特集 第1次大戦100年と日本
第1次大戦後の大国間協調と日本外交

櫻井 良樹【Profile】

[2014.07.11] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

20世紀の二つの世界大戦に挟まれた時代、日本は帝国主義的な外交路線から国際協調路線に基づく新外交への道を模索していた。第1次大戦後の国際社会と日本外交を解説する。

第1次世界大戦後から1920年代の日本は、それまでの帝国主義的な外交路線を転換し、世界的軍縮の流れに沿い国際協調に努めるとともに、中国に対する内政不干渉政策を追求した。これは不利になった国際環境のもとで日本が追い込まれた結果であるというイメージがあるが、それは日本なりの新外交への対応であったことを述べたい。

第1次世界大戦が積極化させた自立的“対中外交”

今からちょうど百年前の第1次世界大戦の勃発は、日本の対外政策、特に東アジア政策に大きな影響を与えた。1912年の清王朝の崩壊以後、中国の混乱が始まり、日本の中国政策は積極化、かつ多様化した(「辛亥革命が日本政治に及ぼした影響」)からである。しかし諸列強間の利害対立が激しい環境下では、日本が列強より優位に立つことは困難であった。日本は、イギリスとロシアとの協調の下で、漸進的に中国大陸に対する影響力を増大させるような政策をとらざるを得なかった。

ところが1914年8月に世界大戦が勃発すると、欧州列強諸国は戦闘にかかりきりになる。一方日本は、日英同盟の誼(よしみ)をもって連合国側で参戦したが、当面の戦闘は中国におけるドイツの根拠地である山東半島の青島を陥落させるだけであり、わずか2カ月ばかりでドイツ軍は降伏して戦闘はやんだ。

その後、第2次大隈重信内閣は、山東半島旧ドイツ権益処分(第一号)や、期限が数年後に迫っていた遼東半島租借権や南満洲鉄道経営権の延長(第二号)、漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)の日中合弁化(第三号)、中国沿岸の港湾・島嶼不割譲の件(第四号)を含む対華21カ条要求を、袁世凱政権に突きつけた。これには希望条項(第五号)として日本人の政治・財政・軍事顧問の雇用や、警察の日中合同化、兵器の共通化、武昌と九江南昌線を連絡する鉄道敷設権、福建省の鉄道・鉱山・港湾設備に外資導入の際における日本との事前相談など様々な要求が盛り込まれていた。

このうち第一号はドイツ降伏にともなうもの、第二号・第三号は懸案事項であった。しかし第五号には中国における日本の影響力を格段に高めるものや、列強の利害を損なうおそれがあるものもあり、これまでの情勢下では要求できるものではなかった。第五号は、英米の反対もあり撤回されたが、他の条項は最後通牒を発して中国政府に受諾させた。

以上のように第1次世界大戦は、日本の対中外交を、自立的かつ積極化させた。このような積極的政策は、次の寺内正毅内閣に引き継がれた。ただしその方法は、大隈内閣のような威圧的なものではなかった。中国政府(段祺瑞政権)を借款政策(西原借款)により援助して、日本に引きつけることにより、日本の影響力を高めようとするものであった。またこれは資源供給地としての中国に注目し、日中間の経済関係の緊密化を目指すものでもあった。このように世界大戦期の日本は、自由な立場で中国政策を進めることができたのである。

パリ講和会議と「サイレント・パートナー」日本

1918年11月11日の休戦は、日本における原敬内閣成立の約40日後のことであった。原内閣の最初の仕事は、世界情勢の変化に対応することであった。原内閣は、西原借款を中止するとともに、10月29日に対中内政不干渉を方針とすることを決定した。まったくの偶然であったが、今日からみた時には、世界の変化を予見していたような政権交代であった。大戦の終結は、日本が列強諸国の意向を配慮せずにフリーハンドで対中国政策をリードできるという環境を奪うことになる。

講和会議は1919年1月から開催された。主要問題の討議はアメリカ、イギリス、フランス、イタリアに日本を加えた五大国によって進められたが、日本のプレゼンスは大きくはなかった。日本全権は、ほとんど発言しなかったため「サイレント・パートナー」と評された。これは会議に臨む日本の方針が、日本に直接関係する問題(具体的には山東半島および南洋諸島の旧ドイツ権益処分に関する問題や人種平等案)以外については、積極的に関わらない方針であったことにもよる。これは国際協調を基本に、世界の大勢を慎重に見極め順応していこうとする原の政治的判断に基づくものであった。

講和会議をリードしたのは、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領であった。大統領が前年1月に唱えた14カ条は、これまでの帝国主義外交を否定して平和主義的外交を指向し、正義人道に基づく道義外交を提唱したものであった。ヨーロッパにおける戦後処理のほかに、秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備の縮小、植民地問題と民族自決に関する提案、国際的民主主義の理念に基づく国際機関の創設を謳(うた)っていた。その提案は、討議の過程で骨抜きにされていったが、その外交理念(新外交理念)は日本に影響を及ぼした。浮田和民(うきた・かずたみ)という著名な政治学者は、これまでのような自国のみを神聖とみなし他国を無視するような国家主義思想では世界平和は成立させることはできない、日本は世界の大勢に順応し、世界組織の一員という観点を持つことが必要だと主張した(1919年「文明改造の道徳的方面」)。

