諸島において中国人やポルトガル人と抗争を繰り返した後、VOCは福建当局と交渉し台湾南部のタイオワン(現在の台南)に拠点を置く許可を得た。VOCはここにゼーランディア城を築くと、台湾貿易の独占を一方的に宣言した。そしてこれにより失業した台湾の華人商人を組織して、福建・マニラ航路の商船を略奪させた。

鄭成功が台湾からオランダを駆逐

台南市・安平古堡(あんぴんこほう=かつてのゼーランディア城跡地)に立つ鄭成功の銅像。平戸生まれで日本人の母をもつ鄭は、台湾を西洋人から開放した「民族の英雄」として讃えられている

一方、中国南岸を拠点とする商業軍事勢力からは、鄭芝龍(てい・しりゅう/平戸で日本人女性との間に鄭成功を生んだ人物)が頭角を現した。鄭芝龍は自ら海賊を率いただけでなく、VOCが関与する福建沿岸での海賊行為にも深く関わり、それをコントロールできない福建当局も彼に依存するようになった。当局は1628年に鄭芝龍をアモイの提督に任命し、この地位を利用して彼は福建に独占的基盤を築いた。

鄭芝龍はアモイなど福建の港から、VOCはタイオワンから、ともに生糸を中心とする中国産品を日本へ輸出して日本銀を輸入し、競合しながら大きな利益を上げた。日本銀は中国・台湾産品の支払いに用いられた他、日本製の刀や甲冑などの武具と共に、華人商人によって東南アジア各地へ輸出された。

中国東北地方では満洲族を中心とする政権が清の国号を名乗って勢力を拡大していたが、1644年清は山海関を越えて北京に入城し、明朝を継ぐ中国正統王朝となることを宣言した。清は瞬く間に反抗勢力を制圧して旧明領のほとんどを支配したが、中国南東部を拠点とする鄭成功は明への忠誠を宣言し清朝政権に対抗した。清朝政権は、海外貿易に通じた鄭氏政権が日本をはじめとする海外勢力と連携することを危惧した。そこで1661年に遷海令を発して、福建・広東を中心とする沿海の住民を18~30キロ内陸に強制移住させ、沿岸を無人地帯にして鄭氏勢力を孤立させた。

鄭成功は新たな拠点を求めて1661年に台湾に侵攻し、オランダ人を駆逐した。オランダは中国貿易から撤退し、ポルトガル人の貿易も抗争の結果既に縮小していたことから、中国の国際貿易は一時的に激減した。鄭氏政権は台湾を拠点として長崎と東南アジアの間で貿易を続けたが、銀の供給源が絶たれた中国では経済が逼迫(ひっぱく)した。

代替商品の貿易とバタヴィアの興隆

中国貿易の縮小は、各地の貿易と生産に変容をもたらした。日本で高い需要のあった生糸に関しては、中国に代わってトンキンおよびベンガル製の商品が、鄭氏と強いつながりを持つ華人商人とVOCによって長崎(VOCは1641年、幕府の命令によって平戸から商館を移した)にもたらされた。VOCによるトンキン生糸の輸出は1640年代に本格化して50年代には減少するが、世紀後半は華人商人がそれを長崎へ運んだ。VOCによるベンガル生糸の輸入は1680年頃ピークに達したが、それ以降は国内生産を振興する幕府によって輸入量や価格が設定されるようになり、VOCは18世紀半ばにはその貿易から撤退した。

同様に中国の重要輸出品であった磁器も、その代わりとなる日本の有田やベトナム中南部の産品(有田産磁器はかつての積出港の名を取ってイマリと呼ばれた)が、17世紀後半から18世紀初めまで、鄭氏とつながる華人商人によって東南アジア各地に輸出された。イマリが高級品市場を満たしたのに対し、ベトナム陶磁は東南アジアの低価格品需要に応じた。

VOCは中国との直接貿易は断念したが、代わりにバタヴィアを中国との貿易拠点と位置づけた。VOCはバタヴィア制圧後、敵対した現地人をその周辺から追放し、代わりに移民を奨励した。中でも華人移民は、当初は都市建設のため、後には商人および農業労働者として重視された。華人社会は一定の自治が認められ、中国南岸から磁器や生糸を運んでくる華人商人の受け入れや、彼らと取引する市場を主宰した。このようにしてVOCは、中国貿易を華人商人に外部委託するかたちで、自らの貿易網と接続した。

日本銀でコロマンデル更紗を買い付け

日本銀の輸出先は中国が主であったとは言え、広く海域アジアに広がっていた。VOCは17世紀初めから日本銀の一部をトンキンとアユタヤに輸出した。引き換えにVOC船はアユタヤから、鹿皮などを日本や中国向けに持ち帰った。17世紀後半になると、VOCが輸出する日本銀の多くはベンガルやコロマンデルなどインドの染織品産地に向けられるようになった。

