日本の国際化に不可欠な女性力——ヴェネチア・ビエンナーレ・コミッショナーの太田佳代子さん

文化

厳しい国際建築の舞台で活躍するヴェネチア・ビエンナーレの日本館コミッショナーの太田佳代子さん。豊富な体験の中から、日本の変革のために“女性力”が不可欠であり、若い女性たちに「自分」を発信し続けるようにと語る。 

太田 佳代子 ŌTA Kayoko

建築キュレーター/第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館コミッショナー。 2012年まで10年間、オランダの建築設計組織OMAのシンクタンクAMOで展覧会の企画運営と書籍編集に携わる。2010・2006年ヴェネチア建築ビエンナーレ「Cronocaos」「The Gulf」(共同)、2005~2009年プラダ「Waist Down」、2003・2004年OMA-AMO回顧展「Content」、2009年深圳・香港都市建築ビエンナーレのキュレーターを務める。編集したおもな書籍にProject Japan: Metabolism Talks… (Taschen 2011,平凡社2012)、Inside Outside: Petra Blaisse (The Monacelli Press, 2009)、Post-Occupancy (Editoriale Domus 2005)など。2004-05年DOMUS副編集長。1993年まで建築・都市ワークショップ共同主宰、「Telescope」共同編集。

私の特徴は「アウトサイダー」

——ヴェネチア・ビエンナーレの日本館、初の女性コミッショナーということで、ご苦労があったのでは?

いや、それが今回はリサーチや資金集めで建築界のあらゆる方々に加え、大企業や財団の方々にもお世話になったんですが、むしろ女性として応援されている感触がありましたね。しかし、ほかの国のナショナルパビリオンを見ても女性のリーダーはまだまだ少ないです。

——総合ディレクターのレム・コールハース氏(※1)との出会いは?

彼は1988年に東京での個展の際に初来日したんですが、当時私は仲間と建築のインディ雑誌「Telescope」を出版していて、すぐに日本初のインタビューを申し込んだのが出会いでした。当時の彼は『錯乱のニューヨーク』の著者として有名でした。

その後しばらくして、OMAの大回顧展がベルリンのナショナルギャラリーで開かれることになり、そのキュレーションの依頼を受け、2002年にオランダに渡って以来10年間、OMAのシンクタンクAMOで仕事をしました。

——それ以前はどのようなお仕事を?

大学卒業後に私は、建築家黒川紀章のもとで国際会議や展覧会の仕事をしていました 。大学の専攻は国際法でしたが、現代美術や建築が好きで、建築設計事務所の就職を目指す変わり種でした。もちろん建築を専門的に勉強していないので、以来ずっとアウトサイダーでやってきたわけです。私には常に文化的な異質感、違和感のようなものがあって、そのアウトサイダー的感覚が何かの役に立つはずだという変な直感がありました。今でも頑固にその直感に従っております。(笑)

中国、韓国が増え、日本は減るばかり

——OMAはかなり国際的な集団でしょうね。

スタッフは非常に多国籍ですべての大陸からやってきています。昔は随分日本からも修行のためにOMAに来る人も多かったのですが、今はほとんどいない。中国勢、韓国勢に取って代わられているのは残念なことです。

——女性はたくさん働いていますか?

はい、4割程度が女性です。OMAで女性・男性の区別を意識したことはないですね。しかし建築界全体でみると、妹島和世さんが2010年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の総合ディレクターに選ばれ、女性初・アジア初の選出として世界的な話題となったことが示しているように、国際的にみてもまだまだ男性中心であるのも事実です。

レム・コールハースらとともに作った『Project Japan』。日本で起こった世界最後の前衛運動といわれる「メタボリズム」の群像と社会背景を描いている。

建築「100年の歴史を振り返る」という大テーマ

——今回の展示のねらいは何ですか。

ヴェネチア・ビエンナーレには、ナショナルパビリオンが66館、そして総合ディレクターが展覧会をする2つの主会場があり、 基本的にナショナルパビリオンは各国の自主制作。今年は総合ディレクターであるコールハースが、このビエンナーレで力を合わせてグローバルなリサーチにしませんかと呼びかけたところ、ほぼすべての国が賛同したんですね。リサーチのテーマ「近代の吸収:1914-2014」をもとに、それぞれの国が100年の歴史を振り返りながら、近代化が進むにつれて建築がどう変わったのか、それまでの建築の伝統や個性がどう失われていったのかを探ろうということです。これはビエンナーレの歴史の中でも初めてのことで、非常にうまくいったと思います。

