特集 東日本大震災から5年
日英両語駆使し、被災地石巻の“語り部”役に
リチャード・ハルバーシュタットさん
[2016.03.09] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية | Русский |

死者・行方不明者合わせて3500人余り、全壊した建物は2万軒超――。市町村別で見ると震災最大の被災地となった宮城県石巻市で、地元住民の立場で復旧・復興に5年間寄り添ってきた一人の英国人がいる。元石巻専修大学教員のリチャード・ハルバーシュタットさん(50)。2015年3月に、市内外の人々に石巻の被災・復興状況を伝える「市復興まちづくり情報交流館中央館」の館長に就任。日英バイリンガルの“語り部”として、「被災地の今」を発信している。

リチャード・ハルバーシュタット

リチャード・ハルバーシュタットRichard HALBERSTADT石巻市復興まちづくり情報交流館中央館館長。1965年生まれ。英レディング出身。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)日本語学科卒業、レディング大学文学部で修士号取得。1993年より宮城県石巻市在住。2011年3月11日、勤務先の石巻専修大学の研究室で被災。学内、市内での避難生活の中、福島原発事故の影響を懸念する英国大使館から退避・帰国を勧められるが、石巻にとどまって事後対応にあたった。2015年3月より現職。

被災地・石巻の“ビジターセンター”を切り盛り

JR石巻駅から徒歩6、7分ほど。中心市街地の一角に2015年オープンした「復興まちづくり情報交流館」は、石巻の被災状況や復興・再生に向けたまちづくりの状況、震災を教訓にした防災面の知見を展示・発信する施設だ。この1年の来館者は約1万9000人。「実際に被災地に足を運んで、震災の実相を知りたい」という国内外からの訪問者に対応する、“ビジターセンター”的な役割を持つ。

スタッフはリチャードさんを含め3人。英語、日本語ともに流暢で、その発信力を買われて「館長に」と白羽の矢が立った。

「自分はリーダーではないし、人を引っ張っていく性格でもない。それでも、地元の親しい友人から『広告塔になれ』と言われた。『石巻にたくさんの人が訪れ、今後も支援が続いていくように。それはあなたの出来ることだ』と」

リチャード・ハルバーシュタット 震災のような生と死を分ける出来事を体験したことで、自分の人生についてずいぶん考えさせられた。友人も死んでおり、自分は“生かされた”者として、その人の分も生きていかなければならないという思いもあった。情報交流館がオープンして、「これは自分の仕事だな」と実感した。石巻の良い面をPRできるし、バイリンガルということで世間の注目を引ける。被災地を知りたい、震災から学びたいとやってきた世界各国からの訪問者に「英語でまとまった説明を聞けたのはありがたかった」といわれると、非常にやりがいを感じます。

この地で23年、地元の一員に

リチャードさんは大学卒業後、山形県鶴岡市の高校で英語指導助手を2年間経験。すっかり日本びいきになり、帰国して修士号を得た後、1993年に石巻専修大学に職を得た。当初は「この土地になかなか馴染めなかった」が、すぐに転機が訪れる。時はバブル景気の末期。石巻の街おこしの一環として、17世紀に支倉常長ら慶長遣欧使節団が太平洋を渡った仙台藩建造のガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船が建造される。地元の青年会議所(JC)は市民劇団を立ち上げて同船建造にまつわる歴史劇の上演を企画していた。

当時、日本人に西洋式船舶のつくりかたを教えに来た外国人役で「劇に出演してくれないか」――。こんなオファーを受け、「自分を必要としてくれるなら」と快諾した。これを機に、地元の若手商店主らと親交を深め、友人の輪が一気に広がった。一時はJC会員としても熱心に活動。2003年には日本の永住者資格を取得した。

ハルバーシュタット とにかく石巻の人々の「人の良さ」に魅了された。外国人ということで、いやな思いをしたことはほとんどない。「ガイジン」ではなく「リチャードという一人の人間」として付き合ってもらった。お祝いの席だけでなく、弔いの手伝いにも呼ばれるようになって、名実ともに“地元の一員”という意識が芽生えた。

震災後の「帰国勧告」を、途中でUターン

2011年3月11日午後2時46分。リチャードさんは石巻郊外のやや内陸部にある大学の研究室にいた。石巻の揺れは震度6強。猛烈な揺れは5分ほども続き、その後3日間は身動きがとれないまま学内にとどまった。情報はラジオの報道からだけ。市中心部から命からがら避難してくる人々が日に日に増え、その様子から“市内は大変なことになっている”と予測するだけだった。

巨大津波に流され、廃墟と化した市街地に足を踏み入れたのは、3日後の14日。その惨状を見て「壊滅(catastrophe)というのは、こういうことか」との思いが頭に浮かんだという。友人の経営するホテルが臨時避難所の役割を果たしており、リチャードさんはしばらくここに身を寄せる。親しかった友人一家の死を知ったのもこの日のことだ。

石巻市の被災状況データ

震度 6強
津波 最大高8.6メートル(気象庁発表:鮎川浜のデータ)
=編集部注:市では高さ20メートルを超えた場所も把握している=
浸水面積 73平方キロメートル(市の13.2%=平野部の30%=)
死者 3178人
行方不明者 422人
建物被害 全壊2万0039棟、半壊1万3047棟、一部損壊2万3615棟、計5万6701棟
避難者 最大5万0758人

(2016年1月、石巻市の資料による)

3月17日に携帯電話で受けた電子メールを、リチャードさんが私に見せてくれた。発信人は東京の英国大使館。至急連絡がほしいとの用件だった。当時は東京電力第1原発事故による放射性物質の大量放出が懸念されており、大使館は“最悪のケース”を想定し、被災地と東日本一帯に住む英国人に国外退避を勧めていた。19日に大使館員らの迎えで仙台に向かったが、「一晩中かけて考えた末に」帰国を断り、石巻に戻る決断をしたという。

ハルバーシュタット 友人の中には「英国に戻って、向こうで石巻への支援物資をかき集めることが今のお前の仕事だ」と背中を押してくれた人もいた。しかし、友人が一番苦労している時にここを離れたら一生後悔する、自分で自分を許せなくなるだろうと思った。涙の別れで仙台まで来たものの、やはり友人とともに石巻を復旧させたいという思いの方が強かった。震災後ずっと十分な睡眠がとれていなかったが、石巻に戻った20日の夜は久しぶりに心安らかに眠れた。自分で「正しい選択をした」と安心したからではないかと思っている。

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