そうした染織品の中でも、VOCが重視したのはコロマンデルの更紗であった。コロマンデル更紗は軽く柔らかい綿布に、高度な化学知識を駆使して鮮やかな色の模様を定着させたもので、世界中のどの地域も模倣できないその高い品質と技術から、古くから東南アジア各地で需要があった。VOCはコロマンデルの地方領主や染織技術集団と契約を結び、更紗その他の染織品を、主に日本銀と引き換えに購入した。

日本で管理貿易体制が確立し(いわゆる「鎖国」)、鉱脈がほぼ尽きた銀の輸出が1668年に禁止されると、VOCは代わって日本金、次いで日本銅を輸出してアジア各地の貿易を維持した。VOCの扱う日本銅輸出は17世紀後半を通じてほぼ順調に拡大し、東南アジア・南アジアへ送られた。中国船による日本銅輸出はそれ以上に急増し、主に中国国内の小額取引の決済に用いられた。

18世紀における貿易秩序の変容

1683年に鄭氏政権が降伏すると、清朝は翌年遷界令を解除して商人の往来を許可した。これにより長崎に来航する中国船の数は一時的に急増した。しかし既に遷界令に対応していた地域では、17世紀の貿易パターンは復活しなかった。

中国市場が変容

中国は18世紀を通じて大規模な人口増を経験した。これに伴って世紀半ばから、基本食料である米だけでなく、ややぜいたく品である胡椒(コショウ)、燕(ツバメ)の巣、およびフカヒレ、ナマコなどの食用海産物、さらに庶民生活とつながりの深い籐(とう)などの森林産物および錫(スズ)が、南シナ海周辺やインドネシア-フィリピン諸島から大量に輸入されるようになった。

こうした品々の需要が高まった要因には、長江下流域や北京など経済発達地域の人口が増え、消費が拡大したことが挙げられる。新たな食材の需要は、この頃に宮廷料理がより広い階層に浸透したこととも関連するだろう。籐はあらゆる家具に用いられ、錫は茶の容器に加えて紙錠、紙銭などと呼ばれる、祭礼で燃やすための紙幣に利用された。

南シナ海周辺および東南アジア島嶼(とうしょ)部は、このような中国市場の変容に敏感に対応した。清朝は1722年から関税を免除して東南アジアからの米の輸入奨励策を打ち出していたが、1747年に海外での造船が許可されると、費用の安いシャム湾やメコン河口での造船が盛んに行われ、さらに貿易が活発化した。

こうした中、アユタヤ朝滅亡(1767)後に興ったロッブリー朝を倒し1782年に設立されたラタナコーシン朝と1788年にサイゴンの支配を確立した阮朝は、それぞれチャオプラヤ川およびメコン川流域で取れる米を中国向けに輸出した。これらの地域には華人が進出し、米の集荷と輸出を掌握した。ブルネイ、トレンガヌ、リアウなどには華人が大規模な胡椒農園を開設し、その収穫物は華人商人によって中国に輸出された。錫の主要産地であるプーケット、マレー半島西岸、バンカ島などでは、現地領主の了承のもとに華人が鉱山開発に主要な役割を果たし、福建、広東などから供給される労働者によって錫が採掘された。海産物、森林産物は島嶼部各地で東南アジアの人々によって採集され、それらを集荷する港として、リアウ、スールーなどが台頭した。こうして南シナ海周辺および東南アジア島嶼部では、貿易が中国市場を志向して再編成された。

日本では砂糖輸入、「俵物」輸出が増加

日本市場では、遷界令の時代に輸入が減った中国生糸を補うために、国内で代替生産が始まっていた。国内の織物業を満足させる高品質の生糸を低価格で生産できるようになるにつれ、中国生糸に対する需要は漸減した。代わって中国からの輸入品では砂糖が重要となった。VOCもバタヴィア周辺で糖業を振興し、18世紀からは日本を主要な輸出先の一つとした。日本における砂糖需要の増大は、国内の経済発展および都市における消費生活の発達と結びついている。18世紀まで砂糖はまだ高級品ではあったが、輸入の増加に伴い砂糖を使った菓子作りなども発達した。こうした需要の高まりは, やがて砂糖の国内生産にもつながった。

国富の流出を恐れる幕府は、1715年にオランダ船と中国船の船舶数を制限し、さらに1730年代以降は銅輸出を制限した。このため長崎に来航する外国船舶は減り、長崎貿易は衰えを見せる。しかし海域アジア全体としては、上述のように、発達する中国経済を軸に新たな貿易秩序が形成されていった。

