特集 日本の教科書制度と歴史教科書問題
日中韓歴史教科書問題
歴史と現在

川島 真【Profile】

[2012.04.16] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | Русский |

日本の歴史教科書をめぐっては、中国や韓国など周辺諸国との間でさまざまな摩擦が繰り返されてきた。この歴史的経緯と背景を、アジア政治外交史を専門とする川島真東京大学准教授(nippon.com編集委員)がひもとく。

教科書問題と東アジアの国際関係

2012年3月27日、高等学校の教科書検定の結果が公表された。2011年4月に教科書出版社から申請された新しい教科書(2013年度から使用)の内容が、文部科学省による検定を経て、メディアに公開された。今年は東日本大震災と原発事故をめぐる記述や、「ポストゆとり教育」における分量の増加が話題になった。だが、国際的には歴史および領土に関する記述が注目されている。

なぜ、日本の教科書における歴史や領土に関する記述がこれほど国際的に注目されるのか。実際のところ、これらの記述がどれほど日本国民の歴史認識や領土認識に影響を与えているかは疑問である。「暗記科目」などと言われる社会科では、往々にして、試験が終われば、その内容は忘却の彼方に追いやられるものである。しかし、それでも教科書の記述が注目されるのは、検定などの制度も手伝って、その国・地域における「正しい」(とされる)認識だと見なされる側面があるからであろう。

歴史や領土に関する教科書の記述が注目されるのは国際的なコンテキストだけではない。これらは、国内の政治問題と深く関わる。そして、この国内におけるコンテキストと国際的な議論が複雑に絡み合っている。

教科書の記述が注目されるのは東アジアだけではない。グローバルな国際関係における焦点は、この1~2世紀で、政治から経済へ、そしていまや情緒、感情に移行しつつある。ソフトパワーやパブリック・ディプロマシーが重視されるのもそのためであろう。そして、国内においても感情や情緒は重要な政治要素となりつつあることもあり、まさにその情緒、感情に深く関わるものとして教科書が注目されている面がある。

東アジアの国際関係は、安全保障上の分断線を内包しながら、急速に経済面での一体化が進行するという特徴を有している。それだけに、ヒトとモノの往来が活発になればなるほど、逆に感情が悪化していく側面がある。教科書をめぐる問題について、独仏や欧州の事例から学ぶことは少なくない。だが、西欧における政治的な一体化を伴う経済的統合過程で進行したフランスと西ドイツの和解、また北大西洋条約機構(NATO)の拡大や欧州一体化の過程で進んだドイツとポーランドの和解の事例と東アジアとは異なる面がある。そして、東アジアの国や地域の全てが民主主義国家ではないという問題もある。政治体制の異なる国や地域でいかに歴史をめぐる和解(リコンシリエーション)を実現させるのかという課題があるのである。

いずれにしても、現在、東アジアの国際関係には、感情面・情緒面での問題が極めて緊密化している経済面を中心とした諸関係を阻害する可能性があるという脆弱性がある。その点で、歴史認識問題、教科書問題は、東アジアの国際関係の安定にとって極めて重要な課題である。本稿は、その教科書をめぐる問題を歴史的な経緯の中でひもとこうというものである。

教科書問題の歴史と背景

(1)戦前の教科書問題

東アジアの教科書問題の歴史は実は100年近い歴史がある。もちろん、日本が台湾や朝鮮半島を植民地化し、日本側で編さんした教科書を小学校や公立学校で使用したという問題もあるが、日中間で外交問題としての教科書問題が生じたのは1914年であった。この時には、日本が中国の教科書に排日的要素があるとして抗議した。

しかし、日本が抗議した書物は教科書ではなく副読本であり、問題は拡大しなかった。だが、1910年代の後半には中国の教育部の検定を受けた教科書の内容が、日中間で外交問題になった。中国の教科書は、日本の教科書の影響を強く受けつつも、やはり「中国国民」を養成すべく、日本とは異なる中国としての立場を鮮明にする内容が多く含まれていた。また、日本は中国を否定的に見ることによって自らが文明国、近代国家であることを強調しようとする面があり、中国側は列強や日本の侵略を批判し、民族的団結と抵抗を鼓舞せんとする向きがあった。