——日本館が70年代の建築に焦点を当てたのはなぜですか。

近代化していく社会に対して日本建築が異議を唱えた時代がなかったかどうかを見直したところ、70年代がまさにそうだった。

今では世界的に有名な安藤忠雄さん、伊東豊雄さんたちが社会における建築家という職業の存在意義を根本的に問い直した時代でした。みんな自らラディカルな行動を起こして変革を唱えたんですね。今の日本ではそういうエネルギーが感じられません。70年代に起こったことを通して、現代社会に向き合う若い人たちに新しいエネルギーを与えられるような展覧会ができたらいいなと考えました。

今後、日本はアベノミクスで社会が上向いて、建設界もバブル期のときのように忙しくなるのかも分かりません。でも根本的な課題が解決されないままに、表面的に豊かになって行く状況はどうなんでしょう?だからこそ、もう一回見てほしい。70年代、若い建築家や歴史家たちが起した変革運動を。自己批判も含め、社会と建築のつながり方を根本的に問い直し、自分たちに本当に必要なものは何かを徹底追究した彼らの行動を。

楽天的すぎる雇用の“男女比”に疑問

——アベノミクスという言葉が出ましたけれども、造語で「ウーマノミクス」があります。日本の女性雇用に関してどう見ていますか。

単に女性が増えれば何かが変わるという期待はあまりにも能天気な話です。組織が昨日までの価値観や考え方を否定することになりますから、そう簡単にはいかないでしょうね。アメリカでは黒人を何パーセント、ヒスパニックを何パーセント入れるという方法が実践されていますが、批判も起きています。日本の男女比率も同じことで、女性管理職が数字の上で増えるだけでなく、内容がついてこないと。いきなり女性を管理職に引き上げても限界があって、組織全体の価値体系の変革とセットでないと意味がないでしょう。

——どのようにして国際的な感覚を習得したのですか。

高校時代、交換留学生としてアメリカで生活したとき、二つの言葉を話すことで、思考だけでなく自意識さえ変わることを身をもって体験しました。日本語で話す自分と英語で話す自分の距離に最初は葛藤を感じるものの、だんだん調整されてきて、異なる価値や文化の体系の間を巧みに横断することができるようになっていく気がするんですね。ほとんど無意識のレベルですが。そういう複眼的なバランス感覚が、国際的な感覚と言えるのかも知れません。

OMAはオランダでもみな英語で話すんです。そこに10年いた中の7年目にして、コールハースに「最近、急に英語がうまくなったね」と言われたんですね。私にはあまり自覚がなかったのですが、 結局、7年の西洋生活でものを伝えたりアピールしたりするコツが身体的に掴(つか)めた時期と重なる。逆に日本的な特徴が急にいろいろ見えてきた時期でもありました。

丁寧すぎる日本のプレゼンテーション

——日本の対外発信はどう評価されますか。

OMAのように、世界から優秀な人材が集まって切磋琢磨し合う環境にずっといると、日本のコミュニケーションやプレゼンテーションの特徴がよく見えるようになりました。素晴しい点もたくさんありますが、何でも丁寧かつ慎重にやりすぎることは障壁であるように思えます。美意識も情報量も知的能力も高いけれども、それを効果的に相手に伝えられるかというと、丁寧すぎて表面だけ目立ってしまい、奥深いところは伝わらない、時間切れで結局真価が伝わらない。内側で気を配り過ぎて、外側でとても損をしている、と言えるかも知れません。

丁寧であることは裏を返せば形式的であり、本質と繋がっていない。なにも丁寧さや美意識を捨てようということではなく、もう一つ新しい技術を習得すれば日本の発信力は強まるんじゃないか、もっと面白くなるんじゃないかということです。

アジア都市競争のために「ギブ」は不可欠

——国際化を叫ぶ日本ですが、現状は追いついていない気がしますが。

日本社会はまだまだ外国人が溶け込みにくいものです。東京では国家戦略特区が開発中で、2020年までに都心部もかなり変わるでしょう。しかし、オリンピックをゴールに据えた単純な開発思考では、これまでの歴史と失敗の繰り返しになってしまいます。「国際化」がこれまでの薄っぺらな意味を脱して、もっと実質的に変わる必要がある。寛容性や忍耐、価値観の変換も求められるでしょう。そうしないと国際社会に開かれていかないし、アジア経済圏での都市競争に勝つこともできないと思います。

