特集 東日本大震災2周年を迎えて
ルポ・被災地再訪(前編):復興へ一層の支援不可欠

菊地 正憲【Profile】

[2013.03.12] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

大震災から2年。犠牲者遺族の悲しみは続き、被災地復興も道半ばだ。2011年夏の前回取材から1年7カ月ぶりに宮城県と岩手県の被災地を訪れたジャーナリスト菊地正憲氏による渾身のルポ前編。

石巻市:児童・教員84人犠牲の大川小の現場を行き交うダンプカー

荒漠とした風景が遠く海岸線まで広がっている。赤茶けた針葉樹林の小山の傍らに、ぽつんと取り残された2階建ての校舎跡が見える。土砂やがれきを積んだダンプカーが、すぐ横を何度も通り過ぎていった――。

宮城県石巻市釜谷地区の石巻市立大川小学校。2万人近い犠牲者を出した東日本大震災が発生した2011年3月11日午後、巨大な津波に飲みこまれ、児童108人のうち70人が死亡し、4人の行方が今も分かっていない。教員も、学校にいた11人のうち10人が命を落とした。あれから2年を経た現場では今、防波堤や河川堤防、道路といったインフラの災害復旧工事が盛んに行われているが、歴史的にも類を見ないほど、一度に多くの子供を災害で失った学び舎の廃虚には、なお悲痛な時間が流れ続けている。

私は今年2月下旬から3月上旬にかけて、東日本大震災で最大の被害に遭った宮城、岩手両県の沿岸部を訪ね歩いた。現地取材は震災直後の2011年3月から数えて計4回目で、1年7カ月ぶりの再訪となる。とりわけ2回目の2011年6月に集中して取材した大川小のケースは、「想定外」と盛んにいわれた大津波を象徴する最大の現場だと痛感したものだ。単なる「天災」として片付けられない背景があったからだ。

「3回忌を迎えても、なお無念さが募るばかりです。責任を逃れようとする学校側の説明、対応には強い疑問を抱いています」

卒業を目前にした6年生の次女みずほさんを亡くした佐藤かつらさん(47歳)は、学校、市教委への不信感を拭えないでいる。遺族の要望で数回、開かれた市教委の説明会では、地震から津波が来るまでの約50分もの間に、唯一、安全と思われる裏山へ逃がす判断をしなかったことや、近くに待機していたスクールバスが活用されなかったこと、そもそも津波の避難マニュアルに避難場所が記されていない不備があったことなどが次々と明らかになったのだ。

津波で多くの児童と教員が亡くなった石巻市立大川小学校。土砂やがれきを積んだダンプカーが校舎跡の横を通り過ぎる。

天災ではなく「人災だった」

市教委による教員と子供たちの避難行動の説明は二転三転した上に、早い段階での明確な謝罪の言葉もなかった。学校関係者の行政上の処分もされていない。

同じ6年生の三男雄樹君を失った父親の佐藤和隆さん(46歳)も、「未来を奪われた子のためにも、真実が知りたい」と訴える。

「遺族の中には、自分たちの子供全員をあの現場で失った人も大勢いる。学校側の無責任な態度にあきれ、『責任を追及しても子供が帰ってくるわけではないし、早く忘れたい』と諦めかけている親もいます。けれども、多くの人は納得などしていません」

東北の地方紙『河北新報』の記者時代に石巻市界隈を長く担当し、退職後の現在も大川小の取材を続けるジャーナリスト相沢雄一郎氏は、「『子供の命を守り抜く』という発想がなかった。マニュアルの不備や避難行動のずさんさから考えて、大川小のケースは人災だった」と話す。

遺族たちの声を受け、今年に入ってようやく、文部科学省が主導して防災学者、弁護士らによる第三者機関「大川小学校事故検証委員会」を立ち上げ、2月に初会合を開いた。検証委員会では今後、遺族や学校関係者への聞き取りや当日の避難行動の調査、震災後の遺族への対応についての検証を重ね、6月に中間報告を出す予定だ。二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも、また教育現場への信頼を少しでも回復するためにも、徹底的な真相究明が求められている。

大川小の校門前に設置された供養塔

南三陸町:「さんさん商店街」に復興への光

南三陸町役場「防災対策庁舎」。津波が建物を襲った際に屋上に避難した約30名の町職員のうち、生存者は10名のみだった。

石巻市の北方に隣接する南三陸町に向かった。この地には被災直後の2011年3月に訪れ、十数メートルもの大津波によって壊滅状態になった海岸部の現場を取材した。死者・行方不明者は約800人に及ぶ。志津川地区の中心市街地に向かうと、大量に積み上がっていたがれきはほぼ片付けられていた。町職員ら42人が津波に流されて犠牲となった「防災対策庁舎」をはじめ、いくつかの建物が残されているのを除けば、ほとんどが更地になってしまっている。縦横に走る道路では、やはり復興工事のトラックがひっきりなしに行き交っていた。

港から1.2キロほど内陸に進むと、商店が集まる一角にたどりついた。2012年2月にオープンしたプレハブの仮設商店街「南三陸さんさん商店街」だ。飲食店、文房具店、美容室をはじめとする約30店舗が軒を連ね、復興の息吹を感じさせる。今年2月25日には、1周年イベント「牡蠣(かき)まつり福興市」を開催。旬のカキや特産品が販売され、町内外からの訪問客でにぎわった。