1931年に満洲事変が発生すると、日本側は中国の排日運動によって、条約で規定された(正当な)日本の権利が侵害される危機にあったことが事変発動の原因のひとつとなったと主張した。そして、教科書が排日運動を支えているとし、それを証拠として収集しリットン調査団に提出した。これに対し、中国側も日本側の教科書を精査し、その内容に多くの「反中的」内容、あるいは中国を侮蔑する内容が含まれているとして、リスト化して提出した。日中両国は、リットン報告書をめぐる国際連盟の会合で、日露戦争など、近代史をめぐる解釈について論争を行なったりもした。

1932年に建国された満洲国やその後の中国での占領地において、日本は中華民国の教科書に墨塗りをし、やがて日本側の意向の加わった教科書を配布した。それに対して、日本と抗日戦争を展開していく重慶国民政府は、抗日性の強い教科書を編むようになった。戦争はまさに「教科書」はもとより、「歴史認識」の対立を伴いながら進行していたのである。

(2)日本の敗戦と歴史をめぐる問題

だが、日本の敗戦により韓国では新たな教科書が編まれ、また台湾や日本統治下にあった満洲国やその他の地域では一般に中華民国の教科書が使われるようになったが、日中間の教科書問題が解決されたわけではない。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、民主主義、平和主義などの観点に基づいて教科書は修正されたが、中国側の意向がそこに反映されたわけではない。ただ、「支那」という言葉を教科書や出版物で使用することは、中華民国側の強い意向で禁止されることになった。

戦後、中華民国は抗日戦争時の歴史観を基本的に継承し、1949年に成立した中華人民共和国では、革命史観の下に歴史が再編された。北京でも台北でも、抗日戦争勝利関連の記念行事が行われ続けた。「日本軍国主義の復活」というフレーズは、周辺諸国にとって日本の対米接近、あるいは政治家の不適切な発言などに対する警戒心を示す常套句にもなっていった。

だが、それと同時にこの時期の日中関係では、いくつかの方法で、戦争責任や歴史をめぐる問題の外交問題化が防がれていたとみることもできる。台湾の蔣介石は「以徳報怨」、中国の毛沢東は軍民二元論を前提とした「日中友好」といったスローガンを用いた。これらは、日本の政官民に浸透し、歴史をめぐる問題の拡大を防止していた面がある。だが、この時期には、中国でも台湾でも、一党独裁の下で言論が抑制され、指導者や党の方針が極めて重視されていたことも忘れてはならない。

他方、日本では戦後知識人による「戦争責任論」が巻き起こることになった。また教科書をめぐる家永裁判もあった。これらの議論には複雑な背景があったが、重要なのは、1950-60年代の戦争責任をめぐる真摯な議論、とりわけ中国に関する部分は、そのほとんど全てが日本国内で完結してなされ、中国側との対話もなされず、中国側にはほとんど知らされなかった、ということである。

他方、韓国については、日韓基本条約の締結に向け、韓国併合にかかる1910年条約の位置づけ、あるいは日本在住の朝鮮半島出身者とその子孫の待遇などの問題や、日本側の政治家の発言が問題となるなど、歴史をめぐる問題が比較的顕著に表れていた。

日中国交正常化と「歴史」をめぐる問題

日本は1972年9月に中華人民共和国と国交を締結し、中華民国とは断交した。この日中国交正常化の交渉過程では、台湾とともに、歴史問題がひとつの焦点となった。その結果、中国側は賠償請求を放棄し、9月29日に発せられた共同声明では、前文に「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という内容が盛り込まれたのである。