日本政府は、現実的な判断から、日本にとっての最低限の利害さえ守ることができれば良いと考えて行動した。そしてそれが確保できたので、欧米、特に新しく世界をリードすることになったアメリカの重要性に鑑み、英米との協調に努める方針を取ったのである。そして英米両国を中心とする国際協調方針は、1920年代を通じる日本外交の基調となった。

ワシントン会議後、日本が取った国際協調路線

パリ講和会議の主要問題はドイツの敗戦処理であり、この結果形成されたベルサイユ体制は、主として戦後ヨーロッパの体制を指すものであった。アジアの問題について議論は主要なものではなく、中国問題は切り捨てられた姿であった。1921年11月からのワシントン会議では、海軍軍縮条約のほかに、太平洋権益と軍備の現状維持を英米仏日が約束しあった四カ国条約と、中国の門戸開放・領土保全などを定めた九カ国条約が調印された。また日中間に山東懸案に関する条約が結ばれ、山東半島の旧ドイツ権益返還と山東鉄道沿線からの撤兵が合意された。新しくできあがった東アジア秩序は、ワシントン体制と呼ばれている。ただしその内容は、列強間の現状維持的な取り決めで、中国の犠牲の上に成り立っていたという評価もなされている。

ワシントン会議に臨む日本政府(開会直前に原首相が暗殺されて高橋是清内閣に交代した)の方針は、アメリカの対中外交原則である門戸開放政策は受け容れるものの、既得権益の擁護に努めるというものであった。軍縮については、海軍の一部に反対はあったものの、対英米6割の主力艦保有量制限に財政状態を考慮して同意した。九カ国条約は、第1条で中国への非侵略主義を謳(うた)っており、これは日本の大戦中の行動を否定するものであったが、日本の南満洲権益を否定するものではなかったので、日本も同意した。

以上のように第1次世界大戦後の日本外交は、国際協調を根幹に、平和主義的な流れに従ったものであった。このような政策を取った理由は、日本が外交的に孤立し、シベリア出兵の失敗によって追い込まれていたためだと言われている。日英同盟は更新されず、大戦中にほぼ同盟国化したロシアは崩壊していたこと、中国問題をめぐってアメリカとの対立が厳しくなっていたという理由によるものである。

中国の主権尊重で影響力保持を模索した日本

しかしこの時期の日本は、国際協調に基づく中国政策を一歩進めて、戦略的に積極的に中国政策を展開しようとしていた側面があったことを忘れてはならない。

1919年のパリ講和会議に臨む方針を議論した12月8日の臨時外交調査会で、次のような議論があった。日本の中国政策に「新生面を開き新地歩を樹立」するには、治外法権の撤廃や中国に駐屯する軍隊の撤退などを日本が率先して提唱していくことが、今後の中国政策にとって有利であるというものであった。これは今後も日本が中国に対して影響力を保持するためには、内政干渉をやめて、中国の独立と主権を尊重し中国の発展を期するというアメリカの中国政策を先取りして実行することが必要だとする考え方であった。ただし講和会議では、これに関する議論はなされてはいない。

この時期の日本は、満蒙への影響力を確保することが重要であった。長城以南の中国本土は事実上の内戦下にあり、日本が内乱に干渉し深入りすることは、列強諸国の同様な行動を誘発し、列強による中国分割を招くおそれがあった。現に中国の国際管理という列強の動きもあり、これは日本としては避けねばならない事態であった。そうならないためにも、日本は率先して中国の混乱回復と統一についての努力を信頼して、暖かく見守る方向へと進む必要があったと言える。

この方向性はワシントン会議以後にも継続され、1922年6月末には漢口からの駐屯軍撤退がなされた。さらにその前月の5月30日には、北清事変以来ずっと華北に駐屯していた駐屯軍を撤退させるという閣議決定までした。これは第一次世界大戦中の行動により悪化した日本の国際的立場を回復するために、日本が率先して中国に対して好意や恩恵を示すことにより対中政策を有利に導こうとする方向に転換しつつあった外務省や陸軍の姿勢の表れであったことはいうまでもない。

だがイギリスは賛成せず、日本単独でそれを行うことは国際協調からの逸脱の可能性が高かったために実現しなかった。しかしこれは、日本は追い込まれた立場に立たされていた結果、ワシントン体制を受け入れざるを得なかったという評価を覆すものであり、日本なりにワシントン体制を利用して新たな道を探っていたということもできよう。

(2014年6月30日 記)

タイトル写真=1919年パリで開かれた第1次世界大戦の戦後処理のための国際会議の光景(提供:TopFoto/アフロ)

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  • [2014.07.11]

麗澤大学外国語学部教授。1981年上智大学文学部史学科卒業、88年上智大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(史学)。著書に『大正政治史の出発-立憲同志会の成立とその周辺-』(山川出版社、1997年)、『辛亥革命と日本政治の変動』(岩波書店、2009年)、『加藤高明』(ミネルヴァ書房、2013年) など。

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