現代日本政治の動向

ポスト55年体制期における政策的対立構造

政治・外交

日本政治の政策的対立軸は、「55年体制」の下で保守/革新のイデオロギー対立を背景としていたが、1990年代半ばから様変わりした。この約20年間の対立軸の変化を振り返り、検証する。

本稿の目的は、1994年の選挙制度改革以降の「ポスト55年体制期」における日本政治の政策的対立構造を検討し、また今後の見通しを得ることである。ここでは有権者レベルではなく、政治家レベルにおける政策的対立軸について扱う(両者は一致するとは限らず、議論は別になされる必要がある)。1990年代中葉以降、日本政治において何が課題として認識され、各議員あるいは政党はこれに対してどのような立場をとったのか。政策的対立軸について歴史的に振り返ることは、今日あるいは今後の日本政治における政党間競争構造(政党システム)の理解につながるとともに、各政党内部の亀裂について考えるうえでも役立つであろう。

55年体制期の政策的対立構造

前段としてまず、いわゆる「55年体制」期(1955~93)(※1) における政党間の政策的対立構造について確認しておきたい。この時期の日本の政党システムはサルトーリのいう「一党優位政党制」の典型であり(Sartori 1976)、優位政党である自民党と社会党を中心とする中小野党の間で競合が行われた。与野党間の亀裂は、「保守」対「革新」のイデオロギー対立として特徴づけられる。保革対立は、(社会的・道徳的問題に対する価値観の相違を背景としつつ[綿貫 1976]、)その起源において、日米安全保障条約、再軍備、憲法改正問題といった安保・外交問題を中心的争点とする。60年安保闘争以降、自民党政権は「低姿勢」路線をとり、経済成長に専念する姿勢をとる。しかし国際的な冷戦構造のもと、55年体制後期においても少なくとも外見上、形式上は、安保・外交問題が与野党間対立軸として機能しつづけた(大嶽 1999)。

他方で、高度経済成長を背景として、景気対策や分配政策といった経済的問題は、政党間の重大な争点とはならなかったとされる。(※2) 高度成長の負の副産物である環境汚染といった「新しい争点」に対しても、問題自体は社会的関心を集めたものの、自民党政権による対応もあり、政党間対立軸としては発展しなかった。

80年代末に至ると、リクルート事件の発覚を直接的契機として、「政治とカネ」の問題が重要な政治課題として浮上した。金権政治の根源は旧来の政治的制度にあるとみなされ、政治改革問題、とりわけ選挙制度改革が争点化した。これは保守陣営内部を分かつ新しい対立軸の登場を意味し、実際に自民党はこの問題への対応から分裂し、93年総選挙を経て下野した。94年、細川護熙内閣のもとで、衆議院への小選挙区比例代表並立制の導入など一連の政治制度改革が実施され、同問題には一応の決着が付けられるに至る。

選挙制度改革後の政策的対立構造

90年代の政界再編期に入り、旧来の保革イデオロギー対立は、冷戦の終結とも呼応して、政党間対立軸としての重要性を低下させていった。その象徴が、94年の自民党と社会党の連立政権樹立である。この時期、主要野党の指導者に自民党出身者が多く含まれたこともあり、一般に政党間のイデオロギー的距離は縮まった。これ以降、日本の政党間競争は、行政のスリム化や景気回復といった「合意争点」(実施の必要性そのものには広い合意があるような政策課題)に対する業績や期待度を競うという側面が強まる。この傾向はポスト55年体制期における、政党間競争の基本的特徴として現在まで続いている。

しかし他方で、なお政党間の政策的差異は明確に存在しており、しかも政策的対立の構図は以前よりもはるかに複雑性を増している。すなわち90年代以降の日本政治は、55年体制期以来の保革対立の残滓(ざんし)をなお保持しつつ、政策的対立軸を多次元化させていく。

まず90年代後期には、従来の自民党政権によって推し進められてきた「保守党型大きな政府」路線、すなわち農村部偏重の利益誘導政治への賛否が争点として重要性を増した。その背景には、バブル崩壊後における日本の経済財政的危機の深化がある。利益政治は汚職の源泉であるとして55年体制期から問題視はされてきたが、分配すべき「パイ」の縮小にともなって、90年代後期には経済的政策としての効率性や公平性の観点からも批判されるようになった。他方、この時期の自民党政権(とりわけ小渕恵三政権期)は景気対策―裏面では農村部での支持調達―の観点から公共事業を拡大する局面があり、都市的利益と農村的利益の対立が深刻化した。民主党は都市的利益を代弁し(または代弁しているとみなされ)、自民党の対抗勢力として成長した。