日中国交正常化をめぐり、第1回首脳会談を行う田中角栄首相(左)と周恩来中国首相(1972年9月25日、中国・北京、写真=時事通信社)

他方、日本の侵略を非とする政策が長らくとられていた中国では、日本との国交正常化に際して、全戸を対象とした対内宣伝工作が実施され、国交正常化の意義が説明されていた。そこでも軍民二元論が強調され、田中角栄総理を歓迎するように促した、とされているのである。しかし、留意すべきは、国交正常化のために北京を訪れた田中角栄総理の「ご迷惑」発言とその通訳に見られるように、声明に盛り込まれた文言により和解が実現したわけではない、ということだろう。台湾問題や領土問題などをはじめ、諸問題には「棚上げ」された要素が少なくなかった。これはひとつの知恵であったが、同時に問題の先送り的な側面もあったのである。 

1982年の教科書問題

日中間では1970年代後半に往来が活発になり、1978年には鄧小平が日本を訪問し、日本の科学技術の導入、借款受け入れに関心を示した。そして、1979年12月に大平正芳総理が訪中し、対中経済援助などを決定した。

この段階では、日本は明らかに中国の現代化の師であり、見習うべき対象であった。だが、1980年前後に、歴史をめぐる中国の政策に変化が見られつつあったということは看過してはならないだろう。抗日戦争における国民党(あるは蔣介石)の役割の再評価がなされ、歴史教科書においても抗日戦争における国民党関連の叙述に変化があり、それと同時に戦争における日本の残虐さに関する記述を増やしていたのだった。これらは、1982年に日中間で発生する教科書問題よりも前に中国側で進行していたことである。

1982年6月26日、日本のメディアは、高等学校の歴史教科書(実教出版『世界史』)の「華北への侵略」という文字が、教科書検定において「進出」に変えられた、と報道した。この報道の数週間前の5月31日から6月5日にかけて趙紫陽総理が訪日して、将来の日中関係の発展を約していた。また、914億円の円借款を中国が日本に要請していた段階で、この問題が提起されていた。

周知の通り、この報道は「誤報」であった。文部省の記者クラブの合同取材に際して、実教出版を担当した日本テレビの記者がそのような検定が行なわれたと勘違いし、それが各メディア一斉の報道となったのである。

当初中国では、6月末に『人民日報』などが日本での論争を簡単に紹介したにすぎなかったが、7月20日前後から「歴史教科書改ざん」キャンペーンが展開され、7月26日に中国政府が日本政府に正式に抗議した。中国側は、日本による「軍国主義の美化」を指弾し、その後「軍国主義復活」へと批判のレベルを高めた。8月15日の『人民日報』には、社説「前事不忘、後事之師」が掲載された。たが、それでも問題とされたのは「一部の軍国主義者」に限定されていた。

韓国や台湾でも大きな反対運動が起きた。韓国では、安全保障面で日本との協力の必要性は認識されていたものの、82年の教科書問題を契機として、日本の植民地支配を問い直し、記憶をとどめていこうとする社会運動が見られるようになった。このような動きは、1980年代の韓国における権威主義体制の民主主義への漸次的移行過程で拡大していった。

中国の教科書問題をめぐる対応は、1982年9月の中国共産党第12回党大会で採用された独立自主の外交路線と関連があるとも、対外開放によって自由化しつつあった青少年の思想への引き締めとも、さらには日本との関係において、円借款という「実」をスムースに獲得するための手段であったとみることもできよう。

教科書問題で対応を協議する鈴木善幸首相と小川平二文相(1982年8月5日、東京・首相官邸、写真=時事通信社)

鄧小平は、1982年9月18日に中国訪問中の金日成に対して、「最近の日本の教科書改訂、歴史改ざんは、我々に再び歴史を見つめなおし、人民を教育する機会を与えてくれた。今回のことは中国人民を教育しただけでなく、日本の人民をも教育した。実はこれはいいことだと思っている」と述べた(中共中央文献研究室編『鄧小平年譜(1975-1997)』[1982年9月18日]中央文献出版社、2009年)。だが、9月26日、訪中した鈴木善幸総理に対して鄧小平は、「経済協力面では、我々はもっと多くのことをやりたいと希望している」と述べ、日本からの経済支援への期待をのぞかせたのであった。

