「軽」の評価は時代とともに変わった——鈴木修・スズキ会長兼社長
[2015.01.06] 他の言語で読む : 简体字 | 繁體字 | العربية |

国内の新車販売台数の約4割が軽自動車という人気ぶり。市場にはOEM供給を受けたメーカーを含め8社が激戦を繰り広げている。その中で首位を争う大手メーカー、スズキの鈴木修会長兼社長は社長・会長として30余年、経営の一線に立つ。今も「中小企業のおやじ」を自任するカリスマ経営者に、クルマづくりの哲学や今後の展開をうかがった。

鈴木 修

鈴木 修SUZUKI Osamuスズキ株式会社代表取締役会長兼社長。1930年、岐阜県下呂市生まれ。中大法卒、銀行勤務を経て、1958年4月、スズキ自動車工業(現スズキ)入社。2代目社長、鈴木俊三氏の娘婿となる。1978年に社長、2000年6月から会長。2008年12月に再び社長を兼務。徹底した現場主義にこだわり、30年間で売上高を社長就任時の約10倍の3兆円企業に育て上げた。主な著書は『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済出版)など。

織機の製造からスタートした会社

——2014年3月期の業績は連結決算の営業利益が過去最高の1877億円と好調でした。軽自動車分野でスズキの強さの秘密は何でしょうか。

「うちは1909年に織機メーカーとしてスタートしました。それが1945年の敗戦後まで続くわけですが、1950年までは鍋・釜で糊口(ここう)をしのいできました。浜松は当時、雨後の竹の子のように、60社くらいがオートバイを手がけていたと聞いています。それには、戦前からの航空機産業が浜松に残っていたこと。さらに、旧制の浜松高等工業(現静岡大学工学部の前身)があり、その卒業生が人材としてプラスになったこと。この二つが大きな要因だったと思います」

「オートバイづくりを始めた当初、エンジニアの99%は浜松高等工業卒の設計技術者でした。さらに、国鉄(現JR東海)の中部鉄道学園(現、JR東海浜松工場)出身の職人、いわゆる「匠」の皆さんが現場を担い、人的な面で三位一体のオートバイ産業が盛んになった。その一方で、当社の創業者が1936年に英オースチン車を買って分解し、自動車の研究を始めた。織機はほとんどが鋳物で、30年から40年と大変長持ちするので代替需要が少ない。そこで、織機製造の技術を自動車づくりに応用しようと目をつけたのは、トヨタさんと同じだったようです」

織機メーカーとしてスタートしたスズキ

会社存亡の危機も商品寿命も25年周期

「わたしは1958年にスズキに入りましたが、それまでに浜松のオートバイメーカーは多くが淘汰され、ホンダ、ヤマハとスズキの3社が生き残った形でした。わたしは会社存亡の危機も商品寿命も25~30年周期で訪れると考えています。スズキの場合、織機から国内でのオートバイ製造・販売を手掛け、その後、オートバイの輸出・現地生産を始め、それとオーバーラップして軽四輪事業に手を広げていきました。ですから、国内のオートバイで30年くらい飯を食い、その後はオートバイの輸出で飯を食い、更に四輪自動車で飯を食ってきたということです」

——二輪から軽自動車への展開が飛躍につながった?

「なぜ、オートバイから軽自動車へ広がったかというと、オートバイのエンジン排気量が当時大きくても250ccくらいでした。360ccの軽自動車は言ってみればオートバイのエンジンに四輪車の車体をつけたようなもの。「近さ」を感じていました。トヨタや大手さんは既に四輪車をつくっていましたので、二輪から四輪の世界へ飛び込んだ私どもは四輪では最後発でした。ですから分相応なクルマである軽自動車を中心に考えたのです」

「振り返ると、創業者や二代目が織機からオートバイや自動車に目を付けたのは先見の明がありました。わたしは実質三代目の社長ですが、基礎を作った初代と二代目が敷いた道を大過なく歩み続けてきただけです」