2000年総選挙における「都市の反乱」(蒲島 2000)により議席を減らし追いつめられた自民党は、01年に小泉純一郎を総裁に選出することでこの逆境に応じた。小泉は自民党の党首でありながら、「自民党をぶっこわす」ことを公言し、トップダウンで新自由主義的改革を推進した。小泉政権期には実際、公共事業費を削減するなど歳出が抑制された。世論は全体として小泉改革を好感し、小泉内閣は高い支持率の維持に成功する。自民党自体も01年参院選、03年衆院選に勝利し、都市部においても復調を果たした。

この時期、小泉自民党が民主党の政策的な「お株を奪った」ことで、利益政治問題を含む旧来型政治経済システムの改革という争点は、政党間対立軸という面では重要度を失った。その反面、自民党の内部においては、一連の構造改革について執行部と「抵抗勢力」との間で路線対立が激化することになる。以上の図式は05年総選挙において集中的に現れた。小泉首相自身が主導して争点化した郵政民営化問題への対応から、05年8月に亀井静香ら反主流派が離党し、国民新党を結成した。選挙では小泉は亀井らに対し「刺客」候補を立てるなど対決姿勢をアピールし、メディアの注目を独占的に集めることに成功する。他方で民主党を含む野党の存在は埋没し、結果として同選挙は自民党の圧勝に終わった。

06年に小泉首相が勇退すると、再び自民党の経済政策が転換し、その結果として政党間対立構造にも変化が見られた。とりわけ08年のリーマン・ショック以降、景気刺激策として自民党政権は公共事業の拡大など「逆コース」の経済政策をとることになった。このことは一面では、90年代後期の自民党対都市型新党の対立図式の復活をもたらすことになる。他方で、小泉路線の転換は自民党内に新たな亀裂を生み、渡辺喜美らは新自由主義的改革の推進を訴え、みんなの党を結成した。09年総選挙では民主党とみんなの党はそれぞれ得票を伸ばし、自民党は大敗、再び下野することとなった。

2010年参院選時における政党配置

政権交代後の日本政治の対立構造は、以上の歴史的経緯の累積として捉えることができる。このことは近年の実証研究の成果からも確認できる。筆者は2010年の参議院議員選挙時に行われた議員・候補者アンケート調査をもとに、政治家の政策意見の立場を分ける争点軸を因子分析という手法により抽出し、各軸上における各政党の位置(所属政治家の平均位置)を求めた(境家 2011)。下図はその結果を要約的に示したものである。

分析の結果、2010年時点での政治家の政策的立場を分ける軸として、(1)安保・社会政策における保守/革新、(2)「55年型政治経済体制」への賛否、(3)新自由主義経済への賛否、(4)民主党目玉政策への賛否、という少なくとも4つの独立した軸が存在したことが示された。

軸(1)は55年体制期における保革対立軸にほぼ相当する。93年に自民党がいったん下野してから20年近く経過しているが、なお保革イデオロギー対立は日本政治の基底として存在している。政党配置もほぼ55年体制期さながらの状態が現在でも維持されている。すなわち、自民党(および同党から派生した国民新党・みんなの党)は明確に保守的、社民党・共産党は明確に革新的、公明党は中道的政党であることが図から分かる。55年体制期に存在しなかった民主党はこの軸上では中道的であるが、これはよく指摘されてきたように、同党構成議員のイデオロギーが右から左まで幅広いためである。

軸(2)は、中選挙区制など55年体制を支えた政治的制度や財政出動に依存した自民党型大きな政府路線への賛否を示す軸である。この軸上での政党配置は、軸(1)の場合と異なり、「既成政党」対「新党」という面が強い。自民党・社民党・共産党といった老舗の政党が比較的近い位置にあって55年型政治経済体制に肯定的であるのに対し、「新党」である民主党はやや距離を置いており、みんなの党はさらにラディカルな批判的立場をとっている。

軸(3)は経済的新自由主義(ネオリベラリズム)に対する賛否を表す対立軸である。みんなの党が規制緩和や減税、貿易自由化といった新自由主義的政策に対して最も肯定的であるのに対し、その派生元である自民党はこれに否定的である。また当軸において民主党とみんなの党はかなり異なった立場をとっており、同じ「反55年型政治経済体制派」(軸(2)上での「改革派」)でありながら、両党の経済政策面での立ち位置は質的にまったく異なることが分かる。当軸上においては、民主党の位置は、その反新自由主義的傾向という面において自民党に極めて近い点が興味深い。

軸(4)は、「子ども手当」「高速道路無料化」といった、当時の政権与党だった民主党の政権公約(マニフェスト)上の「目玉政策」の実施に対する賛否に関係する。当然ながら民主党(および当時の他の連立与党)はこうした政策の実施に全体としては積極的で、野党(当時)はこれに消極的である。民主党への政権交代は、また新たな政党間の政策的対立軸を生むこととなったのである。他方で、民主党内における同軸上での意見の散らばりはかなり大きく、財源不足の中で「マニフェスト原理主義派」と「現実主義派」の路線対立が同党内で先鋭化していたこと(佐々木・清水編 2011)がデータからも裏付けられる。

