特集 東日本大震災から5年
「安心して住める住宅を」:三陸沿岸部で難航する移転用地造成
仙台と女川、被災地再訪ルポ

菊地 正憲【Profile】

[2016.03.08] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

震災から5年たった今でも、被災地では約6万人が狭いプレハブの仮設住宅に暮らす。大都市の復興が比較的順調に進む一方、農漁村ではばらつきもみられる。宮城県仙台市と女川町で、住宅事情を中心にルポした。

地下鉄開業し、新たな街づくり

2015年12月に開業したばかりの仙台市営地下鉄東西線。その東端の終点、荒井駅の真新しい駅構内に2月、東日本大震災の被害や復興の状況を伝える情報発信拠点「メモリアル交流館」が完成した。地下鉄自体は震災前の2006年に着工しており、急きょ併設されることになった施設で、被災時の写真や年表のパネルを展示している。平日の昼間にもかかわらず、地元住民や市内外からの来客でにぎわっていた。

真冬の青空の下、駅から車で東に4キロほど走ると、津波によって甚大な被害を受けた仙台市若林区荒浜を中心とする太平洋沿岸部に着く。かつては田畑が広がっていたが、今では2階まで浸水した荒浜小学校の廃墟を除けば、見渡す限り荒地が続いている。遠くに復興工事の土砂を運ぶトラックが頻繁に行き来しているのが見える。900人を超す仙台市内の死者・行方不明者の大半は、若林区と隣接する宮城野区の沿岸部の住民だった。現在、両区の海岸部は市の災害危険区域に指定され、安全な内陸の団地への集団移転事業が進められている。その最大の移転先が、荒井駅の周辺地域なのだ。

構想から20年以上を経て昨年12月、開業した仙台市営地下鉄東西線の荒井駅。周囲では再開発事業が計画されている。

荒井駅から歩いて10分ほどの場所には、荒浜地区の住民らが暮らすプレハブの仮設住宅が立ち並んでいた。ただ、ほとんどの入居者は既に、近隣の災害公営住宅(復興住宅)や、市が整備した宅地に自力で建築した一戸建て住宅に移り住んでおり、広大な駐車場もがら空きだ。100万人を超す大都市である仙台市の復興は、もともと予算規模が大きく既存のインフラも整備されていることから、他の被災地に比べて早いとされてきた。市の担当者によると、期間を5年間に設定した住宅関連の復興計画は、ほぼスケジュールどおりに進行しているという。

「狭くて暗い避難所や仮設住宅から、ようやく落ち着ける『本宅』に移ることができました」。 震災後、現在の荒井駅付近の避難所や仮設住宅で計4年半暮らした後、2015年11月に近くの一戸建ての市営復興住宅に引っ越した大学(だいがく)公子さん(73)は、安堵の表情を浮かべた。荒浜の深沼海岸沿いにあった自宅は津波に流され、土地を手放して住宅ローンをなんとか返済した。現在の月額家賃は約3万円。年金と、東京でアルバイトをする夫の収入でやり繰りしている。

「生活は大変です。でも、友人もたくさんいるので、これからは料理や大正琴といった趣味を楽しみながら、前向きに暮らしたいと思っています」

その仮設住宅から歩いて十数分の場所には、巨大な集合型の復興住宅「荒井東市営住宅」が2棟、並んでいる。計約300世帯が入居するこの住宅の町内会長、大橋公雄さん(72)も、30年以上住んでいた荒浜の自宅を津波で失った。避難所を転々とした後、区内の仮設住宅で約3年間生活し、2年前に移り住んだ。

東日本大震災で被災した仙台市若林区荒浜の住民が多く住む災害公営住宅「荒井東市営住宅」

利便性求め、他の被災地から仙台へ転居も

大橋公雄さんは、日中は災害公営住宅の集会所にいるようにしている。「ここは住民の活動拠点。一緒に体操などをして交流しています」

「地域の中核になる地下鉄ができたことが何より大きい。利便性がますます高まっています。女川町や石巻市といった他の被災地の仮設住宅からここに入居してきた人もいます」。地区のまとめ役でもある大橋さんは、住民が皆、辛い被災体験を乗り越えながら、穏やかに過ごせるように願っていると強調した。

「80歳、90歳を超えるような高齢者が多いので、頻繁に声がけしたり、見回ったりしています。仮設でも多かったのですが、ここでも最近、独居老人の孤独死が発生しました。命に関わる事態では応急処置が大切なので、市に心臓発作など救命救急時に使う医療機器のAED(自動体外式除細動器)の設置を要望しているところです」

市営住宅から再び荒井駅に向かった。再開発が始まった駅前地区の一角には、荒井地区で江戸時代から9代続く農家が経営するレストラン「もろやファームキッチン」がある。自宅で2000年に開業し、15年12月に移転してきた。自家栽培の旬の伝統野菜を利用した料理が人気で、地元住民や被災地を訪れる多くの客でにぎわっている。

「もろやファームキッチン」代表の萱場市子さんは「駅前地区の発展に『食』の面で貢献できればうれしい」

「生産者の強みを生かして、食材の本当の味を自ら伝えたいと思い、種をまく段階からメニューを考えています。各料理に合わせて150種類の野菜類を育てています」。 代表の萱場(かやば)市子さん(67)は、にこやかな表情で店の特長を説明した。震災では自宅は無事だったものの、所有する田畑の大半が海水に浸かり、塩害やがれき撤去のため一年ほど休耕を余儀なくされた。

店も休業せざるを得なかったが、数ヵ月後には再開し、友人の田畑を借りて食材を確保し急場をしのいだ。現在地に移転後は、1日の来客数、売り上げが移転前よりも5倍ほどに増えたという。「地下鉄の開業で街並みが大きく変わろうとしています。地元の人と他所から来る人との交流の拠点になればと願っています」

私は震災直後の2011年3月22日、死者・行方不明者数が最も多かった宮城県内の被災地に入り、海岸線の一帯が軒並み壊滅し、がれきがうず高く積み重なる惨状を目の当たりにした。仙台市内もあらゆる都市機能が麻痺し、JR仙台駅の周辺が騒然としていたのを覚えている。肉親や財産を失った住民の心の痛みは消えることはなく、生活面でも最近の人口集中による地価高騰や物価の高さなどへの不満の声も聞かれたが、5年の月日を経た今、少なくとも仙台では復興への確実な足音を感じる。

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  • [2016.03.08]

ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。『北海道新聞』の記者を経てフリーに。『AERA』『中央公論』『新潮45』『プレジデント』などの雑誌を中心に人物ルポ、社会派ルポなどを執筆。著書に『速記者たちの国会秘録』(新潮新書/2010年)ほか。

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