シンポジウムリポート

西アジア北アフリカ(WANA)地域フォーラム

政治・外交 社会

2012年5月にヨルダンで開催された第4回「西アジア北アフリカ(WANA)フォーラム」。参加したワシントン在住のジャーナリスト、マスード・ハヨン氏が、海外在住のアラブ人が中東・北アフリカの発展に果たすべき役割とフォーラムへの期待を語る。関連記事:「紛争が続けばイスラム原理主義勢力が台頭する」ヨルダン・ハッサン王子

「西アジア北アフリカ(WANA)地域フォーラム」は、ヨルダンのハッサン・ビン・タラル王子が長年の友人である笹川陽平日本財団会長の協力を得て財団の助成により2009年4月に始まった。地域の経済や環境、教育、社会問題などを各国の知識人が語り合う場として注目されている。2012年5月にアンマンで開催された第4回のフォーラムではさまざまな議題が取り上げられたが、「海外在住アラブ人」も重要なテーマだった。アラブ系アメリカ人である私がこの対話への参加を招請されたところに、アラブ世界の持続可能な経済・社会開発への希望が存在する。

重層的なアイデンティティー

私はカリフォルニア州グレンデール生まれで、現在24歳。米国での法律上の名前はマイケル・マーティンだが、本名はマスード・ハヨンである。ハヨンという姓はモロッコの村の名前だったが、祖父母が北アフリカから米国に移り、新生活を始めるときに名前を変えた。

欧米で広がる政治的な排外主義やイスラムへの嫌悪にも見られるように、植民地主義は消えていないが、祖父は亡くなる前、家族の歴史を消し去ったことを深く悔いていた。一方、祖父はアラブ人としてのアイデンティティーは守り抜いた。私たちにMENA(中東・北アフリカ)地域のニュースを見せ、クスクスを食べさせ、有名なアラブ人ミュージシャンの曲を聞かせた。「9.11」の後、そして、イラクとアフガニスタンでの戦争の間、私たちが米市民権を持つことに疑問を持たれたこともあった。

私は、マイケル・マーティンの署名でサウスチャイナ・モーニングポスト紙に中国と香港関連の記事を書いていたが、2011年のアラブの民主化運動でアラブ人として覚醒した。私はマスード・ハヨンだった。

当時、英語による報道では中東・北アフリカに関する自由で公正なジャーナリズムが少なかった。私は、アラブとイスラム教徒に関する言論のバランスをとる必要があると考えた。『来るべきアラブのアイデンティティー・クライシス』という記事では、複雑な文化、言語、宗教の違いによって分断されているアラブ世界を発展させるには、内部でも、そして海外のアラブ・コミュニティーとの協力が必要だと説いた。

「アイデンティティー」は、2012年WANAフォーラムのテーマだった。私はこのテーマでスピーチするために招かれた。

手詰まりに陥った「アラブの春」

毎年恒例のWANAフォーラムを支えているのは、いうまでもなく発展への熱意である。

発展は、この世界が直面するあらゆる問題の核心にある。思い起こせば、「アラブの春」の発端となったチュニジア青年の焼身自殺はベンアリ政権によって経済的に疎外されていたからに他ならない。拡大解釈になるが、彼の行動は、支配者一族が産業を独占する独裁国家によって阻害された発展を目に見える形で求めたものではなかったか。

ヨルダンのハッサン王子

今、「アラブの春」は革命後の手詰まり状態に陥っている。例えばチュニジアではどうしても克服できない失業が原因で停滞している。エジプトでは多くの若い活動家が革命の成果に不満を抱いている。有権者は大統領選挙で「受け入れがたい2つの選択肢」から選ばなければならなかった。ひとりは今回当選したイスラム政党の候補者、もうひとりは30年間の独裁の後に崩壊したムバラク前政権の「残党」だった。ヨルダンのハッサン・ビン・タラル王子は、アラブの民主化運動の苦闘ぶりについて「今のエジプトの結果がすべてを物語っている」と述べた。