「軽」の評価が時代とともに変わった

——とはいえ、軽自動車の分野では1973-2006年まで34年間、連続「日本一」を維持されました。業容が飛躍的に拡大したのは鈴木会長の手腕によるのでは…。

「それは、時流に乗ったからと言えます。当初は、『軽なんてクルマじゃない』という時代がありました。『小さい車がウロウロすると邪魔だ。軽なんてやめてしまえ』という意見もあって、軽は風前の灯でした。ところが、『軽なんて邪魔だ』と言っていた時代から、『軽でも良いから...』という時代になり、それが『軽で十分ではないか』となり、さらに『軽のほうが小さくて性能がいい。大きいクルマは必要ないよ』という具合に、軽の評価が時代とともに変わりました」

「魚のスズキは“出世魚”といわれます。成長に伴って名前が変わる魚ですが、軽もそれと同じです。比較的所得の少ない人たちにとっては軽は手ごろで、軽のほうがいいではないか、と軽の評価が上がった。われわれの力では軽自動車しかできないのですから、他社のマネをせず必死で軽を守り、小さいクルマをコツコツと作ってきたわけです」

「軽」への参入は二輪車戦争を避けるためだった

——農村地域など地方では軽の人気は根強く、どこも足代わりの存在ですね。

「社長就任の翌年、1979年に社運をかけた軽自動車アルトを破格の47万円で発売したのですが、これがバカ当たりしました。それを機に本格的に、社業の柱はオートバイから軽自動車に変わりました。あのころ実は、ホンダ・ヤマハ両社がオートバイで熾烈な競争、いわゆる“HY戦争”を繰り広げていました。3番手を走るスズキは、その余波を受けたら大変だと思い、二輪から夜逃げしたんですよ(笑い)。逃げた先が四輪車(軽自動車)だった。逃げるが勝ち…ということで、命拾いしたスズキと軽が合わさって、軽はその後、伸びました」

スズキ歴史館に展示された地方で活躍する軽トラック

インドでの販売台数は日本国内を上回る

——海外展開も積極的に進められてきましたが…。

「国内で軽を売りながら、海外でもつくるというのは、案外、冒険でした。インドでは今年120万台を生産してナンバーワンです。日本国内の90万台を上回っている。インドは人口13億人の市場ですが、1人当たりの所得も少ないので小さな低価格のクルマに人気があります。小型車の1200~1300ccも売れていますが、半分は1000cc以下のクルマです」

「パキスタンでも数は少ないですが販売台数1位です。私がインドもパキスタンも開拓して工場を建設しましたが、両国とも政府との合弁で文字通り国を挙げてのご支援を得て成功した例です。あとはハンガリーや後発ですがインドネシア、タイなどでも展開していますが、元々オートバイの輸出をしていたので、海外に対する抵抗は案外少なかったと思います」

スズキが狙う市場はアジア諸国が中心に

——海外事業については今後も積極展開ですか?

「オートバイは北米中心に輸出し、欧州やアジア、それにアフリカ、中南米にも展開してきましたが、先進国を中心に世界を一周してみて反省したのは、うちが目指す四輪車市場はやはりアジア地域だということでした。トヨタ自動車など大手さんが北米や欧州を狙うのは戦略として正しいのでしょうが、うちのような中小企業の力では、北米や欧州の先進国より、頼りになるのはアジアです。そこを中心に力を入れていきます」

「アジアの皆さんと仲良くしていけば、それが商売につながる。北米の人口規模は3億人程度、欧州連合(EU)地域は4億人くらいでしょうか。これに対し、中国は14億人、インドは13億人、ほかにも1億人級の国がインドネシアやフィリピンなど日本以外にも多い。世界の人口の半分はアジアですから、チャレンジをすればまだまだいけると思いますね」

——自動車産業は今後も日本経済を牽引していけますか。

「この10年間で、中・韓メーカーに取って代わられてしまった家電産業に比べて、自動車産業はまだまだ何とか世界をリードできる地位を維持していることは紛れもない事実です。しかしながら、中国の自動車市場に目を向けてみると、全体市場2,000万台のうち、GM、VW、トヨタや日産といった海外の大手メーカーが占めるのは500万台に過ぎず、残り1,500万台は地場メーカーが生産していることが判ります。中国の自動車メーカーが急速に力をつけていることの表れです」

