シリーズ 冷戦後日本外交の軌跡
湾岸戦争と日本外交

中西 寛【Profile】

[2011.12.06] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

1990年8月、イラクがクウェートに軍事侵攻し、翌年1月には多国籍軍によるイラク攻撃へと発展した。冷戦後、世界が初めて経験した国際危機に日本政府は大きく揺れ、日本外交が直面する課題を痛感することとなった。20年余を経た今、「湾岸ショック」とまで呼ばれた日本の湾岸戦争への対応を振り返る。

1990年8月2日、イラクによるクウェートへの軍事侵攻で始まった湾岸戦争は、冷戦後の世界が経験した最初の国際危機であった。日本にとって湾岸体験は、冷戦後世界の現実に対する不快な目ざめ(rude awakening)となり、「湾岸ショック」や「湾岸のトラウマ」とすら呼ばれてきた。なぜ日本はあれほど対応にとまどったのか、湾岸経験は日本に何を残したのか、20年あまりを経た今、あらためて振り返ってみる価値があろう。


ニューヨーク市内のホテルでブッシュ米大統領と(左)と会談する海部俊樹首相(1990年9月29日)

実は危機発生の当初、海部俊樹政権は、8月5日にはイラクへの経済制裁を決定した。これは国連安全保障理事会(以下、安保理)で経済制裁決議が採択される前日のことであり、素早く、かつ明確な対応をとったといえるものであった。しかし結果的には、この対応はすでに日本外交のひとつの弱点を示したものであった。すなわちそれは、日本は過去に先例があるか、あるいは過去の教訓から反省した事例については迅速に対応するが、予想外の新たな事態に際して基本方針が混乱するとなかなか態勢を立て直せない、という性質である。海部政権の措置は、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の経験、ないし反省に倣った措置であった。日本は基本的に、湾岸危機もソ連のアフガニスタン侵攻と同様の事態、すなわち、先進国は中東での地域紛争には直接かかわらず、間接的に支援するというパターンを踏襲すると無意識のうちに考えていたのである。

踏み絵となった武力行使への支持

 実際には、国際情勢も、日本を取り巻く状況も1980年代に大きく変化していた。冷戦は急速に終焉に向かっており、イラクのクウェート侵攻の前年(1989年)11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタでブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長が冷戦の終結を宣言していた。中国ではこの年の6月に天安門事件が起きたが、鄧小平は改革開放の継続を求めており、1990年代初頭には西側への協調姿勢が強かった。イラクの侵攻時、ベーカー米国務長官はソ連訪問中で、ただちに米ソ両国はイラクを非難する共同声明を出した。湾岸危機は米ソ協調のテスト・ケースと見なされたのであり、冷戦時代には機能しなかった安保理が前面に出て対応することになった。安保理が武力行使の合法性を担保し、アメリカが実体的な軍事力を提供する中で、日本は国連中心主義の建前とアメリカとの同盟関係という実態のいずれでも、武力行使への明確な支持を求められることになった。

同時に、1980年代後半の拡張的金融政策で金満国家となった日本はアメリカを含めた諸国から次第に警戒されるようになっていた。日本は自国の経済的利益を一方的に追求し、他国の経済支配を狙っている経済的重商主義国家であるという「日本異質論」が唱えられ、アメリカの議会や世論に一定の影響を持つようになっていた。1987年、東芝の子会社がココム(対共産圏輸出統制委員会)規制に違反してソ連に工作機械を輸出したことが明るみにでたことはアメリカで政治的に大きく扱われ、その後、米議会が日米政府間の既存の合意を反故にして次期支援戦闘機(FSX)開発合意を修正させる背景になった。そして1989年には三菱地所がロックフェラー・センターを、ソニーがコロンビア映画を買収するというように、日本企業はアメリカ人の感情を逆撫でするように振る舞い、arrogantと非難されても仕方のない心理状態に陥っていた。