11月24日、小川平二文部大臣の談話によって、文部省の「教科用図書検定基準」に、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という、いわゆる近隣条項が設けられた。これは、日本政府としてのこの問題に対する姿勢を示したものであった。

1986年の教科書問題

1982年の教科書問題発生の後、1983年11月胡耀邦総書記が訪日し、1984年3月には中曽根康弘総理が訪中して第2次円借款の供与を決定するなど、日中関係は「蜜月」を迎えたかのように思えた。しかし、1985年8月15日、中曽根総理が靖国神社に参拝したことで日中関係は再び悪化し、満洲事変の記念日である9月18日から10月にかけて中国で反日デモが起きた。ここでは、参拝反対だけでなく、経済侵略反対、日本軍国主義反対といったところにまで拡大した。

実のところ、先の鄧小平の方針に則って、日中関係の蜜月と呼ばれた時期も、1983年12月13日には、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(いわゆる、南京虐殺紀念館)の建設が開始されていた。中曽根総理が靖国神社に参拝した1985年8月15日こそは、その虐殺紀念館の開館日であった。

1986年6月、再び教科書問題が発生した。これは、「日本を守る国民会議」編の高校日本史の教科書(原書房『新編日本史』)が検定を通過したことについて、まずは韓国のメディアが、次いで中国の外交部が抗議したのである。これに、藤尾正行文部大臣による韓国併合に関する不適切発言が加わり、(当時いまだ国交がなかった)中韓そろっての抗議となった。日本政府は藤尾文部大臣を罷免し、中曽根総理が靖国神社参拝を取りやめ、事態を鎮静化させた。中国側の抗議も、1982年に比べれば低調であった。だが、これ以後、教科書検定がなされるたびに歴史をめぐる問題が取り上げられるようになり、政治家の不規則発言による罷免劇も連続するようになった。周辺国からは、日本の「反省」や「謝罪」に関する疑義が多く取り上げられるようになっていくのであった。

1987年7月7日、北京の盧溝橋では、盧溝橋事件50周年を記念して「中国人民抗日戦争紀念館」が開館した。そして、1980年代後半には歴史をめぐる新たな動きが生じた。1988年9月に、山東省のある村の住民が1944年に同村で日本軍が行なったという330人の殺害などの事由について民間賠償を求める要望書を、日本大使館に対して提出したのであった。このような民間賠償を求める動きは90年代にいっそう活発になった。

日中関係の変容と教科書問題

1980年代に生じた教科書、靖国神社参拝問題は、次第に領土問題など、多くの「過去」にまつわる問題と結びつき、次第に歴史問題とか、歴史認識問題と総称されるようになっていった。それまでの戦争責任という言葉よりも広い概念であった。

また、日中関係は1989年の天安門事件以後、大きく変容した。この事件によって日本の対中感情が大いに悪化しただけでなく、1990年代に入るとバブルの崩壊、自民党・社会党・さきがけ連立政権の誕生などが起きたが、その結果、日本の「革新勢力」が後退し、日中友好運動などが衰退することになった。そして、中国が核兵器の実験を行ったり、台湾沖にミサイル発射実験を行ったりしたこともあり、中国脅威論が大いに高まった。急速に成長を遂げる中国経済もまた、経済的な低迷が続く日本から見れば脅威に映った。日本の対中投資における優位性は次第に低下し、「経済の先生」としての日本の地位は大いに揺らぐことになった。これは日中関係の「経済と歴史」という両輪の片方が抜け落ち、「歴史」だけが機能することをも意味したであろう。