「韓国の自動車メーカーも同様に、現代自動車などは日本メーカーに肉薄していますが、まだかろうじて品質面で負けていないと思っておりますので、あと10年は何とか世界をリードできるかもしれません。しかし、その次の10年も同じように世界をリードしていくためには、更なる努力が必要だと思います。例えばスズキの場合、研究開発部門を日本とインドに設置しています。いつまでも日本人がやるのではなく、インド人による生産・販売・経営への転換を図り、言わば『地産地消』を進めることで競争力を高めていこうと考えているのです」

「企業というのは、いつかは(他社に)追いつかれる。それが分かっているから一歩でも先をいく努力を続ける。そうした研究心や探究心を日本人が持っている限りはいいが、その意欲がだんだんなくなりかけてきているのではないでしょうか。ただ、青色発光ダイオード(LED)の発明でノーベル物理学賞を受賞した天野浩名古屋大学教授も浜松の出身ですが、他人がやらないことやあきらめたことをやるという気合、根性を持った、あの人たちがいる限り日本は安泰です」

スズキ歴史館を見学する小学生たち

軽自動車税アップは弱い者いじめ

——来年4月から新車分の軽自動車税が引き上げられますが。

「軽の税金はこれまで、小型車に比べ比較的安かった。小型車の分類に入らないようエンジン排気量から車体の長さ、幅、乗車定員まで制限された中で、技術者たちが努力し続けてきた結果、軽自動車の性能はよくなった。技術者の努力は並大抵ではなかった。ところが、軽が認められた途端、軽の税率が安い…と言い出すのは弱い者いじめ、強者の論理ですよ」

「国際比較すると、自動車に関する税金は先進国では1万円以下が普通ですよ。インドでは車検もなければ保有税もない。自動車の税金が高い日本は、新興国並みですね。例えば、100万円のダイアモンドは8%の消費税がかかるだけなので108万円で買うことができますが、軽自動車の場合、税金やら何やらで125万円くらいかかる。ダイアモンドと軽自動車のどちらが日本経済に貢献しているか、ということをよく考えて欲しいですよね」

東京にいなくても世界の情報は入る

——スズキは創業地・浜松市に本社を置き、世界的な事業展開をしていますが…。

「ぼくは昔、おやじ(2代目社長)に本社を東京へ移したらどうか、と提案したことがあるんです。東京なら世界の情報が多く入るし…。そうしたら、おやじはこう言いました。『それはやめとけ。お前も俺も養子(娘婿)の立場。創業者が浜松で会社を興したのに、婿が本社を東京へ移すなんていったら、何を言われるかわからない』と。30年くらい前の話ですが」

「今になって考えると、外国で戦争が勃発しても、テレビの同時中継でどんどん情報は入ってくる。また(インターネット時代となり)情報発信は東京でなくてもできます。東京へ行く必要があれば、浜松からは新幹線で1時間半です。簡単に日帰りできる地の利もあります。多い時には月に10日は東京へ行きます」

「地元とは運命共同体である、と考えています。ホンダは東京に行きましたが、ヤマハとスズキは浜松に残っている。無理に一極集中する東京へ移る必要はない。風光明媚・気候温暖のこの地なら、何かとコストもかかりません。うちの従業員は作業服のまま出勤してきますよ。これからも地元とは仲良くしていきたいと思っています」

生涯現役をモットーに

——来年1月で85歳ですが、本当にお元気ですね。健康の秘訣は?

「何もないですよ。丈夫な身体をくれたおやじとおふくろには感謝です。今も週一回程度、ゴルフをしますが、カートには乗らず歩いています。健康で食欲も旺盛。肉の食べ過ぎで太り気味なのが悩みのタネです。皆さんから『元気ですね』と言われると、忙しくて死ぬ暇がないと答えています。“生涯現役”で走り続けますよ」

(インタビューは2014年11月5日、浜松市のスズキ本社で)
文・写真=原田 和義(一般財団法人ニッポンドットコム・シニアエディター)

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