人的貢献の不在


着任あいさつに竹下登首相(右)を訪れたアマコスト駐日米大使(1989年5月18日)

しかも、日本は経済的繁栄の絶頂にありながらも、1989年のリクルート事件発覚によって自民党政治は揺らぎ、参議院では野党が多数派を占める構造となっていた。さらに、自民党内では政権基盤の弱い海部首相を竹下派、特に小沢一郎幹事長が支えるという二重構造となっていた。こうした中で湾岸危機に対応を求められたことは日本を追い詰めることになった。

実質を考えれば、当時の日本が軍事的に貢献できる余地は少ないことは明らかだった。自衛隊は発足以来一度も部隊として国外に出たことはなく、そのための法制も訓練も不足していた。日本が最も大きな貢献をできるのは、資金、物資の面であることは明らかだった。しかし経済力による貢献は、部隊を派遣している諸国、とりわけアメリカからは強く批判される運命だった。人的貢献の不在は、日本がいかにも自国中心の重商主義国家であるとの印象を強めるものだからである。それはアメリカ国内での対日批判だけでなく、米国内に存在した米軍による武力行使反対論を強める要因になり得ただけに、米政府は日本の非金銭的貢献に神経を使った。アマコスト駐日米大使は「ミスター・ガイアツ」との異名をとった。

さらに、日本はイラン革命後もイランと国交を保つなど、中東についてはアメリカの政策を全面的に支持してきたわけではなく、湾岸危機に臨んでも、アメリカと距離をとってイラクに撤退を求めるべきとの議論も存在した。具体的に日本にできる方策はほとんどなかったが、日本人が欧米人とともに人質としてイラク国内に拘束されたために、多国籍軍への協力を抑制するべきとの議論は国民の感情に訴えるものがあった。

こうした複雑な状況の中で、日本政府の対応は混乱を極めた。ブッシュ大統領からは輸送、補給等の面で日本の支援の要請があった。これはアメリカが大量の部隊を湾岸に派遣する計画の中で当面、実際に不足していた資源であった。しかし自衛隊を提供する枠組みが存在しないため、民間船舶、航空機のチャーターを政府は検討した。しかし戦闘地域への派遣に民間側は消極的であった。日本がこの面でほとんど役に立てないことを伝えた外務省の丹波實審議官に対してアメリカは、ペルシャ湾にいる多数の船舶が日本向けであると伝えて、自国の経済利益のためには民間会社は活動するのかと暗に非難した。

130億ドルの資金支援


湾岸戦争多国籍軍への90億ドル追加関連法案が可決され、海部俊樹首相(右)と握手を交わす橋本龍太郎蔵相(1991年2月28日)

 丹波がアメリカの厳しい雰囲気を伝えたことを受けて1990年8月29日、日本は資金提供を公表したが、その際には1,000万ドルという数字しか公表されなかった。アメリカの強い不快感が伝えられた翌日、大蔵省は10億ドルという数字を公表した。政府内では10億ドルで検討が進んでいたが、発表のやり方の稚拙さによって、日本はいかにも自己中心的で、外圧によってしか国際貢献をしない国だという印象を与えてしまった。その後も日本政府はアメリカの意向を気にしつつ、資金提供を追加し、結果的に130億ドルを拠出したが、開戦後に提供を表明した90億ドルについてはドル建てか円建てかをめぐって日米で一悶着があった。ブレイディ財務長官と橋本龍太郎大蔵大臣の間でこの金額は即決されたのだが、円建てかドル建てかを決めておらず、その後の為替の変化に対して日本は円建てを表明し、米側はドル建ての支払いを求めた。結果的には対米供与分については日本が譲歩したが、せっかくの資金提供もこうした技術的な問題で効果的な印象を与えることはできなかった。

