震災復興の現実

震災遺児の心に寄り添う:「一番つらいのはこれから」

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東日本大震災で親を亡くした子どもは1700人以上に上る。心の傷を負った震災遺児・孤児たち。息の長い支援の取り組みと、地域・社会の支えが必要だ。

気持ちの整理がつかない被災児たち

震災発生から4年がたち、3月には被災地の「復興」があらためて社会の注目を浴びた。メディアには「頑張っている子ども」「夢に向かって進む子ども」の姿が取り上げられる。だが、多くの子どもにとって、この4年間は次々と起こる環境の変化に飲み込まれる日々。まだまだ気持ちの整理ができていない状況だと強く感じる。

中学生や高校生の引きこもりや不登校の増加。学校に行くには行ってもカバンの中に教科書が入っていないとか、空虚な気持ちで生きている子、「死にたい」と口に出す子もいる。阪神・淡路大震災(1995年)の遺児・孤児の家族は、震災発生から3、4年後が「一番大変な時期だった」と振り返っている。直後は「しっかりしなければ」「生きなくては」と必死だが、つらい状況が落ち着いてしまい、希望がなくなるように感じる時期だ。東北の人は全般的に辛抱強いが、心のケアを本当に必要とする「大変な時期」は、いよいよこれからやってくる。

“黒い虹”の絵が原点:心の傷をいやす取り組みを

あしなが育英会では2014年、震災遺児・孤児の心のケアを継続して行う施設「レインボーハウス」を宮城県仙台市、石巻市、岩手県陸前高田市の3か所にオープンした。週末や学校の夏休み、春休みなどに日帰り、宿泊の「つどい」を行い、子どもたちが安心・安全な場所で人の目を気にせず、遠慮なく泣けて悲しみをはき出し、心の中のもやもやを含め、辛さ、悲しみ、憎悪も、普段あまり口に出せないことを語り合うことで気持ちの整理をつけ、現在の自分に気付き、次の自分、前に進んでいけるようお手伝いしている。

仙台レインボーハウスの外観

ゆるいカーブの片屋根がユニークな多目的ホール。「避難所を連想させる学校の体育館のようではない」デザインを採用したという。

多目的ホールには「ゆっくりしていたい」子どものための隠れ家スペースもつくった。

感情を発散させる「火山の部屋」。クッション材で壁が覆われ、サンドバッグもある。

最初のレインボーハウスは1999年、阪神・淡路大震災の4年後に、神戸に開設した。きっかけは一人の震災遺児「かっちゃん」の描いた“黒い虹”の絵だった。

育英会では当時、震災遺児・孤児に見舞金を贈り、奨学金の申し込み手続きについて伝える活動を行っていたのだが、95年8月には子どもたちを連れて兵庫県北部の海水浴場にキャンプに行くプログラムを企画した。

そこで「思い出づくりに」とトーテムポールをつくり、横長の板に子どもたちそれぞれが絵やメッセージを寄せた。その時に小学校5年生のかっちゃんは夜空にかかる虹の絵を描いたのだが、最後には虹を黒い絵の具で塗りつぶしてしまうという出来事があった。

かっちゃんは地震発生から9時間、がれきの中に閉じ込められて過ごした。救助の人影は見えていたものの、あまりのショックにしばらく声が出なかったのだという。一家8人が倒壊した家屋の下敷きになり、父と妹が犠牲になった。

私たちは「黒い虹」の絵を見て、学校へ行ってもらおうという当初の目的、就学支援だけでなく、もっと基本的で、もっと重要な「心の傷をいやす」本格的な事業が必要だと痛感した。阪神・淡路の遺児に寄り添ってきた。今回の震災では当初から、「心の傷」「レインボーハウスが必要」と分かっていたので、発生から3年でオープンにこぎつけた。

津波で一家バラバラに。ものすごく重い体験

親を亡くした子どもが、その死を「自分のせいだ」と思い込み、心に傷を抱えているケースはよくある。阪神・淡路の例だが、ある中学生の子が6年たって「自分が宿題をしなかったからお母さんが死んでしまった」との自責の念をポロっと口にした。聞けば震災前日、宿題をしないまま夜になってしまい、母親から「明日の朝やりなさい」と言われたという。翌早朝の地震で、いつもより早く起きて朝食をつくっていた母は亡くなった。私が宿題をしなかったから母は翌朝早く起きた。そして死んだ。殺したのは私だ。まったく因果関係はないのだが、注目すべきはこの子が6年間も、この思いをじっと心の奥にためて過ごしてきたということだ。

