アレックス・カー:さらなる上質の日本を体験してほしい

文化

アレックス・カーは、日本各地の古民家をよみがえらせ、地域振興につなげてきた。東洋美術に対する深い教養に根ざした批評精神で、次世代のツーリズムを切り開く同氏に日本観光のさらなる可能性を聞く。

アレックス・カー Alex KERR

東洋文化研究者。NPO法人「篪庵トラスト」理事長。1952年、米メリーランド州生まれ。12歳で父の赴任に伴い初来日。74年、イェール大学日本学部卒業。イェール大在学中、慶應義塾大学国際センターに留学。その後、オックスフォード大学で中国学を学び77年に卒業。同年、日本に移住。98年、徳島県の祖谷を拠点に「ちいおりプロジェクト」を発足。後にNPO法人「篪庵トラスト」に改組。2005年、タイ・バンコクに「オリジン・アジア」を設立。主な著書に『美しき日本の残像』(新潮社/朝日文庫)、『犬と鬼』(講談社)、英語版『Dogs and Demons』、『ニッポン景観論』(集英社新書)、『もうひとつの京都』(日本語版と英語版・世界文化社)など。

徳島県の祖谷(いや)は、険しい山並みに囲まれた四国の山間部の中でも秘境中の秘境として知られている。アレックス・カーは過疎化が進んだこの山里で、住む人がいなくなった茅葺き屋根の古農家を一棟貸しの宿泊施設として再生し、これまでにない画期的な旅の体験を打ち出してきた。

祖谷のほかにも、五島列島の長崎県小値賀町(おぢかちょう)、古い商店街が残る香川県宇多津町(うたづちょう)、奈良の秘境と呼ばれる奈良県十津川村(とつかわむら)など、その地ならではの再生プロジェクトを手掛け、観光を核にした地域振興につなげてきた。現在も、岡山県、静岡県、そして自身の住まいがある京都府亀岡市などで、多様なプロジェクトに取り組んでいる。

アレックス・カー  舞台としているのは、いずれも前世紀に高度経済成長から取り残されて、「過疎」「時代遅れ」と呼ばれてきた地域です。「よく、そんな場所に目を付けたね」と言われるのですが、日本中の駅前が「便利」「効率」というかけ声で画一化されたからこそ、不便さが大きな価値に反転するのです。そういう場所は開発の手が入らなかったから、その地ならではの景観や建築物が、手付かずで残っています。

ただし、僕が行っているのは文化財の保存ではありません。古い建物が内包する暮らしの文化を受け継いで、今の世の中に生かしていく——そこには、地元の雇用や観光収入など、経済の活性化も含まれます。高い質をもって、「文化」だけでなく、「経済」にも目配りすることが大事なのです。

祖谷では、山の中腹に点在する古農家8棟を改修しました。事業主は地元自治体で、原資は国と地方自治体から交付される補助金です。要するに公共事業ですが、日本で悪名が高いハコモノ事業とは、全く違うやり方に挑戦しました。

例えば祖谷の古民家では、黒光りする板張りの床は、畳敷きがなかった時代の様式を踏襲し、古い梁(はり)や柱などもそのまま活かしました。一方で、水回りと暖房、断熱に関しては現代のテクノロジーを取り入れました。昔ながらの様式の継承と、現代の快適性を徹底することで、日本ならではの景観を次の世代につなげることができるのです。

祖谷の「篪庵」の外観と内観。板張りの座敷には、昔ながらの囲炉裏がある。一棟貸しで家族連れにも人気だ ©Alex Kerr

祖谷との出会いが人生を変えた

古民家再生プロジェクトは、アレックスが代表を務める「篪庵(ちいおり)有限会社」が資金面を含めた全体の枠組みを構想し、彼が理事長を務めるNPO法人「篪庵トラスト」が、完成後の運営を担当する。その方式を編み出すまでには、実に半世紀を費やした。長年の日本体験があったからこそ実現できたシステムだ。

アレックス  最初に日本に来たのは1964年、12歳の時。米軍の弁護士を務める父の赴任に伴って、家族で2年間、横浜に暮らしました。その時に忘れられない体験をしました。母に連れられて、元町にあった骨董(こっとう)店に行ったのですが、古伊万里の皿が荒縄からほどかれる光景に、いいようのない神秘を感じたのです。

そこから僕は日本が大好きになって、米国に戻った後も、インスタントラーメンをせっせと食べたりしていました。とにかく、どんなものからでも、日本を感じたかったから。

当時、日本学部を設けているのはイェール大学しかありませんでしたので、日本をもっと知りたい一心で、一生懸命、勉強して入学しました。在学中に、慶應大学に留学して、日本語を学ぶ機会も得ることができました。でも、留学中はヒッチハイクで日本中の秘境を旅することに夢中で、ほとんど学校には行きませんでしたね(笑)。