被災者のために頑張る「町のパン屋さん」

明治43(1910)年創業の老舗のパン・洋菓子店「雄新堂」も、仮設商店街に加わった店舗のひとつだ。4代目店主の阿部雄一さん(48歳)は、感慨を込めて話す。

「志津川の市街地にあった店が流されてしまい、希望を失いかけた時、避難所で多くの町民が『雄新堂さんのパンが食べたい』と言ってくれたんです。『これが自分の役割かな』と思い、10年前に製造を中止していたパンを復活させて、洋菓子とともに販売することにしたんです」

ほかの商店主同様、阿部さんも数多くの親類や友人を津波に奪われた。だが、昔からの馴染(なじ)み客である町民たちに支えられて、なんとか再開にこぎつけたのだ。

町内の復興事業が本格化したといっても、多くの若者は町を出て行ってしまった。特に高齢の被災者の中には、仮設住宅住まいで将来への不安を抱え、ふさぎ込んでいる人も少なくない。仮設住宅は高台に建てられているため、平地にある仮設商店街までなかなか足が向かないのだという。

「それでも、パンが主食の町民がかなりいるので、うちの店は重宝されています。商店街仲間と協力して、移動販売でこちらから出向くとか、イベントをもっと開くなどして、地元客を呼び寄せたい」

「町のパン屋さん」をイメージさせる白衣を身に着けた阿部さんは、最後にこう抱負を語り、笑顔を見せた。

仮設の「南三陸さんさん商店街」に店を出すパン・洋菓子店「雄新堂」の阿部雄一さん

松島町:町政がようやく「復興」の段階に

「日本三景」のひとつ、松島で知られる松島町も訪れた。これまでの被災地取材でも必ず立ち寄ってきた地だ。比較的被害が小さかった地域だが、震災関連死を含めて21人の犠牲者が出ている。

久しぶりに面会した大橋健男町長の表情は、震災から数カ月後の初対面のころに比べれば、幾分和らいだように見えた。

「あのころは被災者対応に追われていたが、2011年度中には復旧にメドを付けた。今後は復興に本腰を入れ、道路や港の再生、さらに町民の避難経路の整備といった具体的な事業に取り組んでいきたい」

海外からの観光客も多い松島らしい、こんなエピソードも聞いた。震災をきっかけにした国際交流があったという。

米ノースカロライナ州在住のキャサリン、ミシェル、エリック・ポールさん一家3人が松島を旅行中に被災し、大混乱の中で、町民たちに助けられて無事帰国できた。一家は親類と共に「松島救済基金」を立ち上げ、義援金265万円(3万3000ドル)、ストーブ、家電製品といった金品を寄付し、昨年夏には、松島町内の中学生10人をホームステイに招待した。今夏には、大橋町長自身が現地に赴き、海を越えた交誼を深める予定だ。

「国には引き続き予算を十分に付けてもらいたい」

宮城県松島町の大橋健男町長

大橋町長によると、被災から数カ月間は、予算や人員の面などで支援すべき国の動きは鈍かった。例えば、町道補修で補助を申請する際にも、認定までには煩雑な手続きと多くの日数が必要だった。2011年末に復興方針の根幹となる町の震災復興計画を策定し、1年前に復興庁が発足して以降は、各種手続きが迅速化し、復興事業にやっと弾みがついたという。

それでも、町財政について決して楽観視はできない。町の2011年度の一般会計決算は94億円となり、50~60億円規模だった震災前から6割ほど増えた。2012年度には162億円に跳ね上がり、2013年度には190億円もの一般会計当初予算案を計上している。増大分のほぼ全額が復興関連に使われる。復興庁が窓口となる国の復興交付金による事業は、2012年11月時点で、災害公営住宅整備や漁港施設機能強化など36件を数える。大橋町長は続ける。

「各事業とも設計、調査が終わり、これからいよいよ着工段階に入る。どれも住民のライフラインに関わる事業だけに、国には引き続き予算を十分に付けてもらいたい。同時に、町として、雇用確保のための企業誘致や、海外各地からの観光客の獲得に尽力する」

観光資源に恵まれた松島とはいっても、漁業者の高齢化や人口減といった課題を抱える小規模自治体だ。現在の人口は約1万5000人。基幹産業のひとつである観光をみても、震災前には年間約360万人だった観光客数は、2012年には260万人に激減している。

安倍晋三政権は、2013年度予算案で、復興予算を管理する復興特別会計について、2012年度より6千億円多い4兆3840億円とした。当初は5年間で19兆円としていた復興予算の総枠は25兆円に拡大した。被災自治体の大半は、もともと過疎化や高齢化が進んでいただけに、自力復興が困難な状態であり続けている。国は、原発問題に苛(さいな)まれる福島県を含め、苦難の中にある被災者の生活の「完全復興」まで、きちんと見届ける責務がある。

(2013年3月6日 記、写真撮影=コデラケイ)

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  • [2013.03.12]

ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。『北海道新聞』の記者を経てフリーに。『AERA』『中央公論』『新潮45』『プレジデント』などの雑誌を中心に人物ルポ、社会派ルポなどを執筆。著書に『速記者たちの国会秘録』(新潮新書/2010年)ほか。

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