この間、10月には日本の人的貢献を法制化するために国連平和協力法案という法案が国会に提出された。しかし政府内では、自衛隊を派遣すべきという見解と自衛隊とは異なる形での人的貢献を検討する立場が完全に統一されないままであった。政治家では、海部俊樹首相は自衛隊派遣に消極的であり、たとえ自衛隊員を派遣する場合でも、自衛隊とは異なる組織の人員として派遣されるべきと考えていた。他方、小沢一郎自民党幹事長は、国連による集団安全保障の場合には現行憲法下でも参加可能という立場であり、自衛隊の部隊としての派遣を主張していた。外務省内でも、消極派と積極派が分かれ、意思統一は行われなかった。こうした状況では法案が成立することはもとより不可能だった。もちろん参議院で野党が多数を占めている状況では、いかなる形であれ、自衛隊員派遣を認める法案が通る見通しは小さかった。世論は自衛隊派遣に2割程度しか賛成していなかったのである。政府内で喧々囂々の議論が行われたが、11月8日には法案は廃案となった。

また、イラク国内で実質的に人質として拘束されていた日本人の解放に向けても、日本政府は目立った活動を行えなかった。イラクと交渉する材料がなかったが、仮に直接取引によって日本人だけが解放されれば、利己的な日本という評判を強めかねないという懸念すらあった。結局、武力行使の可能性が高まった11月末に中曽根康弘元首相が特使としてイラクを訪れるなどしたあと日本人は全員解放されたが、翌日には欧米人の人質も解放されており、日本外交の働きかけが奏功したというよりも、イラクとしては武力行使の可能性が高まる中、国際世論に影響を与える方策として人質を解放した可能性が高い。

日本外交に残った深い敗北感


遠隔操作で機雷処理に向かう自衛隊(1991年6月19日)/写真提供=海上自衛隊

1991年1月17日午前3時(現地時間)、多国籍軍は攻撃を開始した。日本への正式な通告は、村田良平駐米大使と中山太郎外務大臣に対してベーカー国務長官から攻撃開始の30分前に行われた。その戦争の実際はアメリカの軍事的優越を見せつけた。圧倒的な空爆に加え、イラクのスカッドミサイルを打ち落としたとされたパトリオット(実際には命中率は低かったことが後に明らかとなった)、新興メディアCNNがアピールしたアメリカのメディアのグローバルな報道力は世界を驚かせた。日本人の多くもテレビの前でリアルタイムの戦争報道を見つめることになった。

もちろん日本が何もしなかったわけではない。それどころか現場では多くの努力が行われた。多国籍軍には4輪駆動車やウォークマンなどさまざまな物資が提供され、現地では高い評価を受けた。イラク国内に残った民間人や外交官も苦しい状況の中で耐えた。日本の資金は円滑に提供され、多国籍軍司令官のシュワルツコフは日本に深い感謝の意を表明した。さらに湾岸戦争終了後の1991年4月、当時の自衛隊法の枠内で戦闘終了後の機雷掃海は可能であるという解釈のもと、海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、ペルシャ湾の機雷掃海にあたった。しかしこうした地道な努力にもかかわらず、全体としては湾岸戦争の経験は日本外交に深い敗北感を残した。クウェートが謝意を表明した中に日本の国名がなかったことはどの程度意図的だったかどうか分からない。しかし日本の湾岸戦争での「貢献」が世界的には評価が低く、日本外交の威信が低下したことは否めない。

湾岸戦争の教訓

湾岸戦争の経験は日本にどのような教訓を残したであろうか。まず、戦後日本が追求してきた経済繁栄が頂点に達していたときに起きた国際紛争について、日本が無力に近い存在であったことは、冷戦後の国際秩序を維持運営するうえでの日本の国力の限界を意識させた。「湾岸ショック」をきっかけに日本人は人的な国際貢献の必要性を意識し、1992年には、強い政治的反対はあったものの国際平和協力法を成立させた。これは自衛隊を国連平和維持活動への部分的な参加を認めるもので、同年、カンボジア内戦終了後の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動に自衛隊史上初めて部隊が派遣された。