以上の結果は、全体として、先に示した政策的対立構造の歴史的変遷の記述と非常によく整合していることが分かるであろう。4つの軸は55年体制、およびその後の経済財政危機、政権交代などを経て重層的に累積されてきた結果であるといえる。

政党配置の面では、自民党にせよ民主党にせよ、すべての軸において立場の近い他政党というのは存在しておらず、連立政権時代において各党が安定的なパートナーを得ることの難しさを示唆している。例えば、09年の民主党と社民党の連立は軸(1)上の配置からみて「呉越同舟」といわざるをえず、実際、安保・外交問題(米軍普天間基地移設問題)上の立場の違いから社民党は連立政権を離脱することになった。また自民党と公明党との事実としてのパートナーシップの安定性は、政策的立場の近さというより、その他の―おそらく集票上の―理由によるものであることも示唆される。

おわりに-震災から2012年総選挙へ

すでに紙幅はほぼ尽きている。最後に、東日本大震災を経て2012年総選挙へと至る、直近の新しい動きと今後の見通しについていくつか所見を述べ、本稿の結びとしたい。

第一に指摘すべきは、震災後における経済財政危機認識のさらなる深化である。財政再建の一歩として民主党政権(菅直人・野田佳彦両内閣)は消費税増税路線に舵を切ったが、これは同党内に深刻な亀裂をもたらし、結局「マニフェスト原理主義派」とされる小沢一郎のグループは12年7月に離党するに至った。他方で、社会保障費の抑制やTPP(環太平洋パートナーシップ協定)への参加といった新自由主義的経済政策を求める圧力も(財界を中心として)さらに強まっており、これらに対する賛否は今後の極めて長期的かつ重要な政党間・政党内対立軸となるであろうことが予想される。

第二に注目すべき点として、福島第一原子力発電所の事故を契機とした、脱原発問題の争点化がある。12年総選挙に際しては、「卒原発」を唱える日本未来の党が結成され、民主党も自民党との原発政策の差異を積極的に打ち出すなど、同問題は明確に政党間の対立争点となっていた(あるいは争点として利用された)。問題は、ここでの反原発運動が旧来の革新的イデオロギーに基づいた反核運動と異なるのか否か、すなわち、当争点が従来の保革軸とは別次元を構成しているのか否かという点であり、またそうであるとして今後も重要な軸として持続するのかという点である。これらの問題については、今後現れるであろう実証研究の成果を待ちたい。

第三に注視すべきは、周辺国との領土をめぐる問題の影響についてである。12年8月、韓国の李博明(イ・ミョンバク)大統領が竹島に上陸し、これに呼応するように中国活動家による尖閣諸島上陸事件が起きた。これ以降も中国による領海侵入は常態化しており、有権者の対韓国・対中国感情も急速に悪化している(飯田・河野・境家 2012)。今後、戦後初期のように、日米同盟、防衛力強化、憲法改正といった安全保障問題が政党間対立軸として重要度を高めるのであろうか。この点については、周辺国の今後の動向とともに、一般に対外強硬派と目される安倍晋三首相の対応にまずは注目する必要があろう。

参考文献

飯田敬輔・河野勝・境家史郎「尖閣・竹島-政府の対応を国民はどう評価しているか」『中央公論』2012年12月号

大嶽秀夫『日本政治の対立軸-93年以降の政界再編の中で』(中央公論新社、1999年)

大嶽秀夫『日本型ポピュリズム-政治への期待と幻滅』(中央公論新社、2003年)

蒲島郁夫「地方の「王国」と都市の反乱-2000年総選挙」『中央公論』2000年9月号

境家史郎「2010年参院選における政策的対立軸」『選挙研究』第27巻第2号(2011年)、20-31頁

佐々木毅・清水真人編『ゼミナール現代日本政治』(日本経済新聞出版社、2011年)

綿貫譲治『日本政治の分析視角』(中央公論社、1976年)

Sartori, Giovanni, Parties and Party Systems: A Framework for Analysis. Cambridge: Cambridge University Press, 1976.

(※1) ^ 政治学者のあいだで「55年体制」の期間的定義は必ずしも定まっていない(始点は明確であるが)。本稿では自民党長期単独政権時代の終わりである1993年をその終点とする立場をとる。

(※2) ^ 1989年の消費税導入は例外的に政党間で大きく賛否の割れた経済的問題であるが、各政党の立場が保革対立軸上の位置によって決まっていた(保守=賛成、革新=反対)という点で、同問題が保革対立と独立した争点軸を構成していたとは言い難い。

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