日本が、銅に代わって俵物(たわらもの)と呼ばれる食用海産物を主に中国に輸出するようになったのも、先述のような人口増に伴う中国市場の変容から説明できよう。俵物は昆布やアワビなどを俵に詰めて輸出したものであるが、ここに蝦夷を含む北日本の産物が多く含まれるのは、西・東回り航路の発達や蝦夷地における貿易の増加が背景にある。

貿易競争でVOCが後退

しかしオランダ東インド会社は、このような中国市場志向型貿易への変容に十分対処できなかった。VOCは17世紀以来東南アジア各地で胡椒と錫を購入しており、18世紀からはその多くを中国に輸出していた。また18世紀にオランダやイギリスで中国産の茶のブームが起きると、VOCは清朝が西洋諸国に対して唯一開いた港である広州に1720年代から船を送り始め、この貿易のためにも中国で求められる商品が必要とされた。

ところが18世紀半ばまでにVOCは、中国向けの商品を十分集めることができなくなった。VOCはジャンビ、パレンバン(以上スマトラ東岸)、バンテン、バンジャルマシン(南カリマンタン)などの胡椒産地ならびにペラ(マレー半島西岸)、バンカ島(スマトラ南西岸沖)といった錫産地の支配者と条約を結び、産品を独占的に購入する権利を得ていた。

しかしVOCに供給するために支配者が生産管理を強めると、住民は生産の強制や低い買取り価格を嫌って、ほとんどの地域で生産が落ちた。また華人やイギリス私商人がひそかに生産地を訪れ、より高い買値で産品を得ることもしばしば起きた。森林産物や海産物に関しては、VOCはもともと取引に関心がなかった。こうしてVOCが提供できる中国向け産品の量が減るにつれ、それまでVOCの中国貿易を担っていた華人商人がバタヴィアを次第に訪れなくなった。

代わって彼らはシンガポール南方のリアウその他各地の港へ赴き、そこでブギス人(インドネシア・スラウェシ島<セレベス>南岸の海洋民族)などの、東南アジアの商人がもたらす森林産物や海産物、さらにオランダの禁制をすり抜けて運ばれる錫、胡椒などを購入した。リアウにはイギリス私商人も頻繁に訪れ、武器弾薬やインドの染織品およびアヘンなどを運んで、中国向け産品を購入した。こうしてイギリスは、インドの綿花やアヘンに加えて東南アジア産品も送り込むことによって、広州における貿易競争で有利に立った。オランダは、さらに第四次英蘭戦争(1780~84)によって多くの船を失ったことも痛手となった。こうしてVOCは次第に活動が縮小し、オランダ本国における政治体制の転換もあって、1799年に解散した。

日本でも模倣されたコロマンデル縞織物

VOCはコロマンデルでも窮地に陥ったが、ここでは18世紀後半まで一定の貿易が維持された。17世紀末からコロマンデルでは内乱が拡大し、会社が確保していた染織品の生産・流通ラインが分断された。貿易が停滞している間にスマトラ、ジャワ、スラウェシなどでは染織品の代替生産が進み、コロマンデルで入荷できた布もそれまでのようには売れなくなった。さらにアチェやコロマンデルの商人がインドネシア諸島との貿易に参入し、インド染織品を安値で販売したことも会社を圧迫した。

もっともVOCがもたらす純度の高い日本銅は、小額貨幣や装飾用として引き続き需要があり、VOCはあらゆる努力を尽くして日本銅を確保して輸出した。コロマンデルの染織品も低価格のものは東南アジアで現地産品によって代替されたが、模倣できない技術を駆使した高級品はまだ需要があったため、会社は輸出を続けた。

更紗の模様帖。エキゾチックな動植物・人物模様が描かれている。本図左上の模様は「阿蘭陀(オランダ)ツナギ」とある。おもにコロマンデル地方で日本向けに特別に生産された更紗は古渡(こわたり)と呼ばれ、今では茶道具用などに加工されているものや裂帳(きれちょう/何かに細工した布の切れ端が貼り合わせられた帳面)などしか残っていない(国立国会図書館ウェブサイトより)

「縞」は、もともとは「島」を意味し、桟留縞(唐桟留<とうさんとめ>、または唐桟<とうざん>とも呼ばれた。インド・サントメ由来)や弁柄縞(インド・ベンガル由来)など、南方の島々からもたらされた織柄だったことから名付けられた。江戸中期以降は木綿の普及と相まって庶民に大流行し、粋な江戸美人にふさわしい着物として、錦絵にもしばしば描かれた。上は染物屋に生まれた浮世絵師歌川国芳(1797-1861)の3枚続きの錦絵。国芳はこのほかにもさまざまな縞模様を描いている(国立国会図書館ウェブサイトより)