他方、1990年代は歴史をめぐる問題についての「決着」を主に日本側から図ろうとした時期でもあった。1992年の天皇訪中に際し、10月23日の楊尚昆国家主席主催の晩さん会で、「深い反省」に言及したのも、その一例である。そのような日本の意向は1995年の戦後50年が近づくにつれて強まった。そして、衆議院では、1995年6月9日に「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を出し、8月15日、村山富市・自社さ連立内閣は首相談話を発表した。いわゆる村山談話である。そこでは、「侵略」という語が明確に使用され、「痛切な反省と心からのお詫び」が表明されたのだった。これは、衆議院の決議よりも踏み込んだ反省となっていた。

しかし、中国側からすれば、この談話で歴史認識問題の決着とはならなかった。この談話は中国側にも伝達されてはいたが、翌1996年7月に橋本龍太郎総理が総理大臣として10年ぶりに靖国神社に参拝したり、閣僚などの不規則発言も続いたのであった。

他方、1990年代は中国脅威論が盛んに唱えられ、また日本経済の停滞感もあって、日本国内での中国に対する批判が厳しくなった。特に中国の愛国主義教育に注目する向きが強まり、中国における「反日」教科書の存在を指摘することが多々見られた。日本の侵略を強調する施策は、鄧小平期に既に形成されていたが、当時の日本の議論では江沢民政権が特に顕著であるとの印象があったのであった。

北京での反日デモ。日本の国連安保理常任理事国入りの動きや歴史教科書の検定に抗議する若者を中心に約5000人が集まった。(2005年4月9日、写真=Peter Parks/AFP・時事)

今世紀に入り、小泉純一郎総理が靖国神社への参拝を繰り返したことにより、日中関係は政治面で悪化し、他方、経済面での関係はいっそう深くなっていった。この時期には、両国の国民感情はより悪化し、その過程で「歴史」は両国間のわだかまりの象徴のようになった。そして、歴史認識問題は、教科書、領土、靖国をはじめ、さまざまな問題のからみつく、いっそう複雑な問題になった。教科書問題でも、検定における用語問題とともに、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書のような、保守系の教科書を中国側は重視するようになった。そこでは、採択率の低さは問題にされず、そのような内容の教科書を検定で通した、ということに批判が集中していた。

このような状況の下で、教科書問題をはじめとする歴史認識問題の「解決」はいっそう困難になった。しかし、これへの取り組みもまた少なからずなされている。まず、政府間の歴史共同研究である。ここでは、問題それ自体の解決というよりも、この問題が日中関係全体を悪化させないようにすることが企図された。他方、民間ではさまざまな共通教科書作りや、対話の試みが行われている。だが、これらの試みが社会全体に受け入れられるには至っておらず、またこうした共同研究の成果が東アジア各国・地域の歴史教科書そのものに反映される目途は立っていない。

いまやG20に3カ国も送り込んでいる東アジアにおける歴史をめぐる問題は、国際的に注目を集めるところとなった。スタンフォード大学における日本、韓国、中国、台湾、米国の歴史教科書の翻訳と比較研究などは、その関心の高さを物語っている。

東アジアの国際関係は、中国の大国化だけでなく、さまざまな意味で変容過程にある。教科書をめぐる問題が国内問題ともまとわりつきながら国際関係の阻害要因になることは決して好ましいことではない。世界各地の経験を踏まえつつ、東アジアの歴史的経緯や独自性も勘案し、問題の拡大を抑制する、有効、かつさまざまな装置が求められるところである。

 

タイトル背景写真=日本の中学教科書の検定結果発表に合わせ、ソウルの日本大使館前で抗議デモを行う韓国の市民団体(2005年4月5日、写真=時事通信社)

  • [2012.04.16]

nippon.com編集企画委員会委員長。東京大学総合文化研究科教授。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。92年東京外国語大学中国語学科卒業。97年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授を経て現職。著書に『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会/2004年)、『近代国家への模索 1894-1925』(岩波新書 シリーズ中国近現代史2/2010年)など。

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