ふとした時に「子どもの喪失感」は表に出る。心のどこかで「さみしい」と言いたいのか「親が死んでしまった」ことを訴えたいのか、私には分からない。だが、子どもたちが言いたくなったり、表現したいことを口に出しやすい環境をつくっていきたい。周りの大人がしてあげないと、子どもはこもってしまう。それだけは分かる。

阪神・淡路と違い、東日本大震災は日中に起きた。仕事に出ている親、家にいた祖父母、学校にいる子ども。それぞれバラバラだった一家が安否を確認し、再び集まるまでにさまざまなドラマがある。生きて集まることが出来なかった家族がたくさんあったわけだ。多くは2日、3日もかかっているし、家族が津波で流され行方不明になった人は、1か月から半年も不安な時間が続いた。ものすごく重い体験をしている。本当に傷ついている。

これは震災後間もなく、子どもに関わる仕事をしている人に聞いたのだが、小学校では地震・津波がきたら自分の身を守ることだけを考えて逃げろと。だが助かった上級生には、逃げ遅れた小さい子たちが津波にのまれるのを見てしまった子も多くいるという。中学生が遺体運びを手伝ったとか、避難所の夜中のトイレで性犯罪があった話も聞いた。

我慢する東北の人たち:本当は思いを話したい

もちろん言いたくないことを言う必要はないし、強要してはいけない。だが、「つらかった」「悲しかった」という一人ひとりの思いや叫びは聴いてあげないといけない。東北の人たちはあまりしゃべらないけれど、絶対に話したいと思っている。大人も子どもも。でも近くの人には言えないし、話せない事情がある。

「おれのところはいいんだ。一人しか死んでいないし。一家全員流されたのもいるんだ」と、最初のころの被災者の反応はこのようなものだった。「うちはまだいいんだから、つらいなんて言っていられない」と。特に大人の男性は会う人会う人、みんな気が高ぶって興奮している感じだった。

同じ被災地でも、神戸の人と東北の人は違う。例えば、「子どもたちをリラックスさせようと旅行に連れて行くから、預けてちょうだい」と遺児の親に持ちかける。神戸では「おう分かった、分かった」という反応が多い。

東北の人はまじめというか固いというか、「いまうちの集落に東京のボランティアが来て作業しているのに、うちの子だけ遊びに行かせるわけにはいかない」となる。自分のことは後回しにする。だから心の傷とか、つらさみたいなものは阪神・淡路の時より遅く出てくるのではと感じている。

神戸の人たちの姿が励みに:被災者交流

「あしながおじさん」が大きく描かれたレインボーハウスの壁には、成長する子どもたちの背丈が刻まれている。

2014年に神戸の震災遺児やその家族に呼びかけ、東北の被災者と交流する試みを始めた。このプログラムは遺児の親や祖父母にとり、非常に良い効果をもたらした。

神戸の人たちが話す内容は、決して映画に出てくるようなサクセスストーリーではない。むしろ「つらいことも悲しいこともたくさんあったけど、今日まで生きてきた」という素朴な話。だが、東北の人にとっては「20年後には、自分の子どももこのように大学生になっていたり、社会人になって働いているんだ」と実感できる。だから、すごく励みになったという。

神戸の人たちも自分の体験を話すことにより、自分の人生やこれまでやってきた子育て、孫育てを振り返ることができる。あの時は気付かなかったけど、これでよかったのだと。相乗効果があることを確信した。

本当に手助けが必要な人たちはうずもれたまま

次の大地震はいつか必ず来る。だから子どもの心の傷をいやす方法なり、大人が支えるシステムのノウハウをちゃんと残していく。その必要性をすごく感じる。この東北での取り組みが、次に国内、海外の災害でも活かせるかもしれない。準備をして、みんなが承知しておく。それをしなければ、今回潰えた1万9000人の命に申し訳ないと思う。

今、仙台は復興で、それこそ景気がいい。でも市の中心部からタクシーで20分も行くと震災後に災害指定地区に指定され、今も荒涼とした津波の爪痕が残る荒浜がある。その対照的な光景を、いつも忘れないようにしないといけない。

子どもの問題も同じだ。レインボーハウスのつどいに参加できるような遺児・孤児は、全体のほんの一部。本当に手助けが必要な人たちは、表に出てこずにうずもれている。だが、その子たちにも「ここにこういう場所がある、活動がある」ことを伝えなければいけない。繰り返し発信し続けるしかない。

バナー写真:仙台レインボーハウスの「おしゃべりの部屋」に立つ林田吉司氏。この部屋には円形のソファーとたくさんのぬいぐるみが置かれ、遺児たちがリラックスしてお話ししたり、遊ぶことができる。

東日本大震災