コロマンデルの染織品は日本でも愛用された。縞織物は港町サントメの名を取って、日本で桟留(さんとめ)縞または唐桟(とうざん)と呼ばれた。桟留縞は日本各地で模倣生産され、その産地名を取った川越唐桟、館山唐桟などが主に江戸で人気を得た。更紗(さらさ)は高い技術とエキゾチックな文様で人気を博し、人気の色や文様を商人に伝えるために、国内でさまざまな見本帖が作られた。さらに更紗を国内で模倣して、鍋島更紗をはじめとする和更紗が作られた。染料も染色技術も異なる和更紗はインドの更紗とは大分風合いを異にするが、その色やデザインは確かにコロマンデル更紗をモデルとしている。

結びに代えて—貿易ネットワークの柔軟な組み換え

以上述べたように、17世紀から18世紀にかけて、海域アジア一帯ではさまざまな集団によって緊密な貿易が行われた。この時期の貿易に最も強い影響を与えた市場は中国であり、次いでインドであった。どちらも大規模な人口を有し国内経済規模が大きかっただけでなく、生糸、磁器、染織品など高い技術に基づく競争力の強い産品を輸出できたことから、大量の銀および銅を吸収し貿易をリードした。しかしこれらの要素が常に貿易を安定させられたわけではない。

特に内乱は、しばしば生産と輸出を減退させた。すると貿易商人たちが代わりの品を求めてネットワークを変えたばかりでなく、他地域での代替生産も進んだ。日本やベトナムの生糸および陶磁器はその好例である。こうして日本や中国における貿易管理にも関わらず、海域アジア全体では活発に貿易が行われ、各地の経済が結びつきを強めていった。

18世紀の中国と日本における貿易では、大衆消費文化の発達という要因が大きかった。中国では膨張する人口と経済発達地域における消費生活を支えるため、南シナ海周辺や東南アジア島嶼部から米や熱帯産物が輸出された。日本でも砂糖輸入が増加し、インド染織品が人気を博した。日本で木綿、生糸、そして後に砂糖が国産化されたのも、制限された輸入が国内の強い需要を賄い切れないためであった。

独占貿易に固執したVOC

VOCは進出した多くの地域で、支配者または既存の商業勢力との間に武力闘争を繰り広げた。中国や日本を除けば、武力は各地に拠点を築く上で有効であり、またその豊富な資金力は販路拡大の上でも役に立った。日本の銀および銅を直接インドまで安定して届けたのはVOCが初めてであり、これによってインドの国内取引が潤滑となり、それが海域アジアの貿易にも好影響を与えたことは間違いない。

しかしVOCはアジア商人との競争の中で、常に有利な立場にいられたわけではない。特に18世紀の南シナ海では、VOCは次第に競争から脱落した。その敗因には、会社が現地国王との契約に基づく商品作物の独占輸出、生産管理といった手法に固執した点が大きい。生産管理は限られた人力では困難であり、時間がかかるVOCの決定プロセスでは柔軟な戦略を取ることが困難であった。一方、VOCのライバルであるイギリス私商人、華人および東南アジアの商人は、国王でなく地域有力者と直接取引し、独占や生産管理を求めず競争し合って生産を刺激した。

自由競争と社会の対応

このような歴史から、我々が学ぶべきことは明確であろう。競争のある貿易は経済を活性化させる。国家間条約に基づく独占貿易や管理生産は自由競争を凌ぐことができない。貿易の変動は国内経済に大きな影響を与えるが、海域アジア各地の社会は変動に対応し、経済活性化を果たしてきた。地球上の他の海と同様に、アジアの海は古来より自由な海であり、海上の国境や領有といった概念は存在しなかった。この海域に独占貿易と管理生産をもたらそうとしたオランダ東インド会社は18世紀に入って後退を始め、やがて退場せざるを得なくなった。

こうした海域アジアの活発な貿易は、19世紀の植民地支配によって変容するものの、その後も発展し続けたことを、筆者を含む近年の研究者は主張している。19世紀以降の展開は本稿の扱う範囲を超えるが、本稿に述べたことは全てが過去の遺物ではなく、その多くの要素が現在まで続いていることを最後に述べておきたい。

タイトル写真=長崎港内で到着合図の号砲を放つオランダ船を描く『阿蘭陀船入津之図』(1800年刊)より(国立国会図書館ウェブサイトより)

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  • [2013.05.06]

広島大学准教授。近年は、18世紀末から19世紀にかけてのマレー海域の貿易と移民について研究。1971年生まれ。福岡県出身。1993年早稲田大学第一文学部卒業、1996年同大学院文学研究科(美術史学)修士課程修了、オランダ・ライデン大学留学を経て米国ラトガース大学歴史分析研究所客員研究員(2005~06年)、シンガポール国立大学人文社会科学部ポストドクトラル・フェロー(2006~08年)、台湾・中央研究院亞太區域專題研究中心助研究員(2008~12年)。2012年から現職。

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