ジャーナリズムの視点からすると、アラブの発展には英語メディアの取材対象地域の拡大が不可欠だが、最近では英語メディアのニュース・ヘッドラインから北アフリカが消えてしまった。どうすればアラブ人が母国でも海外でも尊敬され、メディアの分析対象になることができるのだろうか? WANAフォーラムに参加し、アラブ内外からの参加者の識見に触れ、私は一定の結論を得ることができた。

アジアに学ぶ

今回のWANAフォーラムの最大の特徴は、多数の東アジア、東南アジア各国の代表が参加し、アラブの開発モデルの参考として、それぞれの国の発展の経緯を話し合ったことである。グローバルな景気後退の影響で欧米以外の国々が優位に立つことになり、アラブの多くの国は、開発モデルとしてアジアに学ぶ姿勢を強めている。

アジア諸国ではミドルクラスが勃興したことで、市民社会が成長し、さまざまな社会変革が起きた。中国でも同じような変化が生じている。腐敗と不正を糾弾する市民の声は、中国版のツィッター「Sina Weibo」で当局の規制により強まったり弱まったりしているが、中には微妙な表現を用いて検閲をすり抜ける活動家もいる。こうした状況が生まれたのも、中国が順調に経済発展を遂げ、インターネットに容易にアクセスできる環境が整ったからである。

日本財団の笹川会長

フォーラムで日本財団の笹川陽平会長は、東・東南アジア諸国が第二次世界大戦後の独裁政権といかに戦い、その後の経済発展を成し遂げたかを強調した。「経済発展と民主化が同時に進んでこそ最大の成果が得られる。そして今日、多くの東・東南アジア諸国がこの方向に進んでいる」と。

今回の東・東南アジアの代表団には中国代表は入っていなかった。しかし、中国の成功物語はアラブ世界にとって学ぶところが大きい。鄧小平は中華人民共和国の経済発展の礎を築くに当たり、世界中の華僑・華人に経済特区への投資を呼びかけた。今ではそれが中国台頭の第一歩になったと評価されている。インドの台頭も、主に海外在住のインド人ネットワークを広く活用し、海外で学んだビジネスモデルの成功例をインドの環境に合わせて修正したことが大きい。

しかし、海外在住のアラブ人は事実上、母国の経済成長戦略に組み込まれていない。さまざまな産業に従事するアラブ系のアメリカ人、ヨーロッパ人に話を聞くと、事業や投資の母国への還流を促すような大きな誘因はないという。一部に母国の有力経済人との連携をめざす動きもあるが、成果は出ていない。

海外在住アラブ人はさまざまな産業に従事し、豊かな富と才能を持っている。また、政治的に不安定な中東・北アフリカ地域に投資しようという、他の人にはない個人的な思い入れもある。

成長と多様性のモデル

中国モデルは、華僑・華人の事業権益からの資金の流れを統合し、それを大規模な産業開発プロジェクトの資金とするのに有効だった。アラブ世界も個人の送金を集団的な取り組みに変えるための総合的な推進策を策定し、海外在住アラブ人の資金を開発プロジェクトに誘導しなければならない。それは、アラブ世界が発展できるように、市民社会と民主主義を育成し、国際社会から尊敬されるようになるためである。

私はフォーラムから、“政策提言”を書くよう依頼されている。アラブ経済がこれまで直面した統合の問題に取り組み、この地域に革新的な新産業を誘致するため、アラブ世界が中国モデルをどのように取り入れられるかについて、さらに踏み込んだ“政策提言”をである。1980年代の中国の成長モデルを現代アラブの状況に適用するのは、一種の賭けのようなものだが、アラブ世界が経済成長と多様化をめざした抜本的対策を実施するのにいま以上にふさわしいタイミングはない。

(英文原稿をもとにnippon.com編集部が日本語版原稿を作成)

写真提供=日本財団

イラク エジプト チュニジア 笹川陽平 中東 イスラム