同盟や安全保障の問題も湾岸戦争をきっかけに、より多く議論されるようになった。日米同盟の重要性を政治家は正面から発言するようになり、1997年には朝鮮半島有事などを念頭においた日米防衛協力のガイドラインが合意され、その後、北朝鮮によるミサイル発射などを受けて日米共同でミサイル防衛が導入されることにつながった。


カンボジア・タケオ市で、地元市民の協力を得てPKO活動を行う自衛隊員(1992年10月8日)

湾岸戦争時の混乱ぶりから考えて、これらの変化が比較的順調に進んだことは不思議にも見えるが、ある程度は、過去の失敗から学んだ教訓に備える事に関しての日本人の能力が示されたといえよう。しかしそれだけでなく、1990年代から2000年代にかけて日本はこうした枠組みに基づいて、国連での安保理改革や日米同盟の強化を追求してきたのである。

戦略的判断力などに弱点

 この方針は、湾岸戦争を通じて形成されたアメリカが主導する国際協調態勢とそれを裏づけるアメリカの圧倒的な軍事的、技術的優越を前提として追求されてきた。逆に言えば、協調的な国際秩序の中でアメリカとの同盟関係を基軸に外交や安全保障を組み立てるという日本外交の発想は、湾岸戦争時から大きく変化していないということである。しかし過去20年の間に国際協調は次第に後退し、アメリカの単独主義的傾向が強まることになった。しかし中央アジアと中東で2つの非対称的な戦争に従事したことで、アメリカの誇る軍事的優越にも陰りが明らかとなった。アメリカの覇権が相対的に低下し、その力が圧倒的とは見なせなくなったと同時に、新興国の台頭によって主要国間の協調が円滑でなくなった今日、湾岸戦争時に日本外交が示した弱点がふたたび浮上してくる可能性はあるだろう。

弱点の第一は、日本が国際政治の中でいかなる役割を果たすかという日本外交のアイデンティティに関する問題である。戦後日本は軍事力を対外政策の手段として用いず、平和的経済手段に専念することを基本としてきた。今日、平和維持活動に参加する自衛隊の武器使用の問題や、米軍の救援に関する集団的自衛権が論争を呼ぶのも、従来の解釈の変更という技術的問題だけではなく、戦後日本がこれまで抱えてきたアイデンティティはどの程度まで維持され、またどの程度修正されるべきか、日本の中で明確なコンセンサスが欠如していることの反映というべきである。

第二は、既存の枠組みでは対応できない大きな危機に直面したときの政府の戦略的判断力の弱さの問題があった。これは情報の収集や、官僚のセクショナリズム、政治家と官僚の関係など多くの問題を抱えながら、今日もなお大きな課題である。特に近年、尖閣諸島をめぐる日中間の紛争や、2011年3月11日の大震災と原発事故への対応を見れば、政府の能力は依然として改善すべき点が多いことは明らかである。湾岸戦争の経験はすでに克服されたわけではなく、今も日本外交にとって課題を投げかけ続けている。

写真提供=時事通信社

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  • [2011.12.06]

京都大学教授。1962年生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了、同法学研究科博士後期課程退学、米シカゴ大学歴史学部博士課程留学。1991年より京都大学法学部助教授、2002年から現職。ロンドン大学政治経済校(LSE)、オーストラリア国立大学(ANU)、スウェーデン国際問題研究所で客員研究員を経験。安全保障と防衛に関する懇談会委員(2009年)、 新たな時代の安全保障と防衛に関する懇談会委員(2010年)。『国際政治とは何か—地球社会における人間と秩序』(中公新書/2003年)、編著に『歴史の桎梏を越えて—20世紀日中関係への新視点』(千倉書房/2010年/第26回大平正芳記念賞・特別賞)、『新・国際政治経済の基礎知識 新版』(有斐閣/2010年)など。

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