「紅の豚」に憧れたシャイなロマンチスト——エアレースパイロット・室屋義秀

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2009年に世界最速のモータースポーツとも言われるレッドブルエアレースにアジア人として初めて参戦。トップパイロットまでの道のりを語った。

室屋 義秀 MUROYA Yoshihide

エアショー、レッドブル・エアレースパイロット。1973年生まれ。大学のクラブ活動でグライダーに乗りその後プロを志しアメリカで訓練を受けた。現在、国内では福島市を拠点としてエアロバティックス(曲技飛行)のエアショーパイロットとして各地を飛び、曲技飛行協議会の開催をサポートするなどスカイスポーツ振興のために精力的に取り組む。2015年5月に日本で初開催されたエアレースワールドチャンピオンシップ千葉大会では好タイムを出し健闘、8月の英アスコット大会では通算2度目の3位に入賞した。

“Sky is the limit?”

「挫折なんて、毎月のようにしてましたよ」「トレーニング? 特にハードとかじゃありません。当たり前のことです」

世界最速のモータースポーツシリーズと言われるレッドブル・エアレースのアジア人パイロット第1号、室屋義秀(42)の話を額面通りに聞いていると、何で彼がここまでたどり着くことができたのか不思議になる。彼の公式サイトは「Sky is the limit !」と豪快に打ち上げているのだが。照れもあってか、投げやりとも聞こえるコメントの多さに戸惑わされた。

「計画?そんなものなかったですね。アメリカで訓練を受けていた時も日本でバイトして稼げるだけ稼いで、(その資金で)いれるだけいるという感じでした」

アニメのガンダムやスタジオジブリのアニメ映画「紅の豚」のヒーローに憧れ、飛行機に乗りたいと考えたごく普通のサッカー少年だった。

1991年、晴れて大学に入学し憧れの航空部に。初めてグライダーに乗って空を飛んだ室屋はスカイスポーツの魅力に取り憑かれる。93年に渡米して小型飛行機の免許を取得。エンジン付きに加え教官免許まで取った。国内では学生にグライダーを教えるかたわら、自身もオーストラリアで長距離飛行技術を学び、国内で選手権に出場するなど、腕を磨いていた。学生向けに教え始めたころには操縦テクニックに自信がつき、曲技飛行のまね事をするまでになっていたという。

そして1995年、曲技飛行の大会「ブライトリングワールドカップ」が初めて日本で開催された。生まれて初めて世界最高レベルの曲技飛行を目の当たりにした室屋は強烈なショックを受ける。

「自分がやってきたこととあまりにも次元が違ってました」

とんでもなく素晴らしいものを目の前に突きつけられた衝撃が静かな負けん気に火を点ける。

「教官をして自信のあるつもりでいたが、あまりの技量の差だった。パイロットとして登り詰めるならこういう世界だな、と」「まったく手が届かない。どうやっているのか、想像もつかなかったですね。まるでお月様を見て、恋しちゃったようですかね」

また、月の話だ。お月様に向かって恋を語るならかぐや姫も出てきそうだが、こちらにはもう少し時間が必要だった。このころ、この男の眼中には、お月さまそのもの、むさ苦しい男性パイロットたちが操る曲技用単発機しか見えなかったようだ。

そしてその恋を成就するための旅、月の神様が出した難題を満たすための旅が始まった。

ガテン系バイトでプロの飛行機乗り目指す

日本にはそもそも曲技飛行を教える学校がなかったため97年、アルバイトで貯めた資金だけで単身渡米しパイロットスクールに通うことにした。室屋にとってはそのための資金がまず大きなハードルとなった。選択肢はヨーロッパにもあったが、「ヨーロッパよりも学費が安い」という理由でアメリカに。しかし技量はもちろん、費用から機体の性能差まで、ハンディはいくらでもあった。現地では、手持ちの資金が足りないとなれば、訓練機の機体を磨いて1時間分搭乗させてもらうなど、あらゆる智慧と手段を駆使し訓練に打ち込んだ。

「この時のビザでは現地でアルバイトもできないので、お金がなくなると日本に戻ってきてはアルバイトを繰り返す生活でした。時給のいいものは何でも、工事から荷物運びから宅配便まで、だいたい肉体系で。昼と深夜、何でもやりました」

アメリカでの訓練資金を貯めるため、休む間も惜しんで働いた。月に最大で500時間くらい働き、50万~60万円程度稼いだ時もある。寝る時間もほとんどなかったというこの頃、体力には自信のある室屋もさすがに「疲れて元気がなかった」という。

尊敬するアクロバット飛行教官の死

同年10月には世界有数のアクロバティックス教官である師のランディー・ガニエが練習中に墜落死する事故に直面。想像だにしていなかった身近な人間の、しかも尊敬する師の事故死による恐怖、次から次にやってくる困難、挫折を乗り越えここまでやってくるにはさぞかし大きな夢、遠大な計画があったに違いないと思って水を向けると、冒頭の「計画、そんなものなかったですね」という返事が返ってきた。

具体的にどう実現するという計画ではなく、とにかく操縦技術を向上させ世界の第一線パイロットが月のような場所で見ている景色が一緒にみてみたいという若者らしい想いしかなかったというのである。

そこまで費用も時間もつぎ込んでも、スクール後には何が待っているというわけでもなかった。曲技パイロットとしての仕事のオファーはなく、関係企業に採用してもらえるわけでもない。

「自ら飛行機を持っていないと何も始まらない。購入しないと」と考えて、全額借り入れで最初の機体(スホーイ26)を約3000万円の大金を投じ買ってしまった。後からスポンサー探しをする、自分を追い込んでからがんばる無鉄砲さが室屋の真骨頂かもしれない。

2003年、室屋の活動拠点となるNPO法人ふくしま飛行協会を設立。同じ年、レッドブルエアレースが始まり世界の著名パイロットが参戦していく。「(野球の)リトルリーグがメジャーリーグに挑戦するようなもの」と思いながらも、最高レベルの大会が遠くに見えた室屋に新たな目標ができた。

06年、エアレースを主催する飲料メーカーのレッドブル社が日本進出、07年には室屋のスポンサーに加わり、レースが急速に身近な存在になった。08年には同社に頼み込んで7ヶ月近くもトレーニングキャンプを敢行し09年には念願の1000分の1秒台を争う夢舞台への参戦を果たした。

そうした中で迎えた2011年の東日本大震災。拠点にしている福島市の飛行場も滑走路にひびが入るなど大きな被害を受け、“挫折慣れ”していた室屋も再び、本気で曲技パイロット断念を考えた。しかし、ふくしま飛行協会を中心とした仲間たちはむしろ彼を支え送り出してくれた。

初の自国開催でスイッチに点火

本来は不言実行型の寡黙な男とみられがちな室屋だが、今年5月初の自国開催となった千葉市での「レッドブル・エアレースワールドチャンピオンシップ2015千葉大会」の前から努めてメディアの取材に応えるようにしてきた。

大会前にも、チューンナップもまったく整っていない新型機「Edge540 V3」に手こずりながら、周囲、特に応援に来てくれる観客達の気持ちに水を射さないように、「場所を知っているし、本場のアドバンテージがある」「非常にいい状態ですがまだ99%なので100%に持って行きます」と前向きなコメントに努めた。

結果的に一度は大会最速の50秒779のタイムを出しながらも、2日目のノックアウト方式(1対1での勝ち上がり)による第2戦では加速が付きすぎてオーバーG(10Gの制限を超える)という痛恨のミスで涙を飲んでいる。

その後の2つの大会でも残念ながら表彰台の3位以内に入ることができなかったが、気落ちする風はみられない。

「悔しくなかったかというと、当然悔しかったですよ。でも実際はまだ新機種の機体をこれからテストして来年に導入する予定でした」「千葉の結果に『満足』と言うと怒られるが、チームとしては千葉で新機体をデビューできたこと、その性能の一端が出せたことは十分な成果だったと思ってます」

「来年はチャンピオンシリーズで優勝するのが目標です。そのためには目先の表彰台ではなく着実に勝てるシステムを作り上げる必要があるんです」

2014年の第2戦で1度経験しただけの3位内入賞よりも1段も2段も上にある年間チャンピオンを目指すという。

「計画も目標もなかった」「毎月挫折していた」という、正直すぎるシャイな男がここまで言い切るのはよほどの覚悟だ。夢に向けた第2弾の打ち上げスイッチが千葉大会で点火されたに違いない。

「きちっと(新機体のセッティングを)固めれば表彰台はすぐ手の届くところに来ている。今年の最終3戦はかなり固めた感じで行けるだろう」

このインタビュー後、8月中旬に英アスコットで開かれたシーズン第5戦で室屋は参戦以来2度目の3位入賞を果たし、今季初の表彰台に立ちシャンパンファイトを味わった。年内のオーストリアのスピルバーグ(9月5、6日)、米フォートワース(9月26、27日)、ラスベガス(10月17、18日)でのレースが期待される。

(インタビューは、東京・渋谷区のレッドブル・ジャパン本社内で実施。聞き手:ニッポンドットコム編集部・三木孝治郎)

バナー写真:室屋義秀氏

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