祖谷に出会ったのは、その頃です。経済成長の最中で、急峻な山合の集落は過疎がひどかった。でも、空き家に入ってみると、内部には静謐(せいひつ)で豊かな闇が息づいていた。そこから外に出た時、目に飛び込んできた光とのコントラストは、今も記憶に鮮やかです。対岸の山には霧がかかっていて、ここは仙人の住み処じゃないかと、すごく感銘を受けました。

名所「かずら橋」は、祖谷の秘境ぶりを伝える

祖谷に通い詰めて、100軒以上の古民家を探検しました。ある日、ついに理想の1軒に出会い、父の友人から借金をして、38万円でその家を買うことができました。その後、日本はバブルで不動産がどんどん値上がりしましたが、祖谷の家だけは値下がりしていきました(笑)。

それが、今も僕が祖谷で拠点にしている「篪庵」です。「篪」は竹でできた笛のこと。日本古来の楽器で、僕はその繊細な音色にこよなく引かれます。今の日本では誰も知らないかもしれませんが…。

京都を拠点に伝統文化を探訪

アレックスは、イェール大卒業後にローズ奨学金を得て、英国のオックスフォード大学に留学。今度は中国学を専攻した。卒業後、1977年に京都・亀岡で宗教法人「大本」国際部に、文化スタッフとして採用されて、日本暮らしが本格化する。亀岡で見つけた家は、天満宮の境内に立つ築400年の木造平屋。かつては尼寺だったという建物で、今もそこを京都の拠点として住み続けている。

アレックス  見つけた時は幽霊が出そうな「あばら家」。持ち主の案内で中に入ると、蜘蛛(くも)の巣だらけで、床もぶかぶか。縁側の雨戸を開けようとしたら、板が朽ちていたせいで、全部がバラバラと外に倒れてしまいました。

でも、その瞬間があったから、僕はその家を借りる決心をしたのです。雨戸の先には、苔むした奥庭と、その先にある森と渓流の光景が広がっていました。それを見て、「なんて、すばらしい家なんだろう」と心打たれてしまったのです。

そこからは、大本での仕事とともに、仕舞い、書道、茶道と、さまざまな日本文化にのめり込んでいきました。坂東玉三郎さんの歌舞伎の舞台に魅せられて、南座の楽屋を訪ねたことから親交が始まったのも、この頃です。

時間があれば、京都の町中で古書店、骨董屋めぐりをする

時代はバブルの直前。当時、京都の町中では江戸時代の書が二束三文で売られていました。それらを買い集めるうちに、古美術売買の場にも出入りするようになりました。

祖谷では煤(すす)だらけになって、茅葺き屋根の葺き替えにいそしみました。好きで始めたこととはいえ、重労働です。でも、この家に惚れ込んでしまったので、何とか耐えることができた。自分でも物好きだと思いましたが…。

土木工事が日本の景観を破壊

同時期に、友人の紹介で米国最大の不動産会社「トラメル・クロー」日本代表の職を得て、文化交流から実業の最前線にも活動の場を広げた。しかし、バブルが過ぎ去った90年代、ふと周囲を見渡すと、アレックスの愛した日本の風土は激変していた。

アレックス  僕が日本暮らしに傾倒した70年代は、日本全体が列島改造ブームで経済構造が土木工事に依存するようになった節目でもありました。

地方創生と、雇用確保の掛け声の下で、秘境と呼ばれる地域にまで立派な道路が通り、巨大な駐車場が造成され、山や川には大量のコンクリートが流し込まれました。そこには、書画や骨董に宿る、日本の繊細な美意識はありません。古い町家が残る京都の旧市街でも、周囲にそぐわない建物がどんどん建って、調和の取れた街並みは急速に崩壊していきました。

日本は世界でも有数の教育大国で、美しい国土や文化遺産を持っています。それなのに、なぜ、貴重な資産を損なう方向に突き進むのか。調べてみると、日本の土木工事の、いびつな在り方が見えてきたのです。

その時の調査では、国の歳出予算のうち公共事業が占める割合は、英国やフランスが4〜6%、米国が8〜10%でしたが、日本は40%にも上っていました。土木利権を中心にした国家構造は、一度でき上がってしまうと、変えることが難しい。

しかし、だからといって、諦めることはできませんでした。「国のシステムがダメだ」と言っているだけでは何も解決しません。もし、優れた日本、美しい日本がまだ残っているなら、それをリマインドして後世に伝えていくこと——それが気付いた者の役目なのです。