——そういうところで、ますます女性が必要になってくるんじゃないですか。

有益というか必要な力になるのは間違いないと思います。たとえば理屈では説明しきれない、言葉を超えた直感的な発想とか、ものごとをウルトラC的につなげてしまう力というのは、女性の潜在能力ではないでしょうか。

メッセージは「自分を消さずに外に出す」

——今後は日本をベースにされるのですか。

今はアジアにいるのが一番面白いんじゃないかと思っています。国際的なベースとして東京は課題も多いながら新しい可能性もある。私の場合、どこにでも付いてまわる異邦人の感覚がもう身体の一部のようになっていますが、これまでの経験も併せて、これからはアジアで活かしていきたいと思っています。

——最後に日本女性へのメッセージを!

「自分」というものは毎日更新していけるものなんだということを伝えたいと思います。たいていの人は、自分はこういう人間、こういうタイプ…、となんとなくイメージを決め込んでいると思うんですが、本当は決して固定されたものではなく、想像以上に変えていけるものだと思うんです。女性だから、と決めつけるのは止めたほうがいい。もっと自分を客観的に見たり試してみたらどうでしょう。もっとわがままになっていいと思うし、戦略を持ってしたたかに進んでほしいと思います。今はそれが求められている時代でもありますから。恐れないでとにかく発信してみる、表現する、ぶつける。言葉に出して伝えない限りは何も伝わらない、何も起こらない。社会の骨格を変えていく一歩は、発想を転換して「自分」というテリトリーを広げていくことかも知れません。これは私自身へのメッセージでもありますが。

ヴェネチア・ビエンナーレ(Venice Biennale)

イタリアのヴェネチアで、1895年から開催されている現代美術の国際博的なイベント。2年ごと奇数年に行なわれ、6月から11月まで開催される。展覧会は国単位で出展、毎回コミッショナー(展示企画者)と代表アーティストを選出し、ヴェネチア市内の会場内に建つ恒久パビリオン、恒久パビリオンを持たない国は市内中心部のあちこちに会場を設け、展示を行なう。日本政府がはじめて公式参加したのは1952年、吉阪隆正による日本館は1956年に完成したもの。

国際建築展は、同じ形式で1980年から美術展が開催されない年に不定期に開催され、今年2014年が第14回展。ビエンナーレ全体の企画、方向性を決める権限を持つ総合ディレクターには、レム・コールハースが就任。総合テーマは『ファンダメンタルズ(根本的なこと)』。日本館のコミッショナーには女性初の太田佳代子氏が選ばれ、「In the Real World: 現実のはなし~日本建築の倉から~」をテーマに展示が行なわれている。

展示の最優秀賞として「金獅子賞」が与えられる。2014年は韓国館が初めて金獅子賞に輝いた。日本は、1966年「版画」で池田満寿夫氏、2012年の建築展で東日本大震災を考えた日本館「ここに、建築は、可能か」で建築家・伊東豊雄氏ら、2009年の美術展でオノ・ヨーコさんらが金獅子賞を受賞している。

第14回ヴェネチア•ビエンナーレ国際建築展
2014年6月7日〜11月23日
http://www.labiennale.org/en/architecture/

(2014年7月17日のインタビューを基に構成。インタビュー・コーディネート=矢田明美子、撮影=五十嵐一晴)

(※1) ^ レム・コールハース(Rem Koolhaas、1944年~ )は、オランダの建築家、都市計画家。2000年にプリツカー賞、2003年に高松宮殿下記念世界文化賞、2010年にヴェネチア・ビエンナーレの金獅子賞を受賞。ロッテルダム、ニューヨーク、香港等に拠点を置く建築設計事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture) とその研究機関AMOを率いる。もともとジャーナリストであった彼は、現実に密着し徹底したリサーチにより都市と建築の在り方を探る独特のアプローチをとる。彼の初の著作『Delirious New York』(1978、邦訳『錯乱のニューヨーク』)は、現代都市•建築論を考える上での必読書となっている有名な一冊。新国立競技場の設計にあたるザハ•ハディドなど、OMA出身の著名建築家も多い。2014年ヴェネチア•ビエンナーレ国際建築展の総合ディレクターであるコールハースは、各国共通テーマとして「近代化の吸収:1914-2014」を掲げ、各国それぞれが歴史を考察し、建築の現在を再構築し、その未来を想像するために、建築の本質的な豊かさに立ち戻ることを試みている。

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