祖谷の古農家の改修工事。現場にはひんぱんに通い、工事に注文を付ける

愛憎相半ばする日本への思い

2000年代に、京都市内に残る町家を、一棟貸しの「体験型宿泊施設」に転換する試みを始めた。20年東京五輪・パラリンピックを前に、「民泊」の機運が高まる現在、京都でも町家活用が盛んに行われるようになっているが、その先駆として、初めてだらけの難問に取り組んだのだ。

アレックス  消防法や建築基準法、文化財関連の法律、宿泊関連の法律と、統括する官庁が違うさまざまな法律と規制が、新しい試みの前に立ちはだかっていました。たいていの人は、それを前にすると、嫌になってしまうと思います。「もういいや、古い家なんて保存しないで、さっさと新しくて快適な家に建て替えてしまおう」と。そうした気持ちもよく分かります。でも、「ここで妥協したらダメだ」と思って踏んばりました。

僕を支えていたものは「怒り」でした。

海外に出て、帰ってくるたびに、僕が好きだった日本の町並みや景観が壊れていく様子を目の当たりにして、絶望しか感じませんでした。「自分たちはアジアでナンバーワンの経済大国だ」などと日本人が思っている間に、他のアジアの国々の方が景観に対しても、観光産業に対しても、ずっと先進的な取り組みを行い、先に進んでいった。「なんで日本はこうなる」「なんで気が付かない」と、ものすごい怒りがこみ上げてきた。

僕の「師匠」だった日本美の目利き白洲正子さんは、厳しく怖い先生でした。その白洲さんから、ある時、言われたことがあります。

「愛しているなら、怒らねばならない」と。

その通りだと思います。だからこそ、その怒りは次につながるものへと転化されなければいけません。その思いが、古民家再生の原動力になり、ここまで続いているのだと思います。

グローバル化に伴い、固有文化の継承がさらに重要になる

京都市内の町家再生や、祖谷でのプロジェクトをきっかけに、各地で取り組んだ景観保持と地域活性化は、十数年を経て、高感度・上質な旅体験として、多くの人たちに支持されるようになってきた。国内市場の成熟と、インバウンド客の増加が、旅の多様化につながり、新たな価値観が生まれたのだ。それが、日本ならではの観光産業を後押しする。

アレックス  2005年にタイのバンコクにも拠点を設けてから、景観コンサルタントや文化イベントの企画も増えました。僕は幼年時代にナポリにも住んでいたので、イタリアにも縁があり、よく行きます。イタリアに限らず、ヨーロッパ各地、米国、中国、中東と、世界中をぐるぐると回る日々です。一つの場所に落ち着けない性分なのでしょうか。だからこそ、「日本に深く根ざしたい」という願いも強いのですが。

最近は古民家再生と同時に講演の依頼も増えて、さらに忙しくなりました。14年に出版した『ニッポン景観論』(集英社新書)では、日本に氾濫する電線、電柱、看板、コンクリート、ビニールシートといった眺めを、ブラックユーモアとともに指摘、批評しましたが、それに対する反響が、思いがけなく大きかった。

「僕のような外国人が言えば、反感も持たれるだろうな」と覚悟の上で敢えて出版したのですが、フタを開けてみたら、意外や意外、多くの方々から共感の声をいただきました。

講演会の後で僕に声をかけてくださった一人は、「日本の景観は昔と変わってしまっている。そう思いながら、具体的にどこに問題があるのか、なかなか言葉では表せなかった」と言っていました。

「外国の観光名所は殺風景だから、ニッポン流の景観テクニックで、賑やかにしてあげましょう」。ブラックユーモア満載のモンタージュ写真も、問題提起のために作った(『ニッポン景観論』集英社新書より引用 ©Alex Kerr)

景観批評、それも大好きな日本をやり玉に上げることは、本来ならやりたくないことです。だからこそ、ユーモア精神を交えて、興味を持っていただくように伝えていきたいと考えています。

古民家再生の取り組みも同じです。背景に、グローバル化に伴う国家間競争や産業構造の転換など深刻な課題があるからこそ、日本ならではの素晴らしい景観、街並み、建築、文化を継承していくことがとても重要になってくるのです。21世紀のグローバル社会は持続可能性を中心に動いていき、その延長線上に経済の成長があります。その一つのモデルとして、僕の取り組みもあります。これは、日本の将来を占う上でのささやかな試金石でもあります。

インタビュー中の筆者

インタビュー・文=清野 由美
撮影=楠本 涼

バナー写真=伝統的な舟屋が並ぶ京都府伊根町を訪れたアレックス・カー。彼がこよなく愛する日本の